第二十八話 底
冬の終わりが近い。
そう言われても、エイルにはよく分からなかった。
朝は寒い。
雪はまだ残っている。
水は凍るし、薪は減る。
そして腹も減る。
昨日と、ほとんど何も変わらなかった。
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「これだけ?」
朝食を見て、リナが言った。
その言葉を聞くのは久しぶりだった。
器の中には薄い粥と、少しの豆。
パンはない。
ミラが答える。
「朝はね」
「昼は?」
「昼も似たようなものかな」
リナは器を見た。
「……そっか」
それ以上は何も言わず、匙を持つ。
エイルも食べ始めた。
薄い。
以前なら、水みたいだと思ったかもしれない。
今ではもう、これが普通になっていた。
食べ終わっても腹は減っている。
それも普通だった。
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トーマが立ち上がった。
「ベルンのところ行ってくる」
エイルが顔を上げる。
「また?」
「ああ」
「俺も?」
「今日はいい」
「なんで?」
「すぐ戻る」
それだけ言って、トーマは外へ出ていった。
エイルは閉まった扉を見る。
何となく嫌な感じがした。
最近、ベルンの家で話すことといえば、だいたい食べ物か薪のことだった。
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午前中は雪を退けた。
昨日は降っていないので、今日は少しだけで済む。
そのあと、エイルは薪置き場へ回った。
残っている薪を見る。
「……少ないな」
数えるまでもなかった。
冬の前には、あんなに積んでいた。
トーマと何度も森へ入り、大人たちも運んできた。
それなのに、今では最初の山がどれほど大きかったのかも思い出せない。
「兄ちゃん」
リナが横から顔を出した。
「なに?」
「なくなる?」
「何が?」
「薪」
エイルは残った薪を見る。
「なくなる前に春になるよ」
言ってから、少し止まった。
本当にそうなるかは知らない。
「……多分」
リナが頷く。
「そっか」
最近、リナは「多分」で納得するようになった。
エイル自身も、前よりよく使うようになっていた。
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昼前にトーマが戻ってきた。
顔を見れば、いい話ではなかったことくらい分かる。
家へ入ると、ミラが聞いた。
「どうだった?」
「今夜、また集まる」
「また?」
「ああ」
「そんなに悪いの?」
トーマは少し間を置いて、
「その話をする」
とだけ答えた。
エイルは何も聞かなかった。
隣を見ると、リナも黙っていた。
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昼食は、朝とほとんど同じだった。
薄い粥。
少しの豆。
トーマは食べ終わったあと、しばらく空の器を見ていた。
「父さん」
「なんだ」
「足りない?」
トーマがエイルを見る。
「腹は減ってる」
「俺の――」
「いらん」
まだ何も言っていない。
「分かるの?」
「顔に書いてある」
エイルは自分の器を見る。
「でも父さんの方が少ないじゃん」
「俺はもう大きくならん」
「何それ」
「お前はまだ大きくなるだろ」
エイルは父を見る。
「父さんより?」
「それは困るな」
「なんで?」
「見下ろされる」
「別にいいじゃん」
「父親の威厳がなくなる」
「今あるの?」
トーマが黙った。
エイルは少し笑う。
トーマも笑った。
ほんの少しだけ。
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夜。
ベルンの家へ行ったのは、最初はトーマだけだった。
ところが、しばらくすると家の外から声がした。
ミラが扉を開ける。
近所の男が立っていた。
「ベルンが、全員来てくれって」
ミラの表情が変わった。
「全員?」
「ああ」
「子供も?」
「できれば」
エイルは立ち上がった。
リナも何も聞かず、ミラのそばへ行った。
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ベルンの家にこれほど人が集まったのは、襲撃の日以来だった。
部屋の中はいっぱいだった。
壁際にも人が座り、立っている者もいる。
子供たちは親のそばにいる。
エイルの隣にはリナがいた。
あの日と少し似ている。
けれど、今日は外に灰牙はいない。
叫び声もない。
武器がぶつかる音もない。
それなのに、部屋の中は静かだった。
ベルンが立っている。
机の上には、小さな袋が三つ置かれていた。
「全員いるな」
何人かが頷く。
ベルンは一度、部屋を見回した。
「食料の話だ」
誰も声を出さなかった。
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「まず、春までは持つ」
