第三十三話 地図の外
本を買ってから。
エイルは毎晩、それを開いた。
最初は。
一ページ進むだけで時間がかかった。
知らない文字をミラに聞く。
意味の分からない言葉を聞く。
計算する。
間違える。
戻る。
また読む。
三日経っても。
ほとんど進まなかった。
---
「兄ちゃん」
「なに」
「まだそこ?」
リナが横から覗く。
「昨日より進んでる」
「ちょっとだけ」
「読めないんだから仕方ないだろ」
「私ならもっと早い」
「じゃあ読んで」
リナが本を見る。
しばらく黙る。
「……これなに?」
「俺が聞いてるんだけど」
「分かんない」
「俺は分かる」
「じゃあ兄ちゃんの勝ち」
「何の勝負だったの?」
リナはもう聞いていなかった。
---
その日の夜。
エイルは地図のページを開いていた。
何度も見ている。
国の大まかな形。
川。
山。
街道。
いくつかの大きな都市。
でも。
自分の村はない。
当然。
近くの村もない。
「母さん」
「なに?」
「学校ってどこにあるの?」
ミラが手を止めた。
「前にも聞かなかった?」
「遠いって聞いた」
「そうね」
「どっち?」
「どっちって?」
「北とか南とか」
ミラは少し考えた。
「全部は知らないよ」
「一個も?」
「名前を聞いたことがあるところなら」
エイルの顔が上がった。
「どこ?」
「待って」
ミラが本を受け取る。
地図を見る。
しばらく指を動かして。
一つの都市で止まった。
「確か、ここ」
エイルは覗き込んだ。
文字がある。
読めない。
「なんて読むの?」
ミラが都市の名前を言った。
エイルも繰り返す。
初めて聞く名前だった。
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「ここに学校あるの?」
「あるはずだよ」
「大きい?」
「街が?」
「学校」
「さあ。見たことないから」
「母さんも行ったことない?」
「ないよ」
エイルは地図を見る。
「父さんは?」
「ないと思う」
「セドは?」
「セドなら行ったことあるかもしれないね」
それは。
聞いてみる価値があった。
---
「俺たちの村は?」
エイルが聞く。
「この地図には載ってないよ」
「どの辺?」
「そうね……」
ミラが地図を見る。
近くにある大きな川。
セドが行く街。
山。
知っているものを探して。
「多分、この辺」
指を置く。
エイルはそこを見る。
何もない。
本当に。
何も書いていない場所だった。
「村ないじゃん」
「地図が間違ってるわけじゃないよ」
「でもあるよ」
「小さすぎて載ってないの」
エイルは。
少し不満だった。
生まれてからずっと住んでいる村なのに。
地図の上では。
何もない。
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村がある辺り。
学校のある都市。
指でなぞる。
それほど遠く見えない。
「これくらい?」
「地図ではね」
「歩いたら?」
「分からない」
「一日?」
ミラが笑った。
「そんなわけないでしょ」
「じゃあ三日?」
「もっと」
「五日?」
「もっとだと思う」
エイルは。
少し驚いた。
「そんな遠いの?」
「だから遠いって言ったでしょ」
でも。
どれくらいなのか。
まだ分からなかった。
次にセドが来たら。
絶対に聞こう。
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翌日。
畑。
鍬を振る。
土を起こす。
また振る。
「父さん」
「なんだ」
「学校ある街、一個分かった」
「そうか」
都市の名前を言う。
トーマの手が少し止まった。
「ああ」
「知ってる?」
「名前はな」
「行ったことある?」
「ない」
「父さんでも?」
「俺を何だと思ってる」
「大人」
「大人は国中歩いてると思うな」
「どれくらい遠い?」
「知らん」
「母さんも知らなかった」
「じゃあセドに聞け」
「やっぱり?」
「俺よりは知ってる」
それで話は終わった。
---
数日後。
セドが来た。
荷車が村へ入ってくる。
エイルは走ろうとして。
止まった。
手には水桶。
まだ仕事の途中だった。
家まで運ぶ。
水を入れる。
桶を置く。
「母さん! 水終わった!」
「鶏は?」
足が止まった。
忘れていた。
「……今やる!」
鶏を見る。
餌。
水。
柵。
確認。
「終わった!」
今度こそ走った。
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「セド!」
