第三十六話 夏
「暑い」
エイルは鍬を止め、額の汗を腕で拭った。
空は青く、雲もほとんどない。日差しが強くて、土から返ってくる熱まで暑い。
「父さん」
「なんだ」
「暑い」
「夏だからな」
「昨日も暑かった」
「夏だからな」
「明日も?」
「多分な」
エイルは嫌な顔をした。
「夏ってこんな長かった?」
「毎年来てるだろ」
「去年はこんな暑くなかった」
「去年も同じこと言ってたぞ」
「嘘」
「聞いた」
トーマは平然と鍬を振る。
エイルも仕方なく仕事へ戻った。
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春が終わり、畑はすっかり緑になっていた。
冬には土と雪しかなかった場所に、麦や豆、野菜が育っている。
まだ収穫には早い。
それでも、何もなかった頃に比べれば、畑を見るだけで少し安心できた。
村の暮らしも、かなり元に戻っている。
ただ、全部ではない。
灰牙に壊された柵には新しい木が混じり、家畜の数も襲撃前より少ない。
ガンツの家の前を通れば、以前そこにいた人がいないことも分かる。
冬を越して春になっても、戻らないものは戻らなかった。
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「エイル」
トーマに呼ばれた。
「なんだ」
「休むぞ」
「父さんから言うの珍しい」
「暑い」
「夏だから?」
「ああ」
「やっぱり父さんも暑いんじゃん」
「暑くないとは言ってない」
二人で畑の端の木陰へ入った。
水筒の水はぬるかったが、それでも喉を通ると気持ちいい。
エイルは座ったまま畑を眺めた。
風が吹くと、伸びた麦が少し揺れる。
「父さん」
「なんだ」
「今年、ちゃんと採れる?」
トーマは水を飲んでから答えた。
「このままならな」
「このままって?」
「雨がちゃんと降って、降りすぎなくて、虫が増えなくて、病気が出なくて、魔物が来なくて――」
「もういい」
「聞いたのお前だろ」
「多すぎる」
トーマが笑った。
去年までなら、畑に作物が育っていれば、そのうち食べ物になると思っていた。
でも今は違う。
育っているだけでは、まだ足りない。
収穫まで無事に育てて、実際に刈り取る。
そこから冬を越す分を残し、次に蒔く種も取っておく。
去年の冬に、嫌というほど知った。
「大変だね」
「何が?」
「食べるの」
「今さらか」
「父さんは知ってた?」
「お前より長く畑やってるからな」
「ずるい」
「何がだ」
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日が高くなると、暑さはさらにひどくなった。
さすがに外で仕事を続けるのはきつく、一度家へ戻る。
中ではリナが床に寝転がっていた。
「何してるの?」
「暑い」
「俺も」
エイルも壁際に座る。
するとリナが手で追い払うような仕草をした。
「兄ちゃん、どいて」
「なんで?」
「風来ない」
「俺のせいじゃない」
「兄ちゃん大きいから」
「父さんの方が大きいだろ」
「父さんいない」
「じゃあ俺か」
「うん」
納得はできなかったが、少し横へずれた。
「来た?」
「ちょっと」
「本当に俺のせいだった?」
「うん」
「嘘だろ」
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夏になって、一つだけ勉強には都合のいいことがあった。
一番暑い時間には、外仕事を減らす日がある。
その時間を使って本を読める。
エイルは机に座り、自分で買った本を開いた。
以前より、ずっと速く読めるようになっていた。
もちろん、まだ知らない文字はある。
意味の分からない言葉もある。
それでも、一行読むたびにミラを呼んでいた頃とは違う。
一ページ読む。
次へ進む。
しばらくして、地図のページが出てきた。
久しぶりに手を止める。
自分の村がある辺り。
そこからずっと離れた、学校のある街。
距離は変わらない。
けれど、地図に書かれた街の名前は、以前よりずっと読める。
「ここ」
横からリナの指が伸びてきた。
「何?」
「兄ちゃん、行くの?」
「どこに?」
「学校」
「……行けたらね」
「いつ?」
「まだ先」
「明日?」
「全然先」
「どれくらい?」
「何年か」
リナが地図を覗き込む。
「私も行く」
「学校に?」
「うん」
「なんで?」
「兄ちゃん行くから」
「お前、勉強したいの?」
「別に」
「じゃあ何しに来るんだよ」
「遊ぶ」
「遠いよ。馬車でも二週間くらい」
リナが止まった。
「やだ」
「早いな」
「兄ちゃん一人で行って」
「はいはい」
エイルは笑った。
けれど、地図へ目を戻すと、ほんの少しだけ変な感じがした。
本当に行くことになれば、リナはついてこない。
父も母もいない。
分かっていたはずなのに、地図を見ると前より少しだけ実感が湧いた。
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夕方、暑さが和らいでから再び畑へ出た。
水をやり、草を抜き、葉の裏についた虫を落とす。
やることはいくらでもある。
「兄ちゃん!」
リナが走ってきた。
手に小さな黄色い花を持っている。
「見て!」
「どこにあったの?」
「あっち」
「畑入った?」
「入ってない」
「本当に?」
「ちょっとだけ」
「入ってるじゃん」
「端っこだけ」
「作物踏んでない?」
「踏んでない!」
エイルはリナの足元を見る。
靴に土はついている。
「母さんに言おうかな」
リナがすぐ花を一本差し出した。
「半分あげる」
「いらない」
「じゃあ言わない?」
「花で買収するなよ」
結局、作物を踏んだ様子もなかったので言わなかった。
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夜になると、昼の暑さはかなり引いた。
エイルは勉強を終え、家の裏へ出た。
少しだけ魔力を集める。
最近は、一つの大きな形を作るより、小さな形をいくつか同時に保つことを試していた。
丸を三つ。
一つ目の中に文字。
二つ目には何本かの線。
三つ目には、自分で適当に考えた模様。
「……」
右側が崩れかける。
そちらを意識すると、今度は左が薄くなる。
「待て」
三つとも残す。
少しずつ整える。
「……よし」
できた。
なら四つ。
もう一つ小さな輪を作ろうとした瞬間、全部が崩れた。
「あー……」
もう一度。
今度は二つ目まで。
崩れる。
さらにもう一度。
やっぱり駄目だった。
何度か繰り返すうちに、頭の奥が重くなってくる。
エイルは魔力を散らした。
「今日は終わり」
できないなら、また別の日にやればいい。
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家へ戻ろうとして、村の入口が目に入った。
灰牙に壊された場所には、新しい木が使われている。
夏になって少し汚れてきたが、まだ周りの柵とは色が違う。
エイルはしばらく見ていた。
あの夜のことは、今でも覚えている。
ベルンの家に集まった人たち。
外から聞こえた声。
怪我人。
父の脚。
翌朝になって分かった、死んだ人の名前。
それから冬まで続いた食べ物と薪の不足。
エイルは自分の手を見る。
今できるのは、身体へ魔力を回すことと、意味のない形を作ることくらいだ。
形をいくら複雑にしても、火は出ない。
傷も治らない。
何に使えるのかも分からない。
だから学校へ行って、知りたいと思っている。
魔術のことも。
本に載っている、自分の知らないことも。
エイルは柵から目を離した。
「兄ちゃん!」
家の方からリナの声がする。
「なに!」
「母さん呼んでる!」
「今行く!」
「早く!」
「分かったって!」
エイルは家へ向かって走った。
明日も畑がある。
勉強もある。
できれば、今日失敗した四つの形ももう一度試したい。
けれど、まずは母に呼ばれた理由を聞く方が先だった。




