第八話 もう一つの村
男はしばらく息を整えていた。
雨が肩から滴り落ちている。
ベルンが家の軒下を指した。
「とりあえず入れ。話はそれからだ」
「いや、先に――」
「その格好じゃ風邪を引くぞ」
男は少し迷ってから頷いた。
エイルも当然のようについていこうとしたが、
「エイル」
ベルンに止められた。
「何?」
「家に帰れ」
「なんで?」
「雨が降ってるだろ」
「それだけ?」
「それだけだ」
絶対にそれだけではない。
けれど、ベルンはもう男を連れて歩き始めていた。
エイルはその場に残り、男が来た道の先を見る。
雨で遠くは白く霞み、何も見えない。
「……帰るか」
家へ戻ると、トーマが道具を直していた。
「誰だった?」
「知らない人」
「何の用だ?」
「魔物が出たって」
トーマの手が止まった。
「どこに」
「セドが来る方」
「何が出た?」
「そこまで聞けなかった」
「なんで」
「ベルンさんに帰れって言われた」
トーマは少し考えてから、また手を動かし始めた。
「なら、あとで分かるだろ」
「気にならない?」
「なる」
「じゃあ聞きに行かないの?」
「行ってどうする」
「聞く」
「ベルンが話してくれる」
「いつ?」
「あとで」
また待つ。
エイルは窓の外を見た。
「最近、そればっかりだな」
「何が」
「待つの」
ハインが帰るのを待つ。
ドルクが森から戻るのを待つ。
何がいるのか分かるのを待つ。
トーマは道具を削りながら言った。
「待てるときは待っとけ」
「なんで?」
「急いでも仕方ないときがあるからだ」
「でも気になるじゃん」
「気になるのと、何かできるのは別だろ」
エイルは少し不満だったが、言っていることは分かる。
今から一人で雨の中を走って、魔物を見に行けるわけでもない。
「エイル」
ミラが呼んだ。
「何?」
「薪」
「雨だよ」
「だから、昨日のうちに中へ入れておいてって言ったでしょ」
エイルは黙った。
忘れていた。
「……今から?」
「濡れきる前にね」
「はい」
結局、雨の中へ出ることになった。
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雨が弱くなったのは、日が傾き始めてからだった。
その頃、ベルンが村の男たちを集めた。
トーマも呼ばれた。
当然、エイルは呼ばれていない。
「俺も行っていい?」
「駄目」
「聞くだけ」
「駄目」
「なんで?」
「子供だから」
「それ理由になってないよ」
「十分だろ」
トーマは上着を羽織った。
「すぐ戻る」
「何の話だったか教えてよ」
「覚えてたらな」
「絶対覚えてて」
トーマは手を上げて出ていった。
エイルが扉を見ていると、リナが横に来た。
「行かないの?」
「行かない」
「なんで?」
「子供だからだって」
「兄ちゃん、子供じゃん」
「知ってるよ」
「じゃあしょうがないね」
「お前、父さんと同じこと言うようになってきたな」
「やった」
「褒めてない」
リナはなぜか嬉しそうだった。
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トーマが戻ってきた頃には、外はもう暗かった。
エイルは扉が開くなり聞いた。
「どうだった?」
「飯」
「先に教えてよ」
「腹減った」
「ハインみたいなこと言わないで」
トーマが笑う。
食卓につくと、ミラもすぐに聞いた。
「それで?」
トーマはパンをちぎりながら答えた。
「南の村だ」
「何があったの?」
「家畜がやられた」
エイルが身を乗り出す。
「灰牙?」
「たぶんな」
「何頭?」
「分からん」
「また?」
「見た奴がいないんだから仕方ないだろ」
トーマはスープを一口飲んだ。
「羊が二頭。それと犬が一頭やられたらしい」
ミラの表情が変わった。
「犬も?」
「ああ」
「村の中?」
「外れの方だ。家畜を入れてた柵が壊されてたらしい」
エイルは眉を寄せた。
「こっちに来てるやつと同じ?」
「まだ分からん」
「じゃあ、あの人はハインを呼びに来たの?」
「そうだ」
「でもハインいないじゃん」
「だから今日は帰った」
「何もしないの?」
「明日、ドルクが向こうへ行く」
「一人で?」
「向こうにも猟師がいる」
エイルは少し考えた。
「灰牙って、そんなにいろんなところにいるの?」
トーマが答える。
「元から森にはいる」
「でも最近、多くない?」
今度はトーマもすぐには答えなかった。
「そうかもな」
「なんで?」
「知らん」
「父さん」
「本当に知らん」
「考えてよ」
「飯を食わせろ」
ミラがエイルを見る。
「エイルも食べなさい」
「はい」
リナは話を聞いているのかいないのか、スープの中の豆を一つずつ匙で追いかけていた。
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翌朝。
ドルクが南の村へ向かうことになった。
エイルは村の入口までついていった。
「今日帰ってくる?」
「向こうで何もなければな」
「灰牙がいたら?」
「まず見る」
「倒す?」
ドルクは弓の紐を直しながら答えた。
「状況次第だ」
「またそれ」
「何がだ」
「ハインもすぐ『状況次第』って言う」
ドルクが笑った。
「便利だからな」
「大人ってずるい」
「お前も覚えとけ」
「でも、灰牙が一頭だけなら倒す?」
「それでも見てからだ」
「なんで?」
ドルクは少し考えた。
「羊を襲った一頭を見つけたつもりで、近くに五頭いたらどうする」
「逃げる」
「そういうことだ」