「おう」
「聞きたいことある!」
「俺は今、荷物下ろしたい」
「下ろしながらでいいよ」
「お前が下ろせ」
「いいよ」
「本当にやるのか」
「聞いてくれるなら」
「現金だな」
エイルは荷物を一つ持った。
「学校」
セドの手が止まる。
「またか」
「この街知ってる?」
名前を言う。
「ああ」
「行ったことある?」
「あるぞ」
エイルが荷物を置いた。
「学校も?」
「外からなら見た」
「本当に?」
「ああ」
「どんなだった?」
「でかかった」
「どれくらい?」
「でかい」
「それじゃ分かんないよ」
「俺も測ってねえよ」
「塔あった?」
「あったな」
「何本?」
「覚えてねえ」
「魔術使ってる人いた?」
「知らん」
「学生は?」
「いたんじゃねえか?」
「見てないの?」
セドが呆れた顔をする。
「俺は学校見物に行ったんじゃねえ。商売だ」
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聞きたいことの半分も分からない。
でも。
一番聞きたいことは別だった。
「ここから、どれくらい?」
「何が」
「その街」
「どうやって行く」
「歩き」
セドがエイルを見る。
「歩くのか?」
「例えば!」
「なら遠いぞ」
「何日?」
「日じゃなくて、一月で考えろ」
エイルは止まった。
「……一月?」
「ああ」
「一月って」
「一月だ」
「毎日歩いて?」
「そりゃ休めばもっとかかる」
「朝から?」
「基本はな」
エイルは。
しばらく何も言えなかった。
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一日歩く。
寝る。
また歩く。
寝る。
それを。
何十回も。
「一月で着くの?」
「順調ならな」
「順調じゃなかったら?」
「もっと」
「雨降ったら?」
「道が悪くなる」
「もっと?」
「もっと」
「魔物が出たら?」
「迂回するか、足止めだな」
「もっと?」
「そうなることもある」
「……」
エイルは地図を思い出す。
指でなぞれば。
ほんの少しだった。
「遠いって」
初めて。
その言葉の意味が分かった気がした。
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「じゃあ馬車」
エイルが言う。
「馬車なら?」
「二週間くらいか」
「二週間?」
「ああ。順調ならな」
「半分?」
「まあな」
「ずっと同じ馬車?」
「そんな便利なもんあるか」
セドが荷物を下ろしながら説明する。
「まずここから街まで出る」
「うん」
「そこから大きい街道に乗る」
「うん」
「途中の街で馬車を替える」
「何回?」
「その時次第だ」
「待つ?」
「当然」
「どれくらい?」
「次の日すぐ出ることもあれば、何日か待つこともある」
「じゃあ二週間じゃないじゃん」
「だから順調ならって言っただろ」
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エイルは。
学校のある都市を想像した。
遠い。
ものすごく。
遠い。
「休みの日に帰れる?」
セドが止まる。
エイルを見る。
「本気で言ってる?」
「……無理?」
「帰ってる間に休み終わるぞ」
「そっか」
「というか、着く前に終わる」
「……そっか」
ようやく。
母が言っていた意味が分かった。
学校へ行く。
それは。
朝に家を出て。
知らない場所へ行って。
夜に戻ることではない。
村を。
離れるということだった。
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「エイル」
セドが聞く。
「それでも行きたいのか?」
エイルは少し黙った。
今までなら。
すぐに「行きたい」と言ったかもしれない。
でも。
一月。
毎日歩いても。
それだけ遠い場所。
家。
父。
母。
リナ。
村。
全部から離れる。
「……行きたい」
少し遅れて。
答えた。
「怖いけど」
セドがエイルを見る。
それから。
「そうか」
それだけ言った。
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「学校入るの難しい?」
「知らん」
「セドでも?」
「俺を何だと思ってる」
「商人」
「やっと分かったか」
「でもいろんな街行くじゃん」
「行くのと学校に詳しいのは別だ」
「何か聞いたことない?」
「あるにはある」
「何?」
セドは少し考える。
「金がかかる」
エイルの顔が曇った。
