第二十九話 雪解け
最初に気づいたのは、リナだった。
「兄ちゃん!」
家の裏から声がする。
エイルは薪を割る手を止めた。
「なに!」
「来て!」
「今やってる!」
「いいから!」
「よくない!」
返事がない。
エイルは残った薪を見る。
あと三本。
少し迷って、一つだけ割った。
「兄ちゃん!」
「分かったよ!」
斧を置いた。
---
家の裏へ回ると、リナが地面にしゃがみ込んでいた。
「何?」
「これ」
指を差す。
「雪じゃん」
「違う。ここ」
よく見ると、雪の間から黒いものが覗いていた。
土だ。
「……土?」
「うん! 出てきた!」
エイルもしゃがみ、指で触れる。
湿っていて、冷たい。
ただの土だった。
冬になる前なら、わざわざ呼びに来られたら怒っていたかもしれない。
「雪、溶けたのかな」
「多分!」
エイルはリナを見る。
「最近それ使うね」
「兄ちゃんが言うから」
「俺そんなに言ってる?」
「いっぱい」
自覚はなかった。
---
「父さん!」
家に入ると、トーマが椅子に座っていた。
「なんだ」
「雪、溶けてる」
「そうか」
「見ないの?」
「見た」
「いつ?」
「朝」
エイルは止まった。
「なんで言わないの?」
「雪が溶けたぞって起こせばよかったか?」
「うん」
「嫌だよ。寒い」
「父さんも冬嫌いじゃん」
「好きな奴いるのか?」
外からリナの声が飛んできた。
「私も今は嫌い!」
聞こえていたらしい。
---
それから、雪は少しずつ減っていった。
一日でなくなるわけではない。
昼に溶け、夜になるとまた凍る。
そのせいで、朝の道はひどく滑った。
「うわっ!」
エイルの足が滑る。
慌てて踏ん張った。
後ろを歩いていたリナが笑う。
「転んだ?」
「転んでない」
「滑った?」
「滑っただけ」
「それ、前に兄ちゃんが『転んだ』って言ってた」
「尻ついてないから違う」
「ずるい」
「何が――」
もう一度滑った。
今度はきれいに尻から落ちる。
リナが指を差した。
「転んだ!」
エイルは地面に座ったまま答えた。
「……今のは転んだ」
さすがに認めるしかなかった。
---
雪が減るにつれて、村の中でも人の動きが増えていった。
柵を確認する者。
家畜小屋を直す者。
道の状態を見る者。
冬の間ほとんど使わなかった畑への道にも、少しずつ足跡がつくようになった。
ある朝、トーマに呼ばれた。
「エイル。畑行くぞ」
エイルは顔を上げる。
「畑?」
「ああ」
「もう仕事するの?」
「見るだけだ」
「何を見るの?」
「畑」
「それは分かるよ」
「じゃあ来い」
トーマはもう杖を持っていなかった。
冬の間に脚もかなり戻り、歩き方も以前とほとんど変わらなくなっている。
---
畑には、まだかなり雪が残っていた。
土が見えている場所を選び、トーマがしゃがみ込む。
土を手に取って握った。
「どう?」
「まだだな」
「何が?」
「畑」
「見れば分かる」
トーマが顔を上げた。
「じゃあ聞くな」
「父さんの真似しただけ」
「腹立つな」
トーマは立ち上がり、畑全体を見る。
「もう少し乾かんと無理だ」
「いつ?」
「天気次第」
「何日?」
「知らん」
「大人って――」
「ものによる」
先に言われた。
「それ俺が言おうとした」
「遅い」
帰ろうとしたところで、トーマが足を止めた。
「エイル」
「何?」
「あそこ」
畑の端。
雪の消えた地面に、小さな緑が出ている。
エイルは近づいた。
「草?」
「草だな」
「もう生えてる」
「ああ」
エイルはしゃがんで眺めた。
本当に小さい。
雪の下にずっといたはずなのに、もう伸び始めている。
「強いね」
「邪魔だけどな」
「せっかく褒めたのに」
「畑に生えたら抜くぞ」
「かわいそう」
「じゃあお前の寝床で育てろ」
エイルは少し考えた。
「それは嫌」
「だろ」
それでも、立ち上がる前にもう一度だけ草を見た。
---
昼の食事は、まだ少なかった。
雪が溶けたからといって、食べ物が急に増えるわけではない。
粥と豆、それに小さなパン。
リナが窓の外を見る。
「もう春?」
トーマが答える。
「まだだ」
「雪、溶けてるよ」
「全部なくなったか?」
「まだ」
「じゃあまだだ」
リナはしばらく考えた。
「全部なくなったら春?」
「まあ、そのくらいだ」
「じゃあ雪、川に捨てればいい?」
エイルが吹き出した。
「村全部の?」
「うん」
「頑張って」
「兄ちゃんも」
「嫌だよ」
「二人でやったら早い」
「そういう問題じゃない」
リナは本気でできると思っているらしかった。
---
午後、ドルクたち三人が森へ入った。
冬の間より、少し奥まで様子を見るらしい。
エイルは村の入口から見送った。
久しぶりに、ついていきたいと思った。
雪の減った森がどうなっているのか見たい。
動物の跡も見たい。
