第三十話 行きたい
春になっても、すぐに腹いっぱい食べられるわけではなかった。
「話が違う」
朝食を見て、リナが言った。
薄い粥に豆。それから小さなパン。
冬の間と、あまり変わらない。
「誰と何の話をしたの?」
ミラが聞く。
「兄ちゃん」
エイルが顔を上げた。
「俺?」
「春になったら、いっぱい食べられるって言った」
「多分って言っただろ」
「春になった」
「なったね」
「いっぱいは?」
「まだだね」
「嘘つき」
「だから多分って言ったじゃん」
向かいでトーマが笑う。
「畑に種を植えたら、その日に食えると思ってたのか?」
リナが父を見る。
「食べられないの?」
「育つまで待つ」
「どれくらい?」
「いっぱい」
リナがすぐに眉を寄せた。
「またそれ」
冬の間に、その答えが当てにならないことだけは覚えたらしい。
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畑仕事が本格的に始まった。
冬の間、食べずに残していた種を倉から出す。
エイルはその袋を両手で受け取った。
「これ?」
「ああ。落とすなよ」
「分かってる」
思ったより軽い。
袋の中には、冬のあいだ誰も食べなかったものが入っている。
これを食べていれば、何日かはもう少し腹が膨れたかもしれない。
それでも残した。
今は、その理由が分かる。
トーマたちと畑を進みながら、土を起こし、種を蒔き、また土をかぶせていった。
エイルも必要なときだけ身体へ魔力を回す。
冬の前とは、少し使い方が変わっていた。
以前は、使えるなら使った方がいいと思っていた。
強く動ける。
重いものを持てる。
仕事も早くなる。
それが面白かった。
けれど今は、楽にできることより、疲れすぎないことの方が大事だった。
鍬を振りながら、エイルが言う。
「父さん」
「なんだ」
「前より少ない魔力でできる」
「そうか」
「同じくらい動ける」
「よかったな」
「なんでだと思う?」
「知らん」
「考えてよ」
「仕事中だ」
「俺も仕事中だよ」
「じゃあ手を動かせ」
「動かしてる」
トーマの鍬が土へ入る。
エイルも負けずに振った。
こういうやり取りも、冬の前と同じになってきた。
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数日後。
畑に小さな芽が出た。
エイルはしゃがみ込む。
「これ、麦?」
「ああ」
「小さい」
「最初はな」
「これが麦になるの?」
「そうだ」
「全部?」
「全部は育たん」
「なんで?」
「枯れるのもある」
エイルは芽を見る。
「もったいない」
「だからある程度多めに蒔く」
「なるほど」
ほんの少し前まで、袋の中に入っていた種だ。
食べずに土へ埋めたものが、もう別の姿になっている。
エイルは指で触ろうとして、やめた。
「触るなよ」
すぐ後ろからトーマの声がした。
「触ってないよ」
「今、触ろうとしただろ」
「見るだけ」
「なら手を出すな」
エイルは手を引っ込めた。
「父さん、見てた?」
「お前が余計なことするときは分かる」
「すごいね」
「十二年見てるからな」
それなら仕方ない。
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その日の夕食には卵が出た。
一人一つではない。
家族で二つ。
それでもリナは嬉しそうだった。
「卵!」
「見れば分かる」
「兄ちゃん半分ね」
「俺にもあるよ」
「じゃあ私の半分いらない?」
「いらない」
「よかった」
エイルは思わず笑った。
「何?」
「いや。そこは変わらないなと思って」
「何が?」
「リナ」
「私?」
「うん」
「変?」
「普通」
「ならいい」
本人は納得したらしい。
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食事が終わると、リナは隣の家へ遊びに行った。
ミラは片づけを始め、トーマは道具の柄を直している。
エイルは入口で少し迷ってから、家の裏へ出た。
いつもの場所にある石を一つ持つ。
軽い。
少し大きなものに変える。
両手で掴み、身体へ魔力を回す。
腕だけではない。
脚で立って、腰で支える。
持ち上げる。
「よし」
下ろした。
以前なら、これだけで何度も試していた。
でも今日は、石を持ち上げたいわけではない。
エイルはその場に座った。
思い出す。
サナが小さな火を灯したときのこと。
冬の間は、ほとんど考える余裕がなかった。
食べ物と薪の方が大事だった。
春になって、少しだけ余裕が戻ってきた。
だからまた、気になり始めていた。
サナは魔力を集めた。
そこまでは分かる。
そのあとに、自分には分からない何かをしていた。
何度考えても、そこから先へ進めない。
エイルは目を開けた。
以前なら、それでも自分で何とか分かろうとしていた。
今は一つだけ、別の方法を知っている。
学校。
魔術だけを習う場所ではないらしい。
字や計算、いろいろなことを学ぶ場所。
その中に、魔術もある。
遠い。
金もかかる。
誰でも行くわけではない。
そこまで聞いたところで冬が来て、それきりになっていた。
エイルは家を見る。
聞こう。
そう思ったのに、すぐには立てなかった。
行けないと言われたらどうしよう。
金がない。
遠い。