「それは聞いた」
「試験受けるにも必要だったと思うぞ」
「試験に?」
「ああ」
「落ちても?」
「多分な」
「返ってこない?」
「多分」
「……ずるくない?」
「学校に言え」
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「受かったあとも金はかかる」
「それも聞いた」
「住む場所」
「学校にないの?」
「あるところもある」
「そこも?」
「金」
「ご飯」
「金」
「本」
「金」
「紙」
「金」
エイルは黙った。
「何でもお金じゃん」
「世の中だいたいそうだ」
「嫌な世の中だね」
「商人の前で言うな」
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その夜。
エイルは。
セドから聞いた話を両親にした。
「歩いて一月以上だって」
トーマが答える。
「そうか」
「驚かないの?」
「遠いって言っただろ」
「一月って知ってた?」
「そこまでは知らん」
「馬車でも二週間」
「金もかかるな」
「……そこ?」
「大事だろ」
大事だった。
今のエイルには。
嫌なくらい分かる。
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「試験にもお金かかるかもしれないって」
「だろうな」
「受かったら住むところも」
「ああ」
「ご飯も」
「ああ」
「本も」
「ああ」
「紙も」
「ああ」
エイルは。
だんだん腹が立ってきた。
「父さん、ああしか言ってない」
「全部その通りだからな」
---
少し黙って。
エイルは聞いた。
「うち」
トーマとミラを見る。
「払える?」
今度は。
二人ともすぐには答えなかった。
その間で。
なんとなく。
分かった。
---
「今すぐなら」
トーマが言った。
「無理だ」
はっきり。
エイルは。
膝の上の手を見る。
「……そっか」
「でも」
顔を上げる。
「今すぐじゃない」
「貯めたら足りる?」
「分からん」
「分からないの?」
「ああ」
「じゃあ――」
「エイル」
ミラが止める。
「学校に行くまで、まだ時間があるでしょう?」
「うん」
「お金のことは私たちも考える」
「でも俺の学校だよ」
「だからって」
トーマが言う。
「お前が明日から商人になって国中走るのか?」
「できない」
「畑増やすか?」
「俺の畑ない」
「だろ」
---
「俺も働く」
「今も働いてる」
「もっと」
「それは駄目」
ミラが言った。
「なんで?」
「勉強する時間がなくなるから」
「でも金ないと行けない」
「勉強しなかったら、お金があっても入れないよ」
エイルは黙った。
それも。
正しい。
---
「じゃあどうすればいいの」
「今は勉強」
トーマが言った。
「俺たちは?」
「金のことを考える」
「それで足りなかったら?」
「そのとき、また考える」
「そればっかり」
「まだ何年も先のことを、今日全部決められるか」
「……できない」
「なら一個ずつだ」
一個ずつ。
最近。
よくそうなる。
---
その夜。
エイルは本を開いた。
地図。
村のある辺り。
何も書かれていない場所。
そこに。
指を置く。
次に。
学校のある都市。
遠く離れた文字。
指でなぞる。
---
歩けば。
一月以上。
馬車を乗り継いでも。
二週間ほど。
しかも。
順調なら。
途中で雨が降るかもしれない。
道が悪くなるかもしれない。
魔物が出るかもしれない。
馬車を何日も待つかもしれない。
遠い。
本当に。
遠い。
---
その先にも。
試験。
金。
住む場所。
食事。
本。
紙。
知らなかったことを。
一つ知るたび。
学校は。
近くなるどころか。
遠くなっていく。
そんな気がした。
---
エイルは。
本を閉じようとした。
そのとき。
地図の端にある文字が目に入った。
前に見たとき。
読めなかった文字。
「……」
一文字。
次。
少し迷う。
その次。
最後まで。
ゆっくり読む。
読めた。
---
もう一度。
最初から。
読める。
エイルは。
しばらくその文字を見た。
学校は。
昨日より遠く見える。
でも。
昨日読めなかった文字は。
今日読める。
その二つは。
同時に本当だった。
---
エイルは。
地図のページを閉じる。
次のページを開いた。
学校までは。
一月以上。
今日歩き始めても。
明日には着かない。
でも。
まだ。
出発する日ではない。
今は。
一文字。
一問。
一つずつ。
それでいい。
エイルは。
続きを読み始めた。




