第四十四話 村を出る日
三日後。
エイルは、いつもよりずっと早く目を覚ました。
外はまだ暗い。
隣ではリナが眠っている。トーマもミラも、まだ起きていない。
「……」
もう一度目を閉じる。
眠れない。
しばらくそのままでいたが、やがて家の中で小さな物音がした。
ミラが起きたらしい。
続いてトーマも身体を起こす。
エイルも布から出た。
「起きてたの?」
ミラが聞く。
「今起きた」
「嘘」
「なんで分かるの?」
「顔」
「顔で分かる?」
「母親だからね」
エイルは少し笑った。
父も母も、困ったときに使う言葉が似ている。
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荷物は昨日、何度も確認した。
それでも出発前に、もう一度広げる。
着替え。
布。
水筒。
途中で食べるもの。
何年も使ってきた本。
それから小さな袋。
旅に使う金はトーマが持つ。
「これだけ?」
エイルが聞くと、ミラが頷いた。
「それだけ」
「もっといる気がする」
「増やしてもいいけど、自分で持つんだよ」
「じゃあいい」
「早いね」
荷物をまとめ直す。
これを持って、本当に村を出る。
そう考えると、昨日まで何度も見た荷物が少し違って見えた。
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朝食は、いつもとほとんど同じだった。
パンとスープ。
それに少しだけ肉。
エイルはパンをちぎった。
食べる。
またちぎる。
自分でも分かるくらい遅い。
「兄ちゃん」
リナが言った。
「なに?」
「食べないなら肉ちょうだい」
「食べる」
「遅い」
「今食べるよ」
「じゃあ早く」
「なんでお前に急かされるんだよ」
リナは自分の肉をさっさと食べた。
トーマは普通に食べている。
ミラもいつも通りだった。
今日、村を出る。
馬車を乗り継いで、二週間ほど離れた街へ行く。
それなのに朝食は、いつもの朝と変わらない。
エイルも残っていた肉を口へ入れた。
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食事を終え、荷物を背負う。
肩へ重さがかかった。
「重い?」
ミラが聞く。
「大丈夫」
「魔力使ってる?」
「使ってない」
「ならいい」
「なんで?」
「今からずっと使って運ぶつもり?」
「そんなことしないよ」
「なら最初から普通に持って、どれくらい重いか知っておきなさい」
「……はい」
最近、母まで少し父に似てきた気がする。
そう思ったが、言うと面倒そうなので黙っておいた。
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外へ出る。
朝の空気は冷たい。
道の端には、まだ雪が少し残っている。
けれど冬の寒さとは違った。
土が見え、水が流れ、空気にも少し春の匂いが混じっている。
家の前で一度振り返る。
何年も見てきた家だ。
帰ってくるのだから、別に最後ではない。
それでも少しだけ見てから、エイルは村の中央へ向かった。
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セドの荷車は、もう来ていた。
「遅い」
エイルを見るなり、セドが言う。
「まだ出る時間じゃないよ」
「俺が来たら出発だ」
「そんなの聞いてない」
「今聞いたな」
相変わらずだった。
エイルは荷台を見る。
箱。
袋。
布。
いつものように商品が積まれている。
その隙間に、人が座れそうな場所が少しだけ空いていた。
「どこ座るの?」
「空いてるところ」
「狭くない?」
「歩くか?」
「座ります」
「なら問題ない」
二週間ずっとこれではない。
セドの荷車に乗せてもらえるのは途中の街までで、そこから先は別の馬車を探すことになる。
分かっている。
それでも、最初から思ったより快適な旅ではなさそうだった。
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トーマとセドが話し始める。
今日通る道。
雪解けの具合。
途中で泊まる場所。
次の街から先の馬車について。
エイルも横で聞いた。
これまでも、セドから道や街の話は何度も聞いている。
けれど今日は違う。
遠くのどこかの話ではない。
これから自分が通る道の話だった。
「エイル!」
呼ばれて振り返る。
ベルンが歩いてきていた。
その後ろにも、何人か村人がいる。
「本当に行くんだな」
ベルンが言った。
「試験だけだよ」
「分かってる」
「まだ受かってないから」
「それも分かってる」
「みんなそれ言うんだよ」
「お前がもう学校へ行くみたいな顔してるからだろ」
「してないよ」
ベルンが笑った。
「まあ、ちゃんと受けてこい」
「うん」
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ドルクも来ていた。
「街で森みたいに歩くなよ」
「どういう意味?」
「周りを見ろってことだ」
「見てるよ」
「村とは違う」
「そんな危ないの?」
「森とは違う意味でな」
「それ、余計怖いんだけど」
ドルクが少し笑う。
「最初は親父から離れるな」
「分かった」
ハインの姿はない。
最後に村へ来てから、かなり経っている。
