第三十五話 春の終わり
「兄ちゃん」
「なに」
「それ読める?」
リナが指したのは、セドの荷車に積まれた袋だった。
横に大きな文字が書いてある。
エイルは少し目を細めた。
「……北麦」
「きたむぎ?」
「北の方で採れる麦じゃない?」
「おい」
荷物を下ろしていたセドが振り返った。
「適当に教えるな」
「違うの?」
「北麦粉だ」
「粉?」
エイルはもう一度袋を見る。
よく見ると、最後にもう一文字ある。
「……本当だ」
「読めてねえじゃねえか」
「途中までは読めた」
「それを読めたとは言わん」
「前は一個も分からなかったよ」
「なら成長したな」
エイルが少し笑う。
「でしょ?」
「最後まで読めたらな」
「……やっぱり褒めてないじゃん」
セドは笑いながら次の袋を持ち上げた。
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春もかなり過ぎた。
畑はもう、冬の終わりに見た黒い土ばかりではない。
麦も豆も伸び、村のあちこちに緑が戻っている。
食べ物も少しずつ増えてきた。
まだ好きなだけ食べられるわけではないし、冬に減らした蓄えが急に戻るわけでもない。
それでも、夕食のたびにリナが器を覗き込んで、
「これだけ?」
と聞くことはなくなった。
エイルの毎日も、だいたい決まってきた。
朝は畑。
昼に家の仕事を挟み、また畑。
夜は字と計算。
そのあと、まだ眠くなければ少しだけ本を読む。
さらに余裕がある日は、魔力で形を作って遊ぶ。
忙しい。
でも、冬よりはずっとよかった。
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「エイル」
畑でトーマに呼ばれた。
「これ、向こうへ」
大きな袋を渡される。
「重っ」
「持てるだろ」
「持てるけどさ」
エイルは腰を落とした。
脚と腰、それから腕へ魔力を回す。
必要な分だけ。
袋を持ち上げる。
「よっ」
以前なら、もっと魔力を使って少しでも楽にしようとしていた。
今はそこまでしない。
これくらいなら十分だ。
畑の端まで運び、袋を下ろす。
息もそれほど乱れていない。
「父さん」
「なんだ」
「やっぱり前より魔力使ってない」
「そうか」
「でも同じくらい持てる」
トーマがエイルを見た。
「身体が大きくなったんじゃないか?」
エイルは止まった。
「……それ?」
「それもあるだろ」
「魔力の使い方が上手くなったとか」
「それもあるんじゃないか」
「どっち?」
「両方でいいだろ」
「適当だなあ」
トーマはもう次の袋を持って歩いていた。
エイルも追いかける。
答えは分からなかった。
ただ、去年より仕事が楽になったのは確かだった。
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夜。
今日はミラが本を見ていた。
「ここ」
指されたところをエイルが読む。
少し詰まったが、最後まで読めた。
次。
これも分かる。
その次で止まる。
「……これ、何だっけ」
「昨日やったよ」
「覚えてる」
「じゃあ読んで」
「今、思い出してる」
ミラが笑った。
「それ、前にも聞いたね」
「……母さん、そういうの覚えてるよね」
「毎日聞いてるからね」
しばらくして、今度はトーマと計算をする。
「十二袋を三つずつに分ける」
「四」
「十五なら?」
「五」
「二十二」
「七。余り一」
トーマの手が止まった。
「早くなったな」
エイルが顔を上げる。
「今、褒めた?」
「褒めた」
「父さんが?」
「嫌なら取り消す」
「嫌じゃない」
「じゃあ次」
「ちょっと待って。もう少し褒めて」
「調子に乗るから嫌だ」
「けち」
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勉強を終える頃には、かなり眠かった。
それでも今日は少しだけ余裕がある。
エイルは家の裏へ出た。
最近は、文字そのものを魔力で作ることは減っていた。
簡単な文字なら、もうあまり失敗しない。
代わりに、自分で適当な形を考える。
輪を一つ。
その内側に三本の線。
三本を途中で二つずつに分け、その先に小さな輪を作る。
中心にも一つ。
「……」
右側を作っていると、左側が少し崩れた。
「待て待て」
左を保つ。
すると今度は外側の輪が揺らぐ。
そちらも崩さないようにしながら、残りを繋ぐ。
最後の一本。
「……よし」
できた。
昨日は三回失敗した形だった。
今日は一度で作れた。
少し嬉しくなって、そこへもう一本だけ線を足してみる。
その瞬間。
