第三十二話 足りないもの
春になって、セドが村へ来る回数も元に戻ってきた。
冬の間は雪や道の状態が悪く、来ないことも多かった。それだけに、村の入口に荷車が見えると、子供たちが真っ先に走っていく。
「セドだ!」
「お菓子!」
「塩はあるか!」
最後だけは大人の声だった。
エイルも荷車のところへ向かった。
以前なら、真っ先に荷台を覗いていただろう。
今日は違う。
「セド」
「なんだ?」
「字、読める?」
荷物を下ろしていたセドの手が止まった。
「喧嘩売ってんのか?」
「違うよ」
「読める」
「どれくらい?」
「お前より」
「それは分かる」
「じゃあ聞くな」
エイルは少し考えてから、もう一つ聞いた。
「本も読める?」
「ものによる」
思わず顔をしかめる。
「大人って本当にそれ好きだね」
「便利だからな」
父と同じだった。
「本が欲しいのか?」
「欲しい」
今度は即答した。
「何の本だ?」
そこでエイルは止まった。
そこまでは考えていなかった。
「……字?」
「字の本?」
「勉強できるやつ」
「お前が?」
「うん」
セドが怪訝そうな顔をする。
「どうした?」
「学校に行きたい」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
家族以外に話したのは、これが初めてだった。
けれどセドは笑わなかった。
「学校か」
「うん」
「どこの?」
「まだ知らない」
「知らないのに行くのか」
「行きたいだけ」
「なるほどな」
セドは抱えていた荷物を下ろした。
「トーマとミラは知ってるのか?」
「うん」
「そうか」
それ以上は何も言わなかった。
無理だとも、やめておけとも言わない。
「それで本か」
「うん」
「高いぞ」
エイルは黙った。
「どれくらい?」
「ものによる」
「またそれ」
「本当にものによるんだよ。紙が高いし、書くのにも手間がかかる。運ぶのだってただじゃない」
「一番安いやつなら?」
「お前が持ってる金じゃ厳しいだろうな」
「まだいくら持ってるか言ってないよ」
「持ってるのか?」
「……少し」
金額を言うと、セドは笑った。
「無理だ」
「そんなに?」
「そんなにだ」
エイルは荷台を見る。
布、塩、針、金具、乾物。
紙は少しあったが、本は見当たらない。
「次、本持ってきてよ」
「金があるならな」
「ない」
「じゃあ持ってこない」
「見るだけでも」
「売れない物をわざわざ運ぶのか?」
「一冊くらい」
「重いんだよ」
もっともだった。
腹は立つけれど。
「じゃあ、古いやつ」
「何が?」
「本。破れててもいい。字が読めれば」
セドが少し考えた。
「それなら、街で聞いてみるくらいはできる」
エイルの顔が上がる。
「本当?」
「期待するなよ」
「する」
「するなって言っただろ」
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その夜、エイルはセドとの話を両親にした。
「本?」
トーマが聞き返す。
「うん。安いのがあったら探してもらう」
「買うの?」
ミラが聞いた。
「買えるなら」
「金は?」
「俺の」
「足りるのか?」
「足りない」
「駄目じゃねえか」
「だから安いやつを探してもらうんだよ」
トーマは少し考えてから頷いた。
「まあ、自分の金なら好きにしろ」
「いいの?」
「ああ」
「足りなかったら?」
「買えない」
「少しくらい――」
「貸さん」
「まだ言ってない!」
「顔に書いてある」
最近、先回りされることが増えた。
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それからも、夜の勉強は続いた。
木の板に炭で文字を書く。
読む。
消す。
また書く。
紙は使わない。
もったいないからだ。
「これは?」
ミラが板の文字を指す。
エイルが読むと、ミラは首を振った。
「違う」
「昨日、父さんはそれでいいって言ったよ」
「トーマ」
少し離れたところにいたトーマが振り返る。
「なんだ?」
「これ、なんて読む?」
トーマは板を見た。
しばらく黙る。
「……そっちか」
「父さん!」
「似てるだろ」
「違うよ」
ミラが呆れたように言う。
「父さんも間違えてるじゃん!」
「だから俺に字を聞くなって言っただろ」
「最初に教えたの父さんじゃん!」
「読めるとは言った。得意とは言ってない」
「ずるい!」
結局、文字はミラに聞くことが増えた。
反対に、計算はトーマの方が得意だった。
畑で使うような計算なら特に速い。
「なんで字より計算できるの?」
「必要だから」
「字も必要じゃない?」
「俺は畑に手紙を書かん」
「本は?」
「読まん」
「父さんも学校行ってないんだよね」
「ああ」
エイルは少しだけ考えた。
父も子供の頃は、今の自分と同じように知らないことばかりだったのだろうか。
そう思うと、少し変な感じがした。
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数日後、セドがまた来た。
荷車が見えた瞬間、エイルは走り出しかけた。
けれど、両手に持っている水桶を見る。
一度家まで運んで置いた。
それから走った。
少しくらいは成長している。
「セド!」
「うるせえ」
「本!」
「まず挨拶しろ」
「こんにちは。本!」
「変わらんな、お前」
セドは荷台を探り、一冊の本を取り出した。
「一応あったぞ」
エイルが足を止める。
「本当?」
出てきたものは、想像していた本とは少し違った。
薄い。
汚れている。
端が破れていて、表紙も半分取れかけている。
「……これ?」
「嫌ならいらん」
「いる!」
すぐ手を伸ばすと、セドが本を引っ込めた。
「金」
「見るだけ!」
「汚すだろ」
