第八十話 魔物学
身体強化の授業から数日後。
午後の教室に入ると、黒板には大きな絵が三枚貼られていた。
一枚目は、四本脚の獣。
二枚目は、長い尾を持つ爬虫類のような魔物。
三枚目は、エイルが見たこともない、六本の脚を持つ魔物だった。
「これ、魔物の授業?」
カイが言う。
「多分」
エイルは三枚目を見た。
「こいつ知らない」
「俺は全部知らない」
「一個目も?」
「見たことない」
「村の近くにいたよ」
「普通に?」
「たまに」
カイが少し嫌そうな顔をした。
「お前の村、怖くない?」
「普通だよ」
「それ村の普通だろ」
教師が入ってきて、話をやめた。
⸻
「今日から魔物について扱います」
教師は黒板の絵を指した。
「皆さんの中にも、実際に魔物を見たことがある者はいるでしょう」
かなりの数の手が上がった。
エイルも上げる。
「では、戦ったことがある者」
手が大きく減った。
レオンは上げている。
エイルは上げなかった。
村が襲われたとき、魔物を目の前にしたことはある。
だが、自分が戦ったとは思っていない。
「学校の周辺で行う実地訓練でも、いずれ魔物を扱います」
教室の空気が少し変わった。
カイがエイルを見る。
エイルも見返した。
「本物?」
「多分」
「嫌そうだね」
「そりゃちょっと怖いだろ」
教師が続ける。
「その前に、知っておかなければならないことがあります」
黒板に一つ書いた。
種類
「まず、何と遭遇したのかを知ることです」
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最初に扱ったのは、一枚目の魔物だった。
エイルの村の近くにも出る。
低い姿勢で走り、鋭い牙を持つ四足の魔物。
教師が質問した。
「この魔物について、知っていることは?」
何人かが手を上げる。
エイルも上げた。
「エイル」
「畑の近くに出ます。あと、夜に見ることが多いです」
「他には?」
エイルは考える。
「走るのが速いです」
「それから?」
「……それくらいです」
教師が頷いた。
別の生徒が言う。
「肉を食べます」
さらに別の生徒。
「群れになることがあります」
教師は黒板へ書いていった。
生息域。
活動時間。
食性。
群れの規模。
身体的特徴。
「エイル」
「はい」
「村では、これを何と呼んでいましたか?」
エイルが名前を答える。
教師は別の名前を黒板に書いた。
「地域によって呼び方が違います」
「違うんですか?」
「珍しくありません。同じ魔物に複数の呼び名がある場合もあれば、逆に似た魔物を同じ名前で呼んでいる場合もあります」
エイルは黒板を見る。
自分にとっては、昔から知っている魔物だった。
だが。
名前すら、場所によって違うらしい。
⸻
教師は二枚目の絵へ移った。
「では、これは?」
誰もすぐには答えなかった。
少しして、一人の生徒が手を上げる。
「沼地にいる魔物です」
「そうです」
教師は生息域を書いた。
「主に湿地帯。水辺から離れることは少ない」
続けて、身体の特徴や行動が説明されていく。
エイルはノートに書いた。
「尻尾が長いな」
カイが小声で言う。
「うん」
「噛むのかな」
「口あるから噛むんじゃない?」
「魚だって口あるぞ」
「魚も噛むのいるよ」
「そうなの?」
「いる」
教師がこちらを見た。
二人とも黙った。
⸻
三枚目。
六本脚の魔物。
教師が言う。
「これは北部の岩山周辺で確認される魔物です」
エイルは図書館で見た本を思い出した。
似た絵を見た気がする。
「特徴は?」
誰も手を上げない。
教師は説明を始めた。
岩場に巣を作ること。
昼間より夕方以降に動くことが多いこと。
縄張りに入った相手へ攻撃すること。
「では、この魔物と遭遇した場合、どうしますか?」
一人の生徒が答える。
「戦います」
「なぜ?」
「襲ってくるからです」
「必ず?」
生徒が止まった。
教師は黒板に大きく書いた。
距離
「縄張りに入った者へ攻撃する傾向があります。しかし、離れていれば追ってこない場合が多い」
別の生徒が言う。
「じゃあ逃げればいい?」
「状況によります」
また出た。
エイルはこの学校に来てから、この言葉をよく聞く気がした。
教師は続けた。
「すでに近づきすぎているなら、背中を向けて走ることで攻撃を誘発することもあります」
「じゃあどうするんですか?」
エイルが聞いた。
「距離と相手の状態を見ながら、ゆっくり離れるのが基本です」
「近かったら?」
「その場合は別の対応が必要です」
「どのくらいから近いんですか?」
「個体差があります」
