第三十一話 勉強
翌朝。
エイルはいつもより少し早く起きた。
服を着て、顔を洗い、朝食を済ませると、まだパンを食べているトーマの前に座った。
「父さん」
「なんだ」
「字」
トーマの手が止まる。
「今?」
「うん」
「畑は?」
「その前にやる」
「俺はまだ飯食ってるぞ」
「食べながらでいいよ」
「俺がよくない」
「じゃあ待つ」
エイルはそのまま座って待った。
トーマがパンを食べる。
待つ。
水を飲む。
まだ待つ。
「……お前、ずっとそこにいるのか?」
「うん」
「食いにくい」
「気にしないで」
「気になるんだよ」
それでもエイルは動かなかった。
やがてトーマが食べ終わる。
よし、とエイルが立ち上がると、トーマも立ち上がった。
「行くぞ」
「うん。どこでやる?」
「畑」
「字は?」
「夜だ」
「今やるんじゃないの?」
「言ってない」
「じゃあ、なんで待たせたの?」
「勝手に待ってただろ」
「父さん!」
「ほら、手を動かせ」
結局、その朝もいつも通り畑へ行くことになった。
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春になってから、仕事は一気に増えていた。
土を起こす。
芽の様子を見る。
水の溜まった場所を直す。
柵を確認する。
冬の間止まっていたものが、まとめて動き始めたようだった。
エイルは鍬を振りながら、隣のトーマを見る。
「父さん」
「なんだ」
「学校行くなら、畑やらなくていい?」
トーマが振り返った。
「なんでそうなる」
「勉強しないと駄目なんでしょ?」
「だからって畑が消えるわけじゃない」
「時間ないじゃん」
「朝から夜まで勉強する気か?」
「必要なら」
「三日で嫌になるぞ」
「ならない」
「そうか」
トーマが笑った。
「何?」
「いや」
「絶対信じてないでしょ」
「手が止まってるぞ」
エイルは鍬を振った。
少し腹が立つ。
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昼前に一度家へ戻った。
ミラが家の中で仕事をしている。
「母さん」
「何?」
「字教えて」
ミラが手を止める。
「今?」
「うん」
「じゃあ、その前に水を汲んできて」
「そのあと?」
「鶏を見て」
「そのあと?」
「薪」
「そのあと?」
「お昼」
エイルは黙った。
「……勉強は?」
「仕事が終わってから」
父と同じだった。
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水を汲む。
鶏を見る。
薪を運ぶ。
昼を食べる。
午後はまた畑へ行った。
夕方には家畜を見て、使った道具を片づける。
全部終わった頃には、もう外が暗くなり始めていた。
「……時間ない」
家の前でエイルが呟く。
近くで遊んでいたリナが振り返った。
「何が?」
「勉強」
「しなかったの?」
「できなかった」
「なんで?」
「仕事してたから」
リナは少し考えた。
「じゃあ明日」
「明日も仕事あるよ」
「じゃあできないね」
「簡単に諦めるなよ」
「私の勉強じゃないもん」
それはそうだった。
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夕食が始まると、エイルはいつもより早く食べた。
「ごちそうさま」
すぐに立ち上がろうとする。
「座ってなさい」
ミラに止められた。
「なんで?」
「まだみんな食べてるでしょ」
「勉強する」
「逃げないよ」
「でも時間が――」
「食事くらい一緒に食べなさい」
エイルは渋々座り直した。
向かいでリナが笑う。
「怒られた」
「お前は食べろ」
「食べてる」
トーマまで笑っている。
「父さんも笑うなよ」
「食事中だぞ」
「笑うのはいいの?」
「いい」
納得できない。
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食事が終わり、片づけも手伝った。
それが全部済んでから、ようやくトーマが机の前に座った。
「ほら」
机の上に置かれたのは木の板と炭。
それから、古い紙が一枚。
エイルはすぐに紙を見る。
「紙あるの?」
「ある」
「これに書く?」
「書かん」
「なんで出したの?」
「見本だ」
「一枚くらいいいじゃん」
「高い」
「けち」
「紙に関しては、けちでいい」
エイルは仕方なく木の板を自分の前へ寄せた。
「これに書くの?」
「ああ」
トーマが炭を持った。
「まず、どれくらい読めるか見るぞ」
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板に一つ、文字を書く。
「これは?」
「知ってる」
「読め」
エイルが読む。
トーマが次を書く。
「これは?」
「それも知ってる」
「じゃあ読め」
少し迷ってから答える。
正解だった。
次も読めた。
村で暮らしていても、文字をまったく見ないわけではない。
荷物や道具。
セドが持ってくる品。
ベルンの家に置かれているもの。
簡単な文字なら、エイルも覚えていた。
五つほど続けて読めたところで、少し嬉しくなる。
「俺、結構できるじゃん」
「そうか」
トーマが次の文字を書く。
エイルは黙った。
「読め」
「待って」
「結構できるんだろ」
「今思い出してる」
「そうか」
「……」
見たことはある気がする。
でも読めない。
「知らないんだな」
「今思い出してるって」
「じゃあ待つ」
さっきの仕返しみたいに言われた。
腹が立つ。
けれど、いくら考えても出てこなかった。
「……知らない」
「よし」
「なんで嬉しそうなの?」
「やっと認めたからだ」
次の文字。
それも分からない。
