第三十四話 形
「……違う」
エイルは木の板と本を交互に見た。
板には、さっきから何度も書き直している文字がある。
読めないわけではない。
たぶん。
けれど、本に書かれているものと並べると、どうにも違って見える。
「兄ちゃん」
隣からリナが覗き込んだ。
「なに?」
「また同じの書いてる」
「同じじゃない」
「同じだよ」
「ほら、ここ」
エイルは本を指した。
「こっちはここで曲がってるだろ」
「うん」
「俺のは曲がりすぎてる」
「そう?」
「あと、この線。もう少し短い」
「ふーん」
そこまで聞くと、リナはもう興味をなくしたらしい。
机の上に頬を乗せる。
「読めたらいいんじゃない?」
エイルの手が止まった。
父なら言いそうだった。
「……読めるけど」
「じゃあいいじゃん」
「よくない」
「なんで?」
「なんか違うから」
自分でも、それ以上うまく説明できなかった。
エイルはもう一度、炭を持つ。
線を引く。
途中で曲げる。
次の線を繋げ、最後を少し短くする。
本と見比べた。
「……今度は近い」
「さっきのと同じ」
「違うって」
リナは欠伸をした。
---
本を読むようになってから、エイルは文字そのものをよく見るようになった。
最初は読めればそれでよかった。
けれど覚える文字が増えると、似たような形なのに違う文字があることに気づく。
線が一本多い。
曲がる場所が違う。
片方だけ短い。
反対に、自分が少しくらい歪んで書いても、同じ文字として読めるものもある。
面倒だった。
今でも面倒ではある。
ただ、少し面白くもなっていた。
---
その夜。
勉強を終えたエイルは家の裏へ出た。
昼間より空気が冷たい。
とはいえ、冬の寒さとは比べものにならない。
エイルは軽く身体を動かしてから、魔力を腕へ回した。
次に脚。
少し歩く。
止まる。
このくらいなら、もう迷わずできる。
そこで、昼間に何度も書いた文字を思い出した。
「……」
頭の中には形が浮かぶ。
線が伸びて、曲がる。
別の線と繋がる。
エイルは自分の手を見る。
いつもなら魔力を身体へ流す。
今日は流さず、その場に留めた。
「これ……」
少し考える。
炭で書けるなら。
「魔力でもできるかな」
細く伸ばしてみる。
「……あ」
すぐに散った。
何も残らない。
エイルは手を見る。
「難しいな」
もう一度やる。
今度はさっきよりゆっくり。
細く。
伸ばす。
曲げる。
そこまでは残った。
次の部分を作ろうとすると、最初に作ったところが崩れた。
「そっちも見とかないと駄目か」
もう一度。
今度は最初の部分も意識したまま、次を作る。
線。
曲げる。
繋げる。
「……できた」
少し歪んでいる。
それでも、昼間に覚えた文字の形には見えた。
何も起きない。
火が出るわけでもない。
風が吹くわけでもない。
ただ、魔力を文字の形にしただけだ。
「おお」
それでもエイルは少し嬉しかった。
---
次は、もう少し複雑な文字を試した。
一本。
二本。
三本目を作ろうとしたところで、最初の線が消える。
「なんで?」
もう一度。
今度は二本目までいった。
三本目。
また崩れる。
炭ならすぐ書けるのに、魔力ではうまくいかない。
「……もう一回」
三度目。
今度は全部を意識しながら作る。
少し歪んだ。
それでも残った。
「できた」
エイルはしばらく保ってみる。
やっぱり何も起きない。
でも、それでよかった。
さっきできなかったものが、今はできた。
それが面白かった。
---
次の日の夜もやった。
昨日の文字。
一度目は途中で崩れた。
二度目。
「よし」
今度はできる。
別の文字。
失敗。
もう一度。
また失敗。
三度目でようやく形になった。
「これ、結構面白いな」
誰に言うでもなく呟く。
それから、昼間に覚えた文字を一つずつ試していった。
簡単なものはすぐできる。
線が増えると難しくなる。
一か所を作っている間に、別の場所が崩れるからだ。
だから、作ったところを残したまま次へ進む。
それだけのことなのに、思ったより難しい。
---
数日後。
「父さん」
「なんだ?」
夕食後、トーマが道具を片づけているところを捕まえた。
「文字、一個言って」
「なんで?」
「いいから」
「嫌だ」
「なんで!」
