第五十七話 出発まで
学校へ行けることが決まってから、一か月が過ぎた。
入学までは、あと一か月。
だからといって、毎日の暮らしが大きく変わったわけではない。
朝は仕事をして、昼も働く。夜になれば本を開く。
ただ、少しずつ準備することが増えていた。
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「リナ、水汲みに行くぞ」
「今?」
「今」
「重い」
「半分ずつ運べばいいだろ」
「兄ちゃんやって」
「俺、あと一か月でいなくなるよ」
「じゃあ一か月やって」
「そのあと困るだろ」
リナは露骨に嫌そうな顔をしたが、結局桶を持った。
井戸まで行き、いつもより少なめに水を入れる。
「これくらい?」
「最初はそれでいい」
リナが持ち上げる。
数歩歩いたところで、すぐに顔をしかめた。
「重い」
「腕だけで持とうとするからだよ」
「腕で持つものでしょ」
「そうだけど」
エイルは自分の桶を持ち上げてみせる。
必要なところへ少しだけ魔力を回す。
腕だけではなく、脚にも。
今ではほとんど意識せずにできる。
「こうやって、脚にも少し回すと楽」
「できない」
「やってみろよ」
「兄ちゃんみたいには無理」
言われて、エイルは少し止まった。
学校の試験では、右手、左足、両手と指示されて魔力を集めた。
簡単だと思った。
けれど、リナにはまだ難しいらしい。
「じゃあ、最初は腕だけでいいよ」
「いいの?」
「できるところから」
「学校行くまでにできる?」
「分かんない。でも急がなくていいだろ」
リナがまた歩き始める。
少しして、水が桶から跳ねた。
「あ、こぼれた」
「そのくらい大丈夫」
「減った」
「帰りに足せばいい」
「また来るの?」
「水なくなったらね」
「水、なくならなきゃいいのに」
「それは困るだろ」
「なんで?」
「……井戸から溢れるから?」
自分でもよく分からない返事になった。
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夜。
仕事と勉強を終えたあと、エイルは少しだけ魔力を動かしていた。
指先へ集める。
細く伸ばす。
曲げて、輪にする。
その中へ小さな輪を作り、さらに線を繋ぐ。
昔は丸一つ作るだけでも崩れていた。
今なら、もっと複雑な形まで保てる。
けれど、意味はない。
文字を真似したときと同じだ。
ただ、思った形へ魔力を整えているだけ。
線を一本増やす。
次に、反対側にも同じものを作る。
もう一本――
「あ」
崩れた。
形がほどけ、そのまま散っていく。
エイルは手を見た。
学校で見た魔術。
本屋で見た、輪と線と記号の図。
あれにも形があった。
けれど、自分が作っているものとは違う。
何が違うのかは、まだ分からない。
だからもう一度、さっきの形を作り始めた。
学校へ行くことが決まっても、これだけは前と変わらない。
面白いからやる。
それだけだった。
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さらに二週間が過ぎた。
入学まで、あと半月。
家の中には、学校へ持っていく荷物が少しずつ積まれ始めていた。
着替え。
筆記具。
本。
生活用品。
毛布。
トーマからもらった古い鞄。
「これ全部?」
エイルが聞く。
「まだあるよ」
ミラが答えた。
「まだ?」
「冬物」
「学校に着く頃はまだ寒くないよ」
「向こうで冬になるでしょう」
「あ」
必要になったら取りに帰る、という距離ではない。
馬車を乗り継いでも二週間ほどかかる。
「……多いな」
「減らす?」
「何を?」
「服」
「困る」
「毛布」
「寒い」
「じゃあ持っていくしかないね」
「だよね……」
結局、ほとんど減らなかった。
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出発まで十日ほどになった頃、トーマが町から帰ってきた。
手には紙を持っている。
「それ、馬車?」
「ああ」
エイルが受け取る。
最初の町。
そこから次の町。
さらに乗り継いで、学校のある街へ。