今どこで何の仕事をしているのか、エイルは知らない。
村を助けたからといって、ずっとここにいる人ではない。
そういう仕事をしている人だった。
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「兄ちゃん」
リナが来た。
「なに?」
「お土産」
「まだ決めてなかったの?」
「決めた」
「何?」
「珍しいやつ」
「何が?」
「珍しいもの」
「広すぎるよ」
「村にないやつ」
「もっと広くなったじゃん」
リナは少し考えたあと、
「じゃあ任せる」
と言った。
「一番困る」
「おいしいのでもいいよ」
「それ最初から言ってよ」
「でも珍しい方がいい」
「どっちなんだよ」
リナは笑った。
それから少し黙る。
「兄ちゃん」
「なに?」
「落ちても帰ってきてね」
エイルの返事が一瞬遅れた。
「帰ってくるよ」
「受かっても?」
「一回帰ってくる」
「絶対?」
「絶対」
「じゃあいい」
リナは、それ以上何も言わなかった。
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ミラがエイルの前に立った。
いきなり襟元へ手を伸ばす。
「母さん?」
「曲がってる」
「別にいいよ」
「よくない」
襟を直す。
荷物の紐も確かめる。
「無理しないでね」
「うん」
「分からないことがあったら父さんに聞く」
「うん」
「荷物から目を離さない」
「うん」
「夜に一人で出歩かない」
「分かってる」
「知らない人についていかない」
「まだそれ言うの?」
「言うよ」
「ついていかないって」
「ならいい」
ミラは最後にもう一度、荷物の紐を引いた。
「……行ってらっしゃい」
エイルは母の顔を見る。
何か言おうとしたが、うまく出てこなかった。
結局、
「行ってきます」
と答えた。
それで十分な気がした。
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トーマが先に荷車へ乗った。
「エイル」
「うん」
エイルも荷台へ上がる。
荷物と荷物の間へ身体を入れる。
やっぱり狭い。
「セド」
「なんだ」
「これ、途中までずっと?」
「嫌なら降りろ」
「まだ出てないじゃん」
「歩くなら今が最後の機会だぞ」
「ここでいい」
「なら座れ」
エイルが荷物に挟まれるように座ると、トーマが少し横へずれた。
「そこ、揺れたら箱落ちてくるぞ」
「先に言ってよ」
「見れば分かるだろ」
「分かんないよ」
位置を変える。
今度は大丈夫そうだった。
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セドが手綱を取る。
馬が歩き出した。
がた、と荷車が揺れる。
車輪が土を踏む。
ゆっくりと村の景色が動き始めた。
家。
井戸。
畑。
何度も歩いた道。
エイルは自然に後ろを向いた。
リナが大きく手を振っている。
ミラも。
ベルンも。
ドルクも。
集まっていた人たちも手を上げていた。
エイルも手を振る。
「兄ちゃん!」
リナが何か叫んだ。
「何!」
「お土産!」
「最後までそれかよ!」
声が届いたのか、リナが笑った。
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荷車は村の入口へ向かう。
柵が見える。
灰牙に壊され、直した場所。
最初は周りと色が違っていた木も、何年か経ってずいぶん馴染んでいた。
その間を荷車が抜ける。
村の外へ出た。
道が続いている。
横には畑。
その向こうには森。
全部、見慣れた景色だ。
それでも今日は少し違って見えた。
「エイル」
トーマが言う。
「なんだ?」
「前見ろ」
「まだ村見てる」
「道は前だぞ」
「分かってるよ」
それでも、もう少しだけ後ろを見た。
家が小さくなる。
人の姿が分からなくなる。
柵が遠くなる。
最後に屋根が見えなくなった。
「……見えなくなった」
「そうだな」
トーマは前を向いていた。
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しばらく誰も話さなかった。
車輪の音。
馬の足音。
荷物が揺れる音。
森から聞こえる鳥の声。
エイルも、ようやく前を向く。
道はずっと先まで続いている。
この道を進む。
途中で別の道へ入り、別の馬車へ乗る。
知らない町を通る。
知らない人と会う。
その先に、学校のある街がある。
少し怖い。
けれど、それ以上に気になった。
「父さん」
「なんだ」
「学校がある街って、どれくらい大きい?」
「知らん」
「行ったことないの?」
「ない」
エイルは父を見る。
「父さんも?」
「ああ」
「じゃあ、二人とも初めて?」
「そうなるな」
なぜか少し嬉しくなった。
「何笑ってる」
「父さんも迷うかもしれないんだなって」
「お前だけ置いていくぞ」
「ごめん」
セドが前から笑った。
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昼前になっても、村はもう見えなかった。
エイルは荷台に揺られながら前を見る。
馬車を乗り継いで二週間ほど。
歩けば一月以上。
何年も地図の上でしか知らなかった距離を、今、自分で進んでいる。
荷車はそのまま、春の道を進んでいった。