「理由が分からん」
「練習」
「何の?」
「形」
トーマはよく分からない顔をしたが、一文字だけ言った。
エイルは目を閉じる。
その文字を思い出す。
魔力を集める。
線。
曲げる。
次を繋ぐ。
前に作ったところも崩さない。
「……できた」
目を開ける。
トーマが待っている。
「できたよ」
「何が?」
「今の文字」
「どこに?」
「魔力で作った」
トーマがエイルの手の辺りを見る。
「見えん」
「俺には分かる」
「なら俺に見せても仕方ないだろ」
「……確かに」
「もういいか?」
「うん」
トーマはそのまま行ってしまった。
エイルは少し不満だった。
せっかく一回でできたのに。
---
文字だけを作るのにも、やがて慣れてきた。
すると今度は、別のものを試したくなる。
「丸は?」
やってみる。
一周させるだけなので簡単だった。
「じゃあ三角」
これもできる。
四角。
角を四つ作る分、少し難しい。
次に、丸の中へ文字を入れてみる。
「……」
外の丸を保ったまま、中を作る。
できた。
「おお」
今度は丸の外へ線を四本伸ばし、その先に小さな丸を作ってみる。
途中で崩れた。
「駄目か」
もう一度。
先に小さな丸を作る。
そこから線を伸ばす。
最後に真ん中の大きな丸へ繋げる。
「……できた」
完成したものを意識の中で確かめる。
何の形なのか、自分でも分からない。
文字でもない。
ただの模様だった。
でも、文字一つより難しい。
だから面白い。
---
「兄ちゃん」
後ろからリナの声がした。
「なに?」
「何してるの?」
「形作ってる」
「どこ?」
「ここ」
エイルは自分の前を指す。
リナが目を細める。
「ないよ」
「魔力だから」
「見えない」
「俺は分かる」
「何の形?」
エイルは少し考えた。
「……分かんない」
「なんで作ってるの?」
「できるか試してる」
「できたら?」
「もっと難しいの作る」
「それ、何になるの?」
エイルは止まった。
火は出ない。
水も出ない。
傷も治らない。
重い荷物が軽くなるわけでもない。
「……何にもならない」
「じゃあ、なんでやってるの?」
「面白いから」
「ふーん」
リナはそれだけ聞くと、家へ戻っていった。
エイルはその背中を見る。
「聞いといて興味なくすの早いな」
返事はなかった。
---
それからも、暇がある夜には続けた。
毎晩ではない。
畑仕事で疲れている日は寝るし、文字の勉強が長引けばやらない。
それでも、やり始めると少しずつ難しくしてしまう。
丸を二重にする。
中に線を入れる。
一本を途中で二つに分ける。
片方を曲げる。
もう片方を小さな輪へ繋げる。
左右を同じ形にする。
今度は、わざと違う形にする。
複雑になるほど、一つを作っている間に別の場所が崩れやすい。
最初は何度も散った。
そのたびに最初から作り直した。
---
ある夜。
エイルは今までで一番面倒な形を考えた。
外側に大きな輪。
その中に三つの小さな輪。
それぞれを線で繋ぐ。
真ん中には、最近覚えた文字を一つ。
空いたところにも何本か線を足す。
一つずつ作っていく。
途中で外側の輪が揺らいだ。
「……待って」
そこを保つ。
今度は中の線が崩れかける。
そちらにも意識を向ける。
全部を残したまま、最後の一本を繋いだ。
「……よし」
できた。
しばらくそのまま保ってみる。
何も起きない。
当然だ。
自分で適当に考えた形なのだから。
「結構すごくない?」
誰もいない。
「……父さん呼んでも見えないしな」
少し残念だった。
---
次の日、同じ形をもう一度作った。
昨日より早くできた。
なら、もう一本増やしてみる。
できる。
さらに枝分かれさせる。
そこもできた。
もう一本。
今度は崩れた。
「あー」
散った魔力を感じながら、エイルは笑った。
「そこまでか」
今日はここまでにする。
明日は、もう一度。
昼間は畑で働く。
夜には字と計算を覚える。
本も読む。
そして余裕がある日は、こうして意味のない形を作る。
役に立つからではない。
魔術になるとも思っていない。
ただ、昨日できなかった形が、今日はできる。
それだけで楽しかった。
エイルは立ち上がり、家へ戻った。
「……違う」
エイルは木の板と本を交互に見た。