全部が散った。
「あ」
しばらく手を見る。
「……そこまでか」
今日は終わり。
明日またやればいい。
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数日後。
畑仕事が少し早く終わった日だった。
村へ戻ると、子供たちの声が聞こえてきた。
「待て!」
「こっち!」
「捕まえた!」
村の中央を何人かが走り回っている。
その中にリナもいた。
「兄ちゃん!」
「何?」
「やる?」
「何を」
「鬼!」
「やらない」
「なんで?」
「疲れた」
リナは即答した。
「弱い」
エイルの足が止まる。
「今なんて?」
「弱い」
「誰が?」
「兄ちゃん」
エイルは持っていた荷物を地面へ置いた。
「よし」
「エイル」
後ろからトーマの声がした。
「……」
エイルはゆっくり荷物を持ち直す。
「何してる」
「運んでる」
「今置いたよ」
リナが余計なことを言う。
「言うな!」
「仕事終わってから遊べ」
「はい」
リナが笑いながら走っていった。
絶対に捕まえる。
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仕事を終えると、エイルは今度こそ村の中央へ戻った。
「リナ!」
「兄ちゃん来た!」
子供たちが一斉に散る。
エイルも走る。
遊びなので魔力は使わない。
普通に走る。
それでも去年より少し身体が動くようになった気がした。
「待て!」
「遅い!」
「リナ!」
角を曲がる。
もう少し。
手を伸ばす。
「捕まえ――」
リナが急に横へ曲がった。
「うわっ」
止まりきれない。
そのまま近くの藁の山へ突っ込んだ。
「……」
藁の中から顔を上げる。
リナが腹を抱えて笑っている。
「兄ちゃん!」
「何」
「弱い!」
「お前、絶対捕まえる」
「きゃー!」
逃げる。
エイルも藁を払いながら追いかけた。
久しぶりだった。
何も考えず、ただ走る。
冬の間は、こんな時間がほとんどなかった。
薪がどれだけ残っているか。
次の食事はどれくらいか。
雪が降るか。
森へ入れるか。
そんなことばかりだった。
今は村の中を子供たちが走っている。
畑には緑がある。
転んでも、ただ笑える。
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夕方。
遊び疲れたエイルは、家の前に座っていた。
隣にはリナがいる。
「兄ちゃん」
「なに」
「お腹減った」
「俺も」
「今日、肉?」
「知らない」
「肉がいい」
「俺も」
「魚でもいい」
「それもいい」
「パンいっぱい」
「それもいいな」
冬なら、こんな話をするだけでも少し嫌な気分になった。
食べたいと言っても、ないものはない。
今だって何でもあるわけではない。
それでも、口に出せるくらいには戻っていた。
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その夜。
肉はなかった。
魚もなかった。
でも、パンは冬の頃より大きかった。
リナが自分のパンを見ている。
「大きい」
「よかったね」
「兄ちゃん」
「なに?」
リナがパンを二つに割った。
片方を差し出してくる。
「半分あげる」
エイルはその手を見た。
「なんで?」
「今日弱かったから」
「いらない」
「食べて」
「自分で食べろよ」
「いっぱいあるから」
エイルは少し黙った。
冬。
小さなパンを、さらに小さくちぎって食べていた。
肉を最後まで残していた。
自分の分を誰かに渡す余裕なんてなかった。
「本当にいいの?」
「うん」
「あとで返してって言わない?」
「言わない」
「絶対?」
「多分」
「じゃあ駄目じゃん」
「言わない!」
エイルは笑って、半分を受け取った。
「ありがとう」
「うん」
食べる。
いつものパンだった。
「兄ちゃん」
「なに?」
「おいしい?」
「普通」
「私も」
二人で笑った。
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食事のあと。
エイルは使った器を持って立ち上がった。
「兄ちゃん」
リナが呼ぶ。
「なに?」
「片づけ」
「今やるよ」
「私のも」
「自分で持て」
「半分あげた」
「それとこれは別」
「兄ちゃん、けち」
「さっき俺に半分くれた人が言う?」
「うん」
「じゃあ一個だけ」
「やった」
結局、リナの器も重ねる。
エイルは二人分を持ってミラのところへ向かった。
外はまだ少し明るい。
日がずいぶん長くなっていた。
春も、もう終わりに近づいていた。