さらに次。
これは見たことがある。
でも、やっぱり読めない。
最初の自信は、あっという間になくなった。
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「まあ、こんなもんだな」
トーマが板を見る。
「こんなもん?」
「村で暮らすなら、今でもそこまで困らん」
「学校は?」
「知らん」
「知らないのに教えてるの?」
「少なくとも、もっと読めた方がいいだろ」
それはエイルにも分かる。
「じゃあ書いてみろ」
炭を渡された。
まずは自分の名前。
これは書ける。
エイル。
少し歪んだが、読める。
「下手」
横から声がした。
いつの間にかリナが机を覗いている。
「うるさい」
「私も書く」
「お前、書けるの?」
「書ける」
自信満々だった。
エイルは炭を渡してみた。
リナが板に大きな線を引く。
その横に丸。
さらに一本。
「できた」
「何これ」
「リナ」
「どこが?」
「ここ」
「全部じゃん」
「リナだよ」
トーマが笑った。
「まあ、最初はそんなもんだ」
「俺と一緒にしないでよ」
「兄ちゃんより大きい」
「文字は大きさじゃない」
そこへミラもやってきた。
「何やってるの?」
「リナが新しい文字作った」
「これ私!」
リナが板を見せる。
ミラは少し眺めてから、
「上手」
と言った。
「母さん!」
「何?」
「甘やかしすぎ」
「四歳の子に何を求めてるの」
エイルは黙った。
それもそうだった。
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次は計算だった。
こちらは文字よりずっと楽だった。
普段の仕事でも使うからだ。
「袋が七つある」
トーマが言う。
「一袋から三つずつ使った。全部でいくつだ?」
「二十一」
「早いな」
「畑でやるから」
「じゃあ二十一個を四人で分ける」
「五個ずつで、一個余る」
「じゃあ十三袋を――」
「待って」
「まだ何も言ってないぞ」
「嫌な予感した」
「勉強したいんだろ」
「したいけど」
「ならやれ」
最初は楽しかった。
考える。
答える。
合っている。
知らないことも、説明を聞けば少しずつ分かる。
けれど、しばらくすると頭が重くなってきた。
昼間はずっと働いていた。
身体も疲れている。
目も眠い。
トーマが新しい問題を書く。
エイルは板を見る。
数字が頭に入ってこない。
「……十二」
「違う」
「十?」
「違う」
「十五」
「適当に言うな」
「分かんない」
「なら、もう一回考えろ」
「……」
考える。
でも、さっきまでなら分かったはずのものまで分からない。
「父さん」
「なんだ」
「明日じゃ駄目?」
朝はあれだけ急いでいたのに、自分から言った。
トーマは笑わなかった。
「ああ」
板を引き寄せる。
「今日は終わりだ」
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布に入ると、すぐに身体が沈むような感じがした。
疲れた。
畑。
家の仕事。
字。
計算。
全部やればいいと思っていた。
でも一日は増えない。
身体も一つしかない。
隣を見ると、リナはもう寝ている。
「早いな……」
エイルも目を閉じた。
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翌朝。
今度は昨日ほど早く起きなかった。
普通に朝食を食べ、畑へ行く。
昼も働く。
夕方まで仕事をする。
そして夜。
片づけまで終わったところで、エイルはトーマの前に座った。
「父さん」
「なんだ」
「今日もやる」
「ああ」
昨日の文字から始めた。
一つ。
読める。
次。
これも読める。
その次。
「……」
昨日も分からなかった文字だ。
「またこれ」
「昨日やったぞ」
「覚えてない」
「なら今日もやる」
「何回?」
「覚えるまで」
「何回で覚えられる?」
「それが分かったら苦労せん」
「父さんも知らないんだ」
「知らん」
エイルは板を見る。
昨日より少しだけ気が楽になった。
分からないなら、もう一度やればいい。
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それから何日か、同じ生活が続いた。
昼は仕事。
夜は勉強。
毎日長くやるわけではない。
疲れている日は少しだけ。
仕事が多い日は休むこともある。
それでも、完全にはやめなかった。
ある夜。
トーマが板に文字を書く。
エイルが読む。
次も読む。
三つ目は少し迷ったが、それも読めた。
トーマの手が止まる。
「覚えたな」
「全部?」
「今日出した分はな」
「昨日できなかったやつも?」
「ああ」
エイルは板を見る。
何度見ても読めなかった文字が、今日は普通に読める。
「……できた」
「そうだな」
嬉しかった。
魔力を動かせるようになったときとは少し違う。
けれど、できなかったことができるようになるのは同じだった。
「次」
「もう寝ろ」
「あと一個」
「明日」
「一個だけ」
「明日だ」
「父さん」
「寝ろ」
「けち」
「睡眠は減らすな」
「冬の食事みたいに言わないでよ」
トーマが笑った。
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寝床に入ってから、エイルは今日覚えた文字を頭の中で思い返した。
一つ。
二つ。
三つ。
学校はまだ遠い。
行けるかどうかも分からない。
金のことも、試験のことも、何も決まっていない。
それでも、昨日読めなかった文字が今日は読めた。
なら明日は、もう一つ覚えればいい。
エイルはそこまで考えると、今度はすぐに眠った。




