第三十八話 収穫
朝から、村中が騒がしかった。
あちこちから人を呼ぶ声が聞こえ、荷車が道を行き来する。鎌を研ぐ音まで混じっている。
エイルも、まだ外が薄暗いうちにトーマに起こされた。
「眠い……」
「起きろ」
「まだ暗いよ」
「今日から刈るぞ」
エイルの目が開いた。
「今日?」
「ああ」
「全部?」
「できるところからな」
トーマはもう支度を終えている。
エイルも急いで服を着た。
---
畑へ出ると、夏の初めには青かった麦が、すっかり色を変えていた。
風が吹くたび、一面が波のように揺れる。
「これ全部刈るの?」
「全部じゃない。向こうはもう少し待つ」
トーマが少し離れた場所を指した。
エイルも見比べる。
「同じじゃん」
「違う」
「どこが?」
「色と実の具合」
言われて近づいてみる。
確かに少し違う……ような気もする。
「分かんない」
「なら今日は、俺が刈れと言ったところだけ刈れ」
「そのうち分かる?」
「毎年見てればな」
エイルはもう一度麦を見た。
今はまだ、全部ほとんど同じだった。
---
鎌を持つと、トーマが最初に刈り方を見せた。
麦をまとめて掴み、刃を入れて引く。
ざっ、と気持ちよく切れる。
「手まで切るなよ」
「切らないよ」
「去年切った」
「ちょっとだけ」
「血が出てたぞ」
「今年は大丈夫」
「ならやれ」
エイルも麦を掴んだ。
鎌を入れる。
引く。
ざっ。
思ったよりきれいに切れた。
「お」
もう一度。
ざっ。
「これ、結構楽しいかも」
隣でトーマが笑った。
「最初だけだ」
「なんで?」
「昼になれば分かる」
「またそういう言い方する」
「じゃあ楽しんどけ」
エイルは気にせず次の麦へ手を伸ばした。
---
昼。
分かった。
腰が痛い。
腕も痛い。
暑い。
しかも、麦の細かいものが服の中へ入り込んで痒い。
木陰まで来ると、エイルはその場に座り込んだ。
「父さん」
「なんだ」
「もう楽しくない」
「だろ」
「知ってたならもっと言ってよ」
「昼になれば分かるって言っただろ」
「止めてくれてもよかったじゃん」
「止めたら収穫が終わらん」
それは困る。
エイルは水を飲んだ。
近くにはリナも来ていた。
まだ鎌は持たせてもらえないので、刈った麦を運ぶのを手伝っている。
「兄ちゃん」
「なに」
「遅い」
「やってみろよ」
「私いっぱい運んだよ」
「俺はいっぱい刈った」
「父さん、もっと刈ってる」
「父さんと比べるなよ」
するとトーマが水を飲みながら言った。
「俺を何だと思ってる」
「農家」
「正解」
エイルは何も言えなかった。
---
午後も、ひたすら刈った。
ただ、午前と同じやり方では身体がもたない。
エイルは鎌を引くときに腕や腰へ少し魔力を回し、必要がなくなれば緩める。
次の麦を掴む。
また使う。
歩くときは減らす。
前なら、とりあえず多めに流していた。
今は、必要なところで使った方が楽だと分かっている。
「……これいいな」
「何が?」
「魔力。ずっと使うより、鎌引くときだけ少し増やした方が楽」
「そうか」
「父さんもやれば?」
「やってるぞ」
エイルの手が止まった。
「今?」
「ああ」
「どうやって?」
「普通に」
「出た」
「何が」
「普通」
「普通だからな」
最初に父へ聞いたときから、そこだけは何も変わっていなかった。
「もういい」
「そうしてくれ」
「父さんから聞いたのに」
「お前から聞いてきたんだろ」
エイルは鎌を振り直した。
---
収穫は一日では終わらなかった。
次の日も、その次の日も畑へ出る。
刈る。
束ねる。
運ぶ。
干す。
何か月もかけて育てた麦が、数日のうちに畑から消えていく。
麦のなくなった場所には、久しぶりに地面が見えた。
エイルは束を抱えながら、その光景を眺めた。
春に種を蒔いた。
草を抜いた。
虫を取った。
雨が降らなくなって、何度も川から水を運んだ。
雨が降った夜には、屋根の音を聞きながら安心した。
それが今は、自分の腕の中にある。
「父さん」
「なんだ」
「これで麦は終わり?」
「何が終わりなんだ」
「刈ったから」
「ここから乾かす。脱穀して、粒を選って、種にする分を分ける。食う分も分ける。余れば売る分もな」