板には、さっきから何度も書き直している文字がある。
読めないわけではない。
たぶん。
けれど、本に書かれているものと並べると、どうにも違って見える。
「兄ちゃん」
隣からリナが覗き込んだ。
「なに?」
「また同じの書いてる」
「同じじゃない」
「同じだよ」
「ほら、ここ」
エイルは本を指した。
「こっちはここで曲がってるだろ」
「うん」
「俺のは曲がりすぎてる」
「そう?」
「あと、この線。もう少し短い」
「ふーん」
そこまで聞くと、リナはもう興味をなくしたらしい。
机の上に頬を乗せる。
「読めたらいいんじゃない?」
エイルの手が止まった。
父なら言いそうだった。
「……読めるけど」
「じゃあいいじゃん」
「よくない」
「なんで?」
「なんか違うから」
自分でも、それ以上うまく説明できなかった。
エイルはもう一度、炭を持つ。
線を引く。
途中で曲げる。
次の線を繋げ、最後を少し短くする。
本と見比べた。
「……今度は近い」
「さっきのと同じ」
「違うって」
リナは欠伸をした。
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本を読むようになってから、エイルは文字そのものをよく見るようになった。
最初は読めればそれでよかった。
けれど覚える文字が増えると、似たような形なのに違う文字があることに気づく。
線が一本多い。
曲がる場所が違う。
片方だけ短い。
反対に、自分が少しくらい歪んで書いても、同じ文字として読めるものもある。
面倒だった。
今でも面倒ではある。
ただ、少し面白くもなっていた。
---
その夜。
勉強を終えたエイルは家の裏へ出た。
昼間より空気が冷たい。
とはいえ、冬の寒さとは比べものにならない。
エイルは軽く身体を動かしてから、魔力を腕へ回した。
次に脚。
少し歩く。
止まる。
このくらいなら、もう迷わずできる。
そこで、昼間に何度も書いた文字を思い出した。
「……」
頭の中には形が浮かぶ。
線が伸びて、曲がる。
別の線と繋がる。
エイルは自分の手を見る。
いつもなら魔力を身体へ流す。
今日は流さず、その場に留めた。
「これ……」
少し考える。
炭で書けるなら。
「魔力でもできるかな」
細く伸ばしてみる。
「……あ」
すぐに散った。
何も残らない。
エイルは手を見る。
「難しいな」
もう一度やる。
今度はさっきよりゆっくり。
細く。
伸ばす。
曲げる。
そこまでは残った。
次の部分を作ろうとすると、最初に作ったところが崩れた。
「そっちも見とかないと駄目か」
もう一度。
今度は最初の部分も意識したまま、次を作る。
線。
曲げる。
繋げる。
「……できた」
少し歪んでいる。
それでも、昼間に覚えた文字の形には見えた。
何も起きない。
火が出るわけでもない。
風が吹くわけでもない。
ただ、魔力を文字の形にしただけだ。
「おお」
それでもエイルは少し嬉しかった。
---
次は、もう少し複雑な文字を試した。
一本。
二本。
三本目を作ろうとしたところで、最初の線が消える。
「なんで?」
もう一度。
今度は二本目までいった。
三本目。
また崩れる。
炭ならすぐ書けるのに、魔力ではうまくいかない。
「……もう一回」
三度目。
今度は全部を意識しながら作る。
少し歪んだ。
それでも残った。
「できた」
エイルはしばらく保ってみる。
やっぱり何も起きない。
でも、それでよかった。
さっきできなかったものが、今はできた。
それが面白かった。
---
次の日の夜もやった。
昨日の文字。
一度目は途中で崩れた。
二度目。
「よし」
今度はできる。
別の文字。
失敗。
もう一度。
また失敗。
三度目でようやく形になった。
「これ、結構面白いな」
誰に言うでもなく呟く。
それから、昼間に覚えた文字を一つずつ試していった。
簡単なものはすぐできる。
線が増えると難しくなる。
一か所を作っている間に、別の場所が崩れるからだ。
だから、作ったところを残したまま次へ進む。
それだけのことなのに、思ったより難しい。
---
数日後。
「父さん」
「なんだ?」
夕食後、トーマが道具を片づけているところを捕まえた。
「文字、一個言って」
「なんで?」