無理だ。
そう言われたら、それで終わる。
「……」
でも、知らないままなのも嫌だった。
エイルは立ち上がった。
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家に戻る。
トーマはまだ道具を直していた。
ミラもいる。
「父さん」
「なんだ」
「ちょっといい?」
「いいぞ」
いつもと同じ返事だった。
だから余計に言いにくい。
「前に話したやつ」
「何だ?」
「学校」
トーマの手が止まった。
ミラもエイルを見る。
「覚えてる?」
「そんな昔じゃないだろ」
「冬、長かったから」
「それはそうだな」
トーマは道具を横へ置いた。
「それで?」
エイルは少し黙った。
魔術を知りたい。
サナがやっていたことも知りたい。
学校という場所も見てみたい。
いろいろ浮かんだ。
でも、口から出たのは一番簡単な言葉だった。
「俺、行きたい」
トーマはすぐには答えなかった。
ミラも黙っている。
「学校に」
エイルは続けた。
「魔術もちゃんと知りたい。ずっと考えてても分からないし、教えてもらえるなら……行ってみたい」
言ってしまった。
しばらく静かだった。
「駄目?」
エイルが聞く。
トーマは首を振った。
「まだ、駄目とかいいとかの話じゃない」
「じゃあ行ける?」
「それもまだ分からん」
「どっち?」
「だから、行きたいだけで行ける場所じゃないんだ」
「遠いのと、お金?」
「ああ。それもある」
「他にも?」
「ある」
「何?」
トーマがミラを見る。
ミラが答えた。
「入るための試験があるの」
エイルは止まった。
「試験?」
「そう」
「何するの?」
「学校によるだろうけど、字を読んだり書いたり、計算したり。そういうのは必要だと思う」
「魔術は?」
「魔力を見る試験があるところもあるって聞いたことはあるよ」
エイルは自分の手を見る。
「俺、魔術使えないけど」
「入る前から何でも使えたら、習いに行く意味もないだろ」
トーマが言った。
「……確かに」
少し安心した。
ところが、トーマが続ける。
「お前、字はどれくらい読める?」
エイルの動きが止まった。
「……少し」
「書けるか?」
「名前」
「他は?」
「少し」
「計算は?」
「できる」
「どれくらい」
「畑の数とか」
「それ以外は?」
「……」
エイルは黙った。
トーマも何も言わない。
「俺、全然駄目?」
今度はミラが答えた。
「今のままなら、かなり難しいと思う」
はっきり言われた。
「そっか……」
少し下を向く。
「でも」
トーマが言った。
エイルは顔を上げた。
「無理とは言ってない」
「でも難しいんでしょ」
「ああ」
「お金もかかる」
「ああ」
「遠い」
「ああ」
「試験もある」
「ああ」
エイルは眉を寄せた。
「……無理じゃん」
「お前、明日行くのか?」
「行かない」
「来週?」
「行かない」
「なら時間はあるだろ」
エイルは止まった。
「勉強すればいい」
トーマは簡単に言った。
「字も?」
「ああ」
「計算も?」
「ああ」
「誰に教えてもらうの?」
「そこから考える」
「父さん?」
「畑なら教える」
「字は?」
「……少しなら」
「書けるの?」
「失礼だな、お前」
ミラが笑った。
エイルも少し笑った。
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「それとね」
ミラが言った。
「学校に行くなら、村を出ることになるよ」
「どれくらい?」
「何年か」
「ずっと?」
「ずっとではないけど、毎日帰ってこられる距離じゃないのは分かるでしょ」
エイルは黙った。
家の中を見る。
トーマ。
ミラ。
今はいないけれど、たぶん隣の家で騒いでいるリナ。
外には村がある。
畑がある。
森がある。
生まれてから、ずっとここで暮らしてきた。
学校へ行きたいと思ったとき、そこまでは考えていなかった。
「それでも行きたい?」
ミラに聞かれた。
すぐには答えられなかった。
「……分かんない」
正直に言った。
ミラは頷く。
「それでいいよ」
「いいの?」
「今、全部決めなくていい」
トーマも頷いた。
「まず勉強してみろ」
「それで?」
「それでも行きたかったら、そのときちゃんと考える」
エイルは少し考えてから、
「分かった」
と答えた。
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その夜。
寝床に入ると、隣にはリナがいた。
いつも通り、布を取りすぎている。
「リナ」
「なに?」
「そっち行って」
「寝てる」
「喋ってるじゃん」
布を引っ張り返す。
リナも引っ張る。
「寒い」
「俺も寒い」
「春なのに」
「夜は寒いんだよ」
「春、役に立たないね」
「春に怒るなよ」
しばらく引っ張り合って、結局ほぼ半分ずつになった。
エイルは天井を見る。
学校へ行けば、こういう夜も毎日ではなくなる。
それは少し嫌だった。
でも、魔術のことは知りたい。
それ以外にも、学校で何を学ぶのか気になる。
行けるかどうかは、まだ分からない。
本当に村を出たいのかも、全部は決められない。
ただ、明日から一つやることが増えた。
字と、計算。
エイルは隣を見る。
リナはもう眠っていた。
「……寝るの早いな」
小さく呟いて、エイルも目を閉じた。