「じゃあ一頭しかいなかったら?」
「そのとき考える」
「やっぱりずるい」
ドルクは笑いながら歩いていった。
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午前中、エイルはトーマと畑にいた。
草を抜き、土を起こす。
最近は、仕事をしながら魔力を動かすことも増えた。
少し集める。
散らさないようにして、腕へ流す。
鍬を振る。
悪くない。
もう一度。
今度は、さっきより少し早く。
集めて、流す。
鍬を振る。
「……うん」
以前より、魔力を動かすまでの時間は短くなっている。
ただ、まだトーマとは違う。
父は鍬を振るたびに立ち止まったりしない。
そもそも魔力を使おうと考えているようにも見えない。
「父さん」
「なんだ」
「今、魔力使ってる?」
「またその話か」
「使ってる?」
トーマは鍬を振った。
「使ってるんじゃないか」
「やっぱり分かんないの?」
「いちいち考えてない」
「なんで?」
「使えてるからだろ」
エイルの手が止まった。
「……それかも」
「何が」
「父さんは、できるから考えないんだ」
「そうなのか?」
「父さんの話だよ」
「俺に聞くな」
エイルは眉を寄せた。
自分は、できないから考えている。
でも、考えているから少しずつできるようになっている。
なら、考えるのは悪くないはずだ。
たぶん。
「エイル」
「何?」
「手」
「あ」
また止まっていた。
トーマが笑う。
「考えると止まるの、直した方がいいぞ」
「分かってるよ」
エイルは鍬を振った。
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ドルクが帰ってきたのは、昼を過ぎてからだった。
村へ入るなりベルンを呼び、すぐに何人かの大人が集まった。
トーマも呼ばれた。
エイルはついていかなかった。
昨日追い返されたばかりだ。
代わりに家の前で、壊れかけた籠の紐を結びながら待つ。
しばらくしてトーマが戻ってきた。
「どうだった?」
「灰牙だった」
エイルは手を止めた。
「何頭?」
「分からん」
「……そればっかり」
「仕方ないだろ」
「足跡は?」
「かなりあったらしい」
「こっちと同じ?」
「たぶんな」
「同じ群れ?」
トーマが少しだけ表情を曇らせた。
「ドルクはそう見てる」
「南の村と、こっちに来てるのが?」
「ああ」
「そんなに動くの?」
「餌を探してるなら動くだろ」
「じゃあ、なんで森から出てきたの?」
トーマは答えなかった。
エイルも少し待ったが、答えは出てこない。
「分からない?」
「ああ」
今度はエイルも文句を言わなかった。
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その日の夕方、ベルンが一軒ずつ家を回った。
しばらく森には入らないこと。
子供だけで村の外へ出ないこと。
夜は家畜を柵の内側へ入れること。
畑へ行くときも、なるべく一人にならないこと。
「東だけ?」
エイルが聞く。
「いや」
「北も?」
「ああ」
「南も?」
「ああ」
「西は?」
「西もだ」
「全部じゃん」
「そういうことだ」
「じゃあ畑は?」
「昼間なら仕事はする。ただ、森の際には近づくな」
「俺も?」
ベルンがエイルを見る。
「お前は元から一人で村の外へ出るな」
「……そうだった」
ベルンは次の家へ向かった。
エイルは村の外を見た。
昨日までと、景色そのものは何も変わっていない。
畑があって、その向こうに森がある。
いつも見ている森だ。
それなのに、今日は少し遠く感じた。
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夜。
エイルは外へ出ず、家の中で魔力を動かしていた。
ミラに怒られないよう、椅子に座ったままだ。
少し集める。
右腕へ流す。
戻す。
今度は左腕。
戻す。
右脚。
左脚。
前より早い。
一度うまくいかなくても、やり直せばできる。
「兄ちゃん」
リナが隣から覗き込んだ。
「何?」
「またやってる」
「うん」
「楽しい?」
エイルは少し考えた。
「楽しい」
「石持ってないのに?」
「今日は外に出るなって言われたから」
「じゃあ何してるの?」
「動かしてる」
「何を?」
「魔力」
「見えない」
「俺には分かる」
「ずるい」
「何がずるいんだよ」
リナはしばらくエイルの腕を見ていたが、やがて飽きてミラのところへ行った。
エイルは目を閉じる。
集める。
流す。
戻す。
もう一度。
外では大人たちが見回りをしている。
灰牙が何頭いるのか。
なぜ森の外まで出てくるようになったのか。
ハインがいつ戻るのか。
まだ分からない。
エイルには、そのどれもどうすることができなかった。
だから今は、自分にできることを続けた。
少し集める。
流す。
戻す。
昨日より、ほんの少しだけ滑らかに。
何度か繰り返したところで、外から犬が吠える声がした。
エイルは目を開けた。
一度。
二度。
少し離れたところから、別の犬も吠える。
トーマが椅子から立ち上がった。
「父さん?」
「中にいろ」
壁に立てかけていた斧を取る。
ミラも手を止めた。
「何かあった?」
「分からん。見てくる」
トーマが外へ出る。
エイルは扉を見た。
追いかけようとは思わなかった。
今は、行ってはいけない。
それくらいは分かっていた。
しばらくすると犬の声は止んだ。
けれど、トーマはなかなか戻ってこなかった。