「いいから」
「嫌だ」
「なんで!」
「理由が分からん」
「練習」
「何の?」
「形」
トーマはよく分からない顔をしたが、一文字だけ言った。
エイルは目を閉じる。
その文字を思い出す。
魔力を集める。
線。
曲げる。
次を繋ぐ。
前に作ったところも崩さない。
「……できた」
目を開ける。
トーマが待っている。
「できたよ」
「何が?」
「今の文字」
「どこに?」
「魔力で作った」
トーマがエイルの手の辺りを見る。
「見えん」
「俺には分かる」
「なら俺に見せても仕方ないだろ」
「……確かに」
「もういいか?」
「うん」
トーマはそのまま行ってしまった。
エイルは少し不満だった。
せっかく一回でできたのに。
---
文字だけを作るのにも、やがて慣れてきた。
すると今度は、別のものを試したくなる。
「丸は?」
やってみる。
一周させるだけなので簡単だった。
「じゃあ三角」
これもできる。
四角。
角を四つ作る分、少し難しい。
次に、丸の中へ文字を入れてみる。
「……」
外の丸を保ったまま、中を作る。
できた。
「おお」
今度は丸の外へ線を四本伸ばし、その先に小さな丸を作ってみる。
途中で崩れた。
「駄目か」
もう一度。
先に小さな丸を作る。
そこから線を伸ばす。
最後に真ん中の大きな丸へ繋げる。
「……できた」
完成したものを意識の中で確かめる。
何の形なのか、自分でも分からない。
文字でもない。
ただの模様だった。
でも、文字一つより難しい。
だから面白い。
---
「兄ちゃん」
後ろからリナの声がした。
「なに?」
「何してるの?」
「形作ってる」
「どこ?」
「ここ」
エイルは自分の前を指す。
リナが目を細める。
「ないよ」
「魔力だから」
「見えない」
「俺は分かる」
「何の形?」
エイルは少し考えた。
「……分かんない」
「なんで作ってるの?」
「できるか試してる」
「できたら?」
「もっと難しいの作る」
「それ、何になるの?」
エイルは止まった。
火は出ない。
水も出ない。
傷も治らない。
重い荷物が軽くなるわけでもない。
「……何にもならない」
「じゃあ、なんでやってるの?」
「面白いから」
「ふーん」
リナはそれだけ聞くと、家へ戻っていった。
エイルはその背中を見る。
「聞いといて興味なくすの早いな」
返事はなかった。
---
それからも、暇がある夜には続けた。
毎晩ではない。
畑仕事で疲れている日は寝るし、文字の勉強が長引けばやらない。
それでも、やり始めると少しずつ難しくしてしまう。
丸を二重にする。
中に線を入れる。
一本を途中で二つに分ける。
片方を曲げる。
もう片方を小さな輪へ繋げる。
左右を同じ形にする。
今度は、わざと違う形にする。
複雑になるほど、一つを作っている間に別の場所が崩れやすい。
最初は何度も散った。
そのたびに最初から作り直した。
---
ある夜。
エイルは今までで一番面倒な形を考えた。
外側に大きな輪。
その中に三つの小さな輪。
それぞれを線で繋ぐ。
真ん中には、最近覚えた文字を一つ。
空いたところにも何本か線を足す。
一つずつ作っていく。
途中で外側の輪が揺らいだ。
「……待って」
そこを保つ。
今度は中の線が崩れかける。
そちらにも意識を向ける。
全部を残したまま、最後の一本を繋いだ。
「……よし」
できた。
しばらくそのまま保ってみる。
何も起きない。
当然だ。
自分で適当に考えた形なのだから。
「結構すごくない?」
誰もいない。
「……父さん呼んでも見えないしな」
少し残念だった。
---
次の日、同じ形をもう一度作った。
昨日より早くできた。
なら、もう一本増やしてみる。
できる。
さらに枝分かれさせる。
そこもできた。
もう一本。
今度は崩れた。
「あー」
散った魔力を感じながら、エイルは笑った。
「そこまでか」
今日はここまでにする。
明日は、もう一度。
昼間は畑で働く。
夜には字と計算を覚える。
本も読む。
そして余裕がある日は、こうして意味のない形を作る。
役に立つからではない。
魔術になるとも思っていない。
ただ、昨日できなかった形が、今日はできる。
それだけで楽しかった。
エイルは立ち上がり、家へ戻った。




