第四十話 何年か
冬が終わると、春が来た。
畑を耕し、種を蒔く。
暑くなれば草を抜き、水を運び、育った作物を守る。
秋には収穫し、食べる分と種にする分を分ける。
寒くなる前に薪を集め、また冬を越す。
そして春になる。
そんな一年を、エイルは何度か繰り返した。
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「エイル!」
「分かってる!」
「まだ何も言ってない!」
畑の向こうからリナの声が飛んできた。
エイルは麦の袋を肩に担いだまま振り返る。
「どうせ手伝えだろ!」
「違う!」
「じゃあ何!」
「母さんが呼んでる!」
「結局、何か手伝うんじゃん!」
「知らない!」
リナは言うだけ言って走っていった。
エイルはため息をつき、肩の袋を持ち直す。
昔なら、持ち上げる前に考えていた。
脚へ。
腰へ。
腕へ。
どこへ、どれくらい魔力を回すか。
今はもう、ほとんど考えない。
袋を持ち上げれば、身体が動くのに合わせて必要なところへ魔力を回す。
そのまま倉まで運び、
「よっ」
どん、と下ろした。
「これで最後?」
トーマが首を振る。
「あと二つ」
「まだあるの?」
「そこに見えてるだろ」
「見たくなかった」
「持ってこい」
「はい」
エイルは来た道を戻った。
背もかなり伸びた。
まだトーマには届かないが、もう「子供だから」と軽い仕事ばかり渡されることはない。
畑仕事。
薪割り。
水汲み。
柵の修理。
家畜の世話。
できることが増えた。
その分、頼まれる仕事も増えた。
以前、
「大きくなるって損じゃない?」
とトーマに言ったことがある。
そのとき父は、
「飯も増えるぞ」
と答えた。
それだけは悪くなかった。
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文字も、かなり読めるようになった。
最初に買った本は、もう何度読んだか分からない。
知らない言葉はまだあるし、難しい文章になると止まる。
それでも、一ページごとにミラを呼んでいた頃とは違う。
計算も同じだった。
セドが村へ来た日、エイルは荷台に並んだ品を見ていた。
「これ三つ」
「銅貨十二」
「一個三じゃなかった?」
「今日は四だ」
「なんで?」
「仕入れが高かった」
「前は三だったのに」
「前回来たときだろ」
「じゃあ三つで十」
「売らん」
「十一」
「十二」
「けち」
「商売だ」
昔なら値段を聞いて終わっていた。
今は三つならいくらか、自分で分かる。
値上がりすれば、それにも気づく。
「本は?」
エイルが聞く。
「ない」
「最近ずっとないじゃん」
「お前が欲しがるようなのはな」
「魔術の本は?」
「もっとない」
「一冊くらいあるだろ」
「何年言ってんだ」
「何年探してもないから言ってるんだよ」
セドが笑った。
「学校行った方が早いんじゃねえか」
エイルは一瞬だけ黙った。
「……そのつもり」
「そうか」
以前なら、そこから学校についていくつも質問したと思う。
どんなところか。
どれくらい大きいか。
何を習うのか。
今はもう、聞いてもセドには分からないことが多いと知っている。
行きたい。
それは変わっていない。
ただ、行きたいと言えば行ける場所ではないことも、もう知っていた。
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夜になると、エイルは家の裏へ出た。
これも、何年か続いている。
最初は文字だった。
線を一本。
そこへもう一本。
曲げる。
繋げる。
丸や三角を作り、そのうち文字とは関係のない形を作るようになった。
今、目の前に意識しているものは、もう何と呼べばいいのか自分でも分からない。
大きな輪の内側に、いくつもの線。
途中で枝分かれし、別の場所で繋がる。
小さな輪を加え、その外にも細い線を伸ばす。
一つ。
完成。
その隣に、別の形。
二つ。
さらに三つ目。
昔なら一つを保つだけで崩れていた。
今は三つ作っても、ほとんど揺れない。
四つ目。
五つ目。
右端が少し歪んだ。
「……」
そこだけ直す。
他は崩さない。
しばらく保ってから、エイルは息を吐いた。
何も起きない。
火も出ない。
水も出ない。
光ることすらない。
ただ、自分で考えた形を魔力で作っているだけだ。
「兄ちゃん」
後ろから声がした。
「なに」
「まだそれやってるの?」
「悪い?」
「何にもならないのに?」
「うん」
「飽きない?」
エイルは少し考えた。
「昨日より難しいの作れるから」
「何年やっても同じこと言ってる」
「お前も何年経っても邪魔しに来るな」
「暇だから」
「母さん手伝えば?」
「嫌」
そこは本当に変わっていなかった。
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「兄ちゃん」
「今度は何?」
「学校行くの?」
エイルの意識が一瞬だけ形から外れた。
端が少し歪む。
すぐ戻す。