エイルは抱えている麦を見る。
「……まだそんなにあるの?」
「ああ」
「刈ったら終わりだと思ってた」
「畑なめるな」
「最近そればっかり」
「お前がなめるからだ」
---
何日かすると、村のあちこちに刈った麦が集められた。
今度は脱穀だった。
大人も子供も手伝う。
エイルも麦を叩いて粒を落とす。
ばらばらと粒が飛んだ。
「兄ちゃん!」
「なに!」
「こっち飛んだ!」
「拾って!」
「兄ちゃんが飛ばした!」
「誰が飛ばしても麦は麦だろ!」
リナが一粒拾い、指先でつまんだ。
「これ食べる?」
「あとで」
「私の?」
「みんなの」
「じゃあ今食べる」
「食べるな!」
慌てて止めると、近くにいた大人が笑った。
村中が忙しかった。
腰が痛い。
暑い。
腹が減った。
そんな文句も、あちこちから聞こえる。
けれど冬の頃とは違う。
働いた分だけ、袋が膨らんでいく。
一つ。
また一つ。
麦の入った袋が並んでいく。
エイルは、その光景を見るのが好きだった。
去年の冬は、逆だった。
袋の中身が減る。
箱の底が見える。
薪の山が小さくなる。
パンまで小さくなる。
今は空だったものが、少しずつ満たされていく。
---
「父さん」
「なんだ」
「これで冬、大丈夫?」
トーマは並んだ袋を見た。
「まだ分からん」
「また?」
「麦だけ食って冬を越す気か?」
「それは嫌だ」
「豆も野菜もいる。薪もいる。肉も保存したい。種にする分だって食えん」
「種、結構取るの?」
「来年蒔く分だからな」
エイルは袋を見る。
前の冬、ベルンの家で聞いた話を思い出した。
冬を越すだけでは駄目だ。
春になったとき、また畑を作れるだけのものを残しておかなければならない。
「じゃあ、まだいっぱい必要なんだ」
「ああ」
「でも去年よりはいい?」
トーマは少し考えた。
「ああ」
短い返事だった。
それでも、エイルは少し嬉しくなった。
---
その日の夕食には、いつもと少し違うパンが出た。
エイルが手に取る。
「これ、何?」
「今年の麦を少し使ったの」
ミラが言った。
「もう食べられるの?」
「全部じゃないよ。これは先に使える分」
リナがすぐ手を伸ばす。
ぺし、とミラに叩かれた。
「まだ」
「痛い」
「みんな座ってから」
「兄ちゃん、早く!」
「なんで俺?」
「早く座って!」
エイルが座り、トーマも席につく。
ようやくリナがパンを取った。
エイルも自分の分を一口食べる。
「……うまい」
「いつもと違う?」
ミラが聞く。
もう一口食べてみる。
「分かんない」
「じゃあ何で言ったの」
「なんかうまい」
トーマが笑った。
隣を見ると、リナはもう半分ほど食べている。
「リナ」
「なに?」
「半分くれないの?」
手が止まった。
「なんで?」
「前くれたじゃん」
「今日はいっぱい働いたから」
「俺も働いたよ」
「じゃあ兄ちゃん、自分の食べればいいじゃん」
「……そうだね」
「うん」
リナは何事もなかったように残りを食べ始めた。
エイルも自分のパンを食べることにした。
---
収穫が始まってから、夜はほとんど勉強できていなかった。
身体が疲れて、食事のあとには眠くなる。
その日は久しぶりに本を開いた。
以前よりは読める。
知らない言葉があっても、前後を何度か読めば何となく意味が分かることも増えた。
一つだけ分からない言葉に印をつける。
明日、ミラに聞けばいい。
少し読んだところで欠伸が出た。
本を閉じる。
外へ出ようとして、やめた。
今日はもう脚も腰も重い。
魔力で形を作るのは、また余裕がある日にすればいい。
何日かやらなくても、困る仕事ではない。
その代わり、明日も朝から麦の作業がある。
「寝る」
トーマが振り返った。
「珍しいな。言われる前に」
「疲れた」
「収穫だからな」
「早く終わらないかな」
「まだ豆もあるぞ」
エイルは立ち止まった。
「……忘れてた」
「野菜もある」
「聞きたくない」
「薪も集めるぞ」
「父さん」
「なんだ」
「今日はもう寝る」
「そうしろ」
エイルは布へ向かった。
収穫は始まった。
袋の中身は増えている。
でも、冬までにやることはまだ山ほど残っていた。