前に二人で通った道とほとんど同じだった。
「父さんも行く?」
「ああ」
「また?」
「荷物あるだろ」
エイルは部屋の隅を見る。
確かに、一人で全部運ぶにはかなり多い。
「帰りは一人?」
「俺がな」
「あ」
当たり前だ。
トーマは学校へ残らない。
前回は二人で行き、二人で帰ってきた。
今度はエイルを送り届けたあと、トーマだけでまた二週間かけて戻る。
「大変だね」
「誰のせいだ」
「学校が遠いせい」
「お前が行くからだ」
「じゃあ半分ずつ」
「何を」
「学校と俺」
「意味が分からん」
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あと一週間。
村の中で会う人から、何度も声をかけられた。
「もうすぐだな」
「はい」
「しっかり勉強してこいよ」
「はい」
「ちゃんと飯食えよ」
「食べます」
「街で騙されるなよ」
最後だけ少し違う。
家へ戻る途中、エイルはトーマに聞いた。
「俺、そんなに騙されそう?」
「かなり」
「なんで?」
「知らん奴に『珍しいもの見せてやる』って言われたら?」
「……ものによる」
トーマがすぐにこちらを見る。
「ほら」
「いや、今のは例えばの話で」
「母さんにも言っとくか」
「行かないって! 知らない人にはついていかない!」
「最初からそう言え」
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あと三日。
リナが少しだけ静かになった。
本当に少しだけだったが。
「兄ちゃん」
「なに?」
「学校行くの?」
「行くよ」
「知ってる」
「じゃあ何で聞くんだよ」
返事はない。
リナは、床に並べられた荷物を見ていた。
「いつ帰る?」
「休みになったら」
「いつ?」
「まだ分かんない」
「またそれ」
「学校行ったら聞くよ」
リナは鞄の横に置いてあった小さな木の板を見つけた。
エイルが文字や計算を書いたり、魔力で作った形を描き留めたりしていたものだ。
「これも持ってくの?」
「それは置いてく」
「なんで?」
「もう荷物いっぱいだから」
リナが板を持ち上げる。
「じゃあ、もらっていい?」
「いいよ」
「ほんと?」
「うん」
すぐに抱えて持っていこうとする。
「大事にしろよ」
「分かった」
たぶん落書きに使われる。
それでも、置きっぱなしにするよりはいい気がした。
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前日。
ようやく荷物が全部まとまった。
エイルは自分の寝る場所に座り、部屋を見回した。
窓。
壁。
本を置いていた場所。
毎日見てきたものばかりだ。
明日から、しばらくここで寝ない。
学校へ行きたい。
ずっとそう思っていた。
試験に受かって、金のことも何とかして、ようやく明日出発する。
嬉しい。
なのに、それだけではなかった。
「兄ちゃん」
入口にリナが立っていた。
「なに?」
「寝ないの?」
「もう寝る」
リナは入ってきて、布の横に座った。
「学校って楽しい?」
「知らない」
「行きたいんでしょ?」
「うん」
「じゃあ楽しい?」
「まだ行ってないから分かんないよ」
リナは少し黙った。
それから、小さな声で聞いた。
「帰ってくる?」
エイルは妹を見る。
「帰るよ」
「ほんと?」
「俺の家、ここだし」
リナの顔が少しだけ緩んだ。
「じゃあいい」
「何が?」
「学校行っていい」
「許可制だったの?」
返事はなかった。
少しして、また口を開く。
「兄ちゃん」
「なに?」
「魔術覚えたら、すごいやつ見せて」
エイルは笑った。
「覚えられたらね」
「一番すごいやつ」
「はいはい」
「絶対」
「分かったって」
ようやくリナが部屋を出ていく。
エイルは布へ入った。
目を閉じる。
すぐには眠れなかった。
試験を受けに行く前の夜も、こんな感じだった。
でも、今度は少し違う。
明日は、学校へ向かう。
今度は試験を受けて帰ってくるためではない。
そこで暮らすために。
エイルは寝返りを打った。
しばらくして、もう一度目を閉じた。