「行きたいよ」
「いつ?」
「知らない」
「まだ?」
「まだ」
「ずっとまだじゃん」
「仕方ないだろ」
リナが隣へ座った。
以前より背が伸びている。
もちろんエイルも伸びているので、差がどうなったのかはよく分からない。
「試験あるんでしょ?」
「ある」
「難しい?」
「多分」
「落ちたら?」
「帰ってくる」
「じゃあいいじゃん」
エイルが横を見る。
「よくないよ」
「また受ければ?」
「金かかる」
「あ」
リナもそこで黙った。
冬を何度か越せば、金や食べ物が勝手に出てくるものではないことくらい、リナにも分かる。
「じゃあ受かればいいね」
「簡単に言うな」
「頑張って」
「急に適当だな」
「眠くなった」
リナは立ち上がると、そのまま家へ戻っていった。
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それから、また季節が過ぎた。
ある日の夕方。
エイルはトーマと村の柵を直していた。
古くなった板を外し、新しい板を当てる。
「そこ押さえろ」
「ここ?」
「もう少し上」
「こう?」
「そう」
エイルが板を押さえ、トーマが釘を打つ。
乾いた音が何度か続いた。
次の板を当てたところで、トーマが言った。
「エイル」
「なんだ」
「学校」
エイルの手が止まった。
「……何?」
父の方からその話を出すのは珍しい。
「まだ行きたいか?」
エイルはトーマの顔を見た。
冗談ではなさそうだった。
「行きたい」
答えはすぐに出た。
「そうか」
トーマはそれだけ言って、また釘を打ち始める。
エイルは待った。
一回。
二回。
三回。
「……それだけ?」
「何が」
「今の話」
「聞いただけだ」
「なんで?」
「確認」
「だから、なんで確認するの?」
トーマは新しい釘を取り出した。
「母さんと話してる」
「何を?」
「学校のことだよ」
エイルの手が完全に止まった。
「俺の?」
「他に誰がいる」
「リナ」
少し離れたところから、
「行かない!」
と声が飛んできた。
二人ともそちらを見る。
いつから聞いていたのか、リナが薪を一本抱えて立っていた。
「聞いてたの?」
「聞こえた!」
「なら薪持って帰れ」
トーマに言われ、リナはそのまま家へ向かった。
エイルはすぐ父へ向き直る。
「何話してるの?」
「金」
やっぱりそこだった。
「足りる?」
「まだ分からん」
「……そっか」
少しだけ期待していた分、肩の力が抜ける。
だがトーマは続けた。
「それと、試験だな」
エイルが顔を上げる。
「試験?」
「ああ」
トーマは板の位置を確かめてから言った。
「受けるだけなら、来年には行けるかもしれん」
エイルはしばらく動かなかった。
「エイル?」
「……来年?」
「ああ」
「学校に?」
「試験を受けにだ」
「でも、学校まで行くんでしょ?」
「そりゃそうだ」
「馬車で二週間くらいの?」
「他にあるのか?」
来年。
その言葉が妙に近く聞こえた。
ずっと、いつかだった。
そのうち。
まだ先。
そう思っていた場所へ、来年には本当に向かうかもしれない。
「受かったら?」
エイルが聞く。
「その話もしてる」
「行ける?」
「まだ分からん」
「またそれ」
「受かってから何年も通うんだぞ。試験に行く金だけあればいいわけじゃない」
「……うん」
「それに」
トーマが少し間を置いた。
「お前が一人で村を離れることも考えないとな」
エイルは黙った。
それも、ずっと分かっていた。
学校へ行けば、父も母もリナもいない。
朝になれば畑へ出て、夜には同じ家へ戻る暮らしではなくなる。
「怖いか?」
トーマが聞いた。
エイルは少し考えてから答えた。
「……ちょっと」
「そうか」
「父さんは?」
「何が」
「俺が行くの」
トーマは釘を打った。
一回。
二回。
「まだ受かってないだろ」
「ずるい」
「何が」
「そうやって逃げるの」
「便利だからな」
エイルは笑った。
「前にもそんなこと言ってたよね」
「そうだったか?」
「覚えてないの?」
「何年も前だろ」
「俺は覚えてる」
「なら、お前が覚えとけ」
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その夜。
エイルは本を開いた。
何年も見てきた地図のページ。
村があるという、何も書かれていない辺りへ指を置く。
そこから街道を辿る。
いくつかの街を越え、その先にある大きな街。
学校のある場所。
馬車を乗り継いでも二週間ほど。
地図の上では、今も指一本で辿れる。
距離も何も変わっていない。
でも、来年。
本当にそこへ行くかもしれない。
「……来年か」
口に出してみる。
少し変な感じがした。
嬉しい。
でも怖い。
早く行きたい気もするし、急に近づいてきてほしくない気もする。
しばらく地図を眺めてから、本を閉じた。
今日は形を作るのはやめた。
代わりに、明日の仕事で使う服を出しておく。
朝になれば、また畑がある。
来年は来年だ。
今はまだ、ここにいる。




