第五十六話 入学まで
学校に受かったからといって、村での生活が急に変わるわけではなかった。
次の日も畑。
その次の日も畑。
朝は水を汲み、家畜の世話をして、昼は働き、夜になれば本を開く。
ただ一つ違うのは、何をしていても頭のどこかに「あと数か月」があることだった。
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「エイル! そっち終わったか!」
少し離れたところからトーマの声が飛んでくる。
「あと少し!」
返事をして、エイルは鍬を動かした。
土を起こし、邪魔な草を抜く。
いつもの仕事だ。
けれど、学校へ行けば、しばらくこの畑には来ない。
自分がいなくなれば、今までやっていた仕事は誰かがやらなければならない。
だから最近は、リナにも少しずつ仕事を教えていた。
「そこじゃない」
「ここ?」
「もっと根元」
「これ?」
「そう。それで抜く」
リナが草を引っ張る。
途中でぷつりと切れた。
「あ」
「切れたな」
「兄ちゃんやって」
「掘れば取れるよ」
「やって」
「学校行ったら俺いないぞ」
リナは土を掘りながら、何でもないように言った。
「じゃあ学校行かないで」
エイルの手が止まった。
「……行くよ」
「知ってる」
「じゃあ言うなよ」
「言っただけ」
リナはそのまま草の根を探している。
少しして、
「兄ちゃん、いつ帰ってくるの?」
と聞いた。
「帰って?」
「学校から」
エイルは答えようとして、止まった。
学校は遠い。
馬車を乗り継いでも二週間ほどかかる。
気軽に帰ってこられる距離ではない。
「……休みのときかな」
「いつ?」
「分かんない」
「じゃあ、いつ帰ってくるか分かんないの?」
「学校行ったら聞く」
「遅い」
「俺も今そう思った」
学校へ行くことばかり考えていた。
行ったあと、どれくらい村へ帰れないのかまでは、ちゃんと考えていなかった。
「手紙書くよ」
「私、そんなに読めない」
「母さんに読んでもらえばいいだろ」
「兄ちゃんが読んで」
「俺が送るんだから、ここにいないよ」
リナが考える。
「じゃあ無理じゃん」
「母さんに読んでもらえって!」
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夜。
エイルは学校からもらった紙を、また机の上へ広げていた。
入学日。
寮について。
必要な持ち物。
筆記具。
着替え。
生活用品。
授業で必要になるもの。
「これ、全部持っていくの?」
「必要って書いてあるならね」
ミラが横から答える。
「馬車だから大丈夫か」
「学校に着いたあとは自分で運ぶんでしょう?」
「……減らせる?」
「何を?」
エイルは紙を見る。
「着替えとか」
「減らしすぎたら困るのは自分だよ」
「じゃあ、それ以外」
「歯を磨く道具を置いていく?」
「それは持ってく」
ミラが笑った。
「じゃあ一つずつ考えよう」
全部を新品で揃える必要はない。
家にあるものは使う。
傷んでいるものは直す。
足りないものだけ買う。
トーマが昔使っていた鞄も、その一つだった。
「これ父さんの?」
「ああ」
革は古くなっているが、作りは丈夫だった。
傷んだ紐を取り替え、小さな穴はミラが縫う。
エイルは教えられた通りに革へ油を塗った。
「いつ使ってたの?」
「昔」
「何に?」
「仕事」
「どこ行った?」
「いろいろ」
「どこ?」
「エイル」
「なに?」
「手が止まってる」
「あ」
まただった。
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数日後。
ベルンに呼ばれ、エイルは村長の家へ行った。
「学校、受かったそうだな」
「はい」
「トーマから聞いた」
ベルンが笑う。
「この村から学校へ行く者なんて、いつ以来だろうな」
「前にもいたんですか?」
「俺が生まれる前にはいたらしい」
「そんな前?」
「俺も直接は知らん」
エイルが少し驚いていると、ベルンが机の上に小さな袋を置いた。
「ほら」
「何ですか?」
「持っていけ」
袋を開く。
中には硬貨が入っていた。
エイルはすぐに閉じた。
「いや、駄目です」
「何が」
「お金」
「見れば分かる」
「こんなの貰えないです」
ベルンは少しだけエイルを見た。
「俺一人が出したんじゃない」
「え?」
「お前が学校に受かったって聞いた連中が、少しずつ出したんだ」
エイルは袋を見る。
「なんで?」
「なんでって……」
ベルンが困ったように頭を掻く。
「お前が行きたいって言って、受かったからだろ」
村は大きくない。
金が余っている家だって、ほとんどない。
あの冬を越えてからも、暮らしが急に豊かになったわけではなかった。
それを知っているからこそ、簡単には受け取れなかった。
「返します」
「何を」
「学校行って、そのあと働いたら」
「誰も貸したとは言ってない」
「でも」
ベルンが袋をエイルの方へ押した。
「だったら覚えとけ」
「何を?」
「誰がいくら出したかじゃない。この村から出た金だってことを」
エイルは黙った。
袋そのものは、重くない。
それなのに、さっきより持ちにくくなった気がした。
しばらくしてから両手で受け取る。
「……ありがとうございます」
頭を下げた。
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家までの帰り道は、いつもよりゆっくり歩いた。
落としたくなかった。
家に着くと、そのままミラへ袋を渡した。
「これ、ベルンさんから」
事情を説明する。
ミラは袋を開き、中を確認したあと、しばらく黙っていた。
「そう」
それだけ言って、袋を閉じる。
夕方、トーマが帰ってきたので、もう一度説明した。
「そうか」
父もそれだけだった。
「二人とも反応薄くない?」
トーマがエイルを見る。
「じゃあ踊るか?」
「それは嫌」
「ならこれでいいだろ」
「そういう問題?」
ミラが笑った。
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その夜、三人でもう一度計算した。
学校へ行くために必要な金。
家から出せる分。
これから入学までに稼げそうな分。
そして、村のみんなからもらった分。
まだ余裕があるわけではない。
入学したあとも金は必要になる。
だから何でも好きに使えるわけではなかった。
それでも。
前とは違う。
「……行けそう?」
エイルが聞いた。
ミラはもう一度数字を確認した。
トーマも横から見る。
少し間があった。
「うん」
ミラが言った。
エイルは動かなかった。
「本当?」
「贅沢はできないよ」
「しない」
「必要じゃない本を勝手に買わない」
「……必要だったら?」
「相談」
「はい」
「お菓子も」
「そんな買わないよ」
トーマが口を挟む。
「街で買ってただろ」
「リナの土産だよ!」
「自分の分も食ってた」
「ちょっとだけじゃん」
ミラが笑った。
それから、もう一度言った。
「行けるよ」
今度は、ちゃんと意味が入ってきた。
学校へ行ける。
試験に受かったときは、嬉しかった。
でもあの時点では、まだ本当に通えるか分からなかった。
今度は違う。
エイルは机の上の案内へ目を落とした。
入学まで、あと二か月ほど。
「……長いな」
トーマが言う。
「二週間の馬車より短いだろ」
「そういう長さじゃない」
明日も畑へ行く。
仕事をする。
夜は勉強する。
リナにも、自分がやっていた仕事を少しずつ教える。
その生活を続けながら、学校へ持っていくものを一つずつ揃えていく。
あと二か月。
エイルはもう一度、入学日を確認した。