「個体差?」
「同じ種類でも、すべて同じ行動をするわけではありません」
エイルは少し眉を寄せた。
「難しいな」
教師が笑った。
「だから学ぶんです」
⸻
授業の後半。
教師は黒板から三枚の絵を外した。
代わりに、一枚の地図を広げる。
学校の周辺地域だった。
街。
道。
森。
川。
小さな村。
エイルは身を乗り出した。
「この地域で確認されている魔物を考えます」
教師はいくつかの場所に印を付けた。
森の奥。
川沿い。
山の近く。
「では、この道を通って隣の街まで移動するとします」
一本の街道を指でなぞる。
「何に注意しますか?」
生徒たちが地図を見る。
レオンが手を上げた。
「この辺りは森に近いので、森から出る魔物を警戒します」
「そうですね」
別の生徒が川を指す。
「増水していたら、川沿いの魔物が移動しているかもしれません」
「可能性はあります」
エイルも地図を見る。
図書館で見た魔物の分布図に似ている。
「先生」
「はい」
「この印って、いつの情報ですか?」
教師がエイルを見る。
「良い質問です」
地図の端を指した。
そこに小さく日付が書かれていた。
「三か月前の調査を基にしています」
エイルが首を傾げる。
「今も同じなんですか?」
「分かりません」
「分からない?」
「魔物は動きますから」
教室が少し静かになった。
教師は続けた。
「巣が移ることもあります。数が増えることも減ることもある。天候や餌の状況で行動範囲が変わることもあります」
カイが言う。
「じゃあ、この地図だけじゃ分からないじゃん」
「その通りです」
教師はあっさり答えた。
⸻
「では、どうしますか?」
生徒たちが考える。
「新しい地図を見る?」
「新しいものがあれば、それも一つです」
「街の人に聞く」
「誰に?」
「……兵士?」
「いいでしょう。他には?」
別の生徒が言う。
「その道を最近通った人」
「それも重要です」
黒板に書かれていく。
兵士。
周辺住民。
商人。
旅人。
狩人。
「本に書かれた知識は重要です」
教師が言った。
「ですが、魔物を相手にするとき、それだけで十分だと思わないことです」
エイルは地図を見る。
三か月前。
村にいた頃なら、三か月などそれほど長い時間には思わなかった。
でも魔物の居場所を知るための情報として考えると。
「結構古いな」
「だな」
カイも地図を見ていた。
⸻
授業の終わり。
教師は今日の地図を畳んだ。
「魔物について覚えることは多いです。特徴、生息域、行動、弱点。それらはこれから学びます」
そして最後に言った。
「ただし、一番危険なのは、知っているつもりになることです」
教室を見渡す。
「去年ここにいたから、今年もいる。昨日いなかったから、今日もいない。この種類だから、必ずこの動きをする」
黒板に残った文字を消していく。
「知識は判断するために使うものです。判断そのものを代わりにしてくれるわけではありません」
授業が終わった。
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教室を出たあと、エイルはカイと図書館へ向かっていた。
「また図書館?」
カイが聞く。
「魔物の本借りてるから」
「休暇中に読んだんじゃないの?」
「読んだけど、今日出たやつ確認したい」
「六本脚?」
「うん」
「俺、食堂行く」
「じゃああとで」
二人が別れる。
エイルは少し歩いてから振り返った。
「カイ」
「何?」
「今日の夕飯、席取っといて」
「そこは忘れないんだな」
「うん」
⸻
図書館で、エイルは『地域別魔物分布』を開いた。
ページをめくる。
北部。
岩山。
六本脚の魔物。
「あった」
授業で見たものと同じだった。
説明を読む。
生息域。
行動。
危険性。
その下に、小さな文字がある。
調査年――
エイルの手が止まった。
「五年前?」
本をもう一度見る。
間違いない。
五年前だ。
本に書かれていることが、間違っているわけではない。
けれど。
今も全部同じとは限らない。
エイルはしばらくそのページを見ていた。
村にいた頃は。
魔物について知りたければ、サナや父に聞いた。
昨日どこで見た。
最近増えた。
今年はあの辺りに近づかない方がいい。
そういう話が、いつの間にか村の中を回っていた。
学校には、それよりずっと多くの知識がある。
本もある。
地図もある。
教師もいる。
それでも。
今そこに何がいるのか。
それだけは、古い本を開いても分からなかった。
エイルは本を閉じず、そのまま次のページをめくった。