けれど、口には出さなかった。
今の自分が行っても、ドルクたちが気にする相手を一人増やすだけだ。
エイルは家へ戻った。
---
三人が戻ってきたのは夕方だった。
村の中央が急に騒がしくなる。
エイルが行ってみると、ドルクたちのそばに鹿が横たわっていた。
大きな鹿ではない。
それでも、兎とは比べものにならない。
「鹿?」
「鹿だ」
「一頭?」
「ああ」
近くの男がドルクの肩を叩く。
「よくやった」
人が次々に集まってくる。
その中を、リナが走ってきた。
鹿を見る。
目を見開く。
そして、
「肉!」
大きな声だった。
エイルは思わず笑った。
久しぶりに聞いた気がする。
「肉だね」
「今日食べる?」
「多分」
「多分?」
「ベルンさんに聞いて」
リナは本当にベルンのところへ走っていった。
「聞くんだ……」
---
その夜、本当に肉が出た。
量は多くない。
それでも冬の間に食べていたものより、明らかに大きかった。
リナは自分の肉をじっと見ている。
「食べないの?」
エイルが聞く。
「もったいない」
「冷めるよ」
「最後に食べる」
「前は最初に食べてたじゃん」
「変えた」
「なんで?」
「最後まであるから」
エイルは少し考えた。
なるほど。
自分の肉を一口食べる。
「……うまい」
「兄ちゃん」
「何?」
「食べた?」
「食べたよ」
「おいしい?」
「うん」
リナは自分の肉を見る。
まだ食べない。
食事の最後になって、ようやく口に入れた。
しかも一口ではなく、半分だけ。
ゆっくり噛む。
「おいしい?」
今度はエイルが聞いた。
リナは残り半分を大事そうに見ながら頷いた。
「うん」
それから、嬉しそうに笑った。
---
さらに数日が過ぎると、雪は一気に減った。
代わりに村中が泥だらけになった。
エイルは自分の靴を見る。
ぐちゃぐちゃだった。
「雪より嫌かも」
隣を歩くトーマが言う。
「すぐ乾く」
「いつ?」
「そのうち」
「何日?」
「知らん」
「父さん、そればっかり」
「自然に聞け」
「答えてくれる?」
「俺よりはな」
「絶対嘘だ」
---
そして、ある朝。
エイルは久しぶりに鍬を持って畑に立っていた。
雪はもう、ほとんど残っていない。
黒い土が広がっている。
村人たちも集まっていた。
鍬や袋を持ち、冬の間止まっていた畑を再び動かす。
トーマもいる。
ベルンもいる。
ドルクは森の様子を見に行っていた。
「今日から?」
エイルが聞く。
「ああ」
トーマが答える。
「植える?」
「まだ」
「じゃあ何するの?」
「土を起こす」
トーマが鍬を持った。
エイルも持つ。
久しぶりだった。
振り下ろす。
土へ刺さる。
「っ……」
硬い。
抜いて、もう一度。
冬の前なら、もっと楽にできた。
身体へ魔力を回せばいい。
やり方は覚えている。
けれど冬の間、それを使うことはかなり減っていた。
エイルは一度、手を止めた。
身体の中へ意識を向ける。
魔力はある。
なくなったわけではない。
少しだけ腕へ。
脚へ。
腰へ。
そのまま鍬を振る。
さっきより深く入った。
「……よし」
もう一度。
「エイル」
トーマに呼ばれた。
エイルは手を止める。
父は何も怒らなかった。
ただ、
「腹減るぞ」
と言った。
エイルは少し笑う。
「分かってる」
「ならいい」
もう一度、鍬を持つ。
たくさん使う必要はない。
楽になるところまで。
仕事を続けられるくらい。
少しだけ魔力を回して、また振り下ろした。
---
昼。
腹は減っていた。
それでも、冬の前に何も考えず使っていた頃ほどではない。
小さなパンを食べながら、エイルは畑を見る。
食事の量は、まだ戻っていない。
収穫なんてずっと先だ。
それでも今日は、畑で大人たちが働いている。
森からも人が出入りし始めた。
雪もほとんどない。
「父さん」
「なんだ」
「春?」
トーマは畑を見た。
今度は「まだ」と言わなかった。
「ああ」
少しだけ頷く。
「春だな」
エイルも畑を見る。
まだ何も植えていない。
何も生えていない。
それでも、春だった。
---
夕方、家へ戻るとリナが待っていた。
「兄ちゃん!」
「何?」
「雪なくなった!」
「知ってる。畑行ってたから」
「じゃあ春?」
エイルは少し得意になって答えた。
「春」
「ほんと?」
「父さんが言った」
「じゃあご飯増える?」
エイルの口が止まった。
「……すぐには増えない」
「なんで?」
「今から植えるから」
「いつ食べられる?」
「それは……」
後ろから歩いてきたトーマを見る。
「父さん」
「俺に振るな」
「何日?」
「ものによる」
エイルは笑った。
「やっぱりそれじゃん」
リナだけが不満そうだった。
「春なのに」
「春になっただけだからね」
エイルはそう言って、泥だらけの鍬を洗いに向かった。