「もう汚れてるじゃん」
「さらに汚す」
「けち!」
値段を聞く。
エイルは自分の金を数えた。
「……足りない」
「言っただろ」
「でもこれ、破れてるよ?」
「破れてるな」
「汚いし」
「汚いな」
「表紙も取れそう」
「取れそうだな」
「もっと安くしてよ」
「嫌だ」
「なんで!」
「俺も金を出して買ったからだよ」
「いくら?」
「教えん」
「ずるい」
あと少しだった。
本当に少しだけ足りない。
「……次まで取っといて」
「売れたら売る」
「売らないでよ」
「商人に何言ってんだ」
「お願い」
「知らん」
セドが本を荷台へ戻そうとする。
「待って」
エイルは少し考えた。
「仕事する」
「何の?」
「荷物運ぶ」
「いつも手伝わせてるだろ」
「金くれるなら、もっとやる」
セドが止まった。
「お前」
「何?」
「商売覚えたな」
「学校行きたいから」
セドは笑った。
「じゃあ、あの袋を三つ運べ」
「いくら?」
金額を聞く。
「安い」
「嫌ならいいぞ」
「やる」
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一つ目は穀物の袋だった。
重い。
ベルンの家まで運び、戻る。
二つ目は塩。
これも重い。
三つ目は布で、少し楽だった。
「終わった!」
「おう」
「金」
「分かってるよ」
受け取って数える。
まだ本には届かない。
「……」
「一日で稼げると思うな」
セドが言った。
「あとどれくらい?」
「次に来たときも働けば届くんじゃないか」
エイルは荷台に戻された本を見る。
「売らないでよ」
「約束はせん」
「けち」
「商人だからな」
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それからエイルは、少し忙しくなった。
家の仕事。
畑。
夜の勉強。
セドが来れば荷運び。
やりたいことは他にもあったが、一日に全部はできない。
畑仕事が長引いた日は勉強を短くする。
疲れた日は早く寝る。
仕事で必要なら魔力も使う。
何でも一度にやろうとすると続かないことくらいは、前より分かるようになっていた。
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十日ほどして、また荷車がやって来た。
「セド!」
「こんにちはは?」
「こんにちは!」
「よし」
「本!」
「あるよ」
エイルはほっと息を吐いた。
売れていなかった。
その日は四つ、荷物を運んだ。
最後の袋はかなり重い。
魔力を使えば、もっと楽に持てる。
エイルは少しだけ身体へ回した。
腕と脚。
持ち上げるのに必要な分だけ。
まだこのあと、自分の家の仕事もある。
「終わった」
「おう」
セドから金を受け取る。
自分が貯めていた分と合わせ、もう一度数えた。
「……足りる」
「足りるな」
セドが例の本を取り出す。
エイルは金を渡した。
そして、本を受け取った。
初めて自分で買った本だった。
薪よりずっと軽い。
なのに、持っている感じは不思議とそれより大きかった。
「それ、字の練習だけじゃないぞ」
セドが言う。
「何が書いてあるの?」
「簡単な地理とか、数の問題とか。子供向けの本だ」
エイルは表紙を見る。
読もうとした。
「……」
知らない文字がある。
「読めない」
「勉強するための本なんだから、ちょうどいいだろ」
「確かに」
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家へ戻ると、真っ先にリナが見つけた。
「兄ちゃん、それ何?」
「本」
「見せて」
「手、洗って」
「なんで?」
「汚れる」
リナが本を見る。
「もう汚いよ」
エイルは止まった。
「……それ、俺もセドに言った」
「じゃあいい?」
「駄目」
「けち」
「本に関しては、けちでいい」
言ってから、どこかで聞いた言い方だと思った。
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夜。
家族みんなで本を開いた。
最初のページ。
エイルが読む。
一つ目は分かる。
次は分からない。
ミラに聞く。
その次は読める。
さらに次で、また止まる。
進むのは遅かった。
かなり遅い。
それでも、今までとは少し違う。
父や母に教えてもらうだけではなく、本の中に自分の知らないことがいくつも入っている。
数ページ進んだところで、エイルの手が止まった。
そこには線と文字で描かれた、大きな図があった。
「これ何?」
ミラが覗き込む。
「国の地図じゃない?」
「これが?」
「かなり簡単なものだけどね」
エイルはページへ顔を近づけた。
自分が暮らしている国の形を、初めて見た。
「村はどこ?」
「この地図じゃ分からないよ」
「なんで?」
「小さすぎるから」
「じゃあ街は?」
「大きいところなら載ってるかもね」
エイルは地図の上に並ぶ文字を追う。
読めるものもある。
読めないものの方が多い。
「学校は?」
ミラも少し探したが、やがて首を振った。
「この本には載ってないと思う」
「そっか」
少し残念だった。
それでもエイルはページを閉じなかった。
自分の村は載っていない。
学校がどこにあるのかも分からない。
けれど、村の外に道があって、その先にも街があって、さらにその向こうにも知らない場所がある。
「兄ちゃん」
リナが地図を横から覗く。
「これ面白い?」
エイルは少し考えた。
「まだ分かんない」
「なんで?」
「読めないところが多いから」
「じゃあ面白くないじゃん」
「読めるようになったら分かる」
「いつ?」
「そのうち」
リナが笑った。
「父さんみたい」
それは少し嫌だった。
エイルはもう一度、本へ目を戻した。