その言葉で、何人かが息を吐いた。
エイルも少しだけ肩の力が抜けた。
けれど、ベルンの話は終わらない。
「ただし、来年の種には手をつけない」
部屋がまた静かになる。
「家畜も、これ以上は減らさない」
一人の男が聞いた。
「なら、どうする?」
「食事を減らす」
分かっていた。
たぶん、ここにいる大人たちはみんな。
それでも実際に言葉にされると、違った。
「どれくらいだ」
「まず大人から、今よりさらに減らす」
「今からか?」
「ああ」
別のところから声がした。
「子供は?」
ベルンが少し黙った。
「子供も、少し減らす」
エイルの隣で、リナが小さく動いた。
部屋の奥では、小さな子供が泣き始めた。
話の意味が分かったわけではないのだろう。
母親がすぐに抱き上げる。
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「いつまでだ?」
誰かが聞いた。
「雪が溶けて、森と畑が動くまで」
「あとどれくらいだ」
「分からん」
「分からんって……」
ベルンが疲れた顔で答える。
「俺が春を決められるなら、今すぐ来させてる」
誰も笑わなかった。
ベルンも笑わせるつもりではなかった。
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「種を食えばいいだろ」
後ろの方から声がした。
誰が言ったのか、エイルの位置からは見えない。
「全部じゃなくていい。少しなら」
別の声も続く。
「駄目だ」
トーマだった。
エイルは父を見る。
「でも、子供まで飯を減らすんだぞ」
「分かってる」
「なら少しくらい――」
「春に何を植える」
「それまでに何とかすればいい」
「何をどうやってだ」
相手が黙る。
トーマも声を荒らげてはいない。
「種を食えば、今は少し楽になる。でも春に植えるものが減る」
「今、腹が減ってるんだ」
「分かってる」
「だったら――」
「来年も腹を減らす気か」
部屋が静かになった。
ベルンが言った。
「種は残す」
はっきりとした声だった。
「そこは変えない」
今度は誰も反論しなかった。
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エイルは机の上の袋を見る。
今なら食べられる。
煮れば腹に入る。
でも、食べずに土へ埋めれば増える。
春になって。
育って。
また食べ物になる。
冬前に聞いた話が、ようやく本当の意味で分かった気がした。
残すというのは、余っているものを取っておくことではない。
腹が減っていても、食べないということだった。
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帰り道。
雪を踏む音だけが続いた。
家族四人、しばらく誰も喋らなかった。
最初に口を開いたのはリナだった。
「兄ちゃん」
「なに?」
「種っておいしい?」
エイルは足を止めかけた。
「……知らない」
「食べたことない?」
「あるよ」
「じゃあ知ってるじゃん」
「そういう意味じゃなくて」
リナは少し考える。
「食べちゃ駄目なんだよね」
「うん」
「なんで?」
「春に植えるから」
「植えたら?」
「増える」
「いっぱい?」
エイルは少し迷った。
「多分」
また、多分。
リナは頷いた。
「じゃあ食べない」
それだけ言って、また歩き始めた。
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翌朝。
食事は本当に少なくなった。
エイルの器も。
リナの器も。
昨日より少ない。
リナはしばらく自分の器を見ていた。
けれど、
「これだけ?」
とは言わなかった。
黙って匙を持つ。
エイルも食べた。
ゆっくり食べても、量は増えない。
全部食べ終えても、腹はいっぱいにならなかった。
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昼まで薪を割った。
急がない。
魔力も使わない。
一本割って、少し休む。
また一本。
身体を動かしすぎないようにする。
それでも腹が鳴った。
ぐう、と大きな音がする。
エイルは腹を押さえた。
「……うるさい」
誰に言うでもなく呟く。
「兄ちゃん」
振り返る。
リナが立っていた。
手に小さなパンを持っている。
「何それ」
「昼」
「もう食べたの?」
リナが首を振った。
そして、パンを半分に割った。
片方を差し出す。
「はい」
「いらない」
「半分」
「自分で食べなよ」
「兄ちゃん、お腹鳴ってた」
「お前も飯減っただろ」
「うん」
「じゃあ食べて」
リナは手を引っ込めない。
「半分」
「いいって」
「前も半分あげた」
エイルは黙った。
初雪の日。
セドから買ってもらった菓子を、リナが半分くれた。
あのときは結局、その半分からまた一口取られた。
「今日は全部食べていいよ」
「なんで?」
「俺の昼もあるから」
「でも今お腹減ってる」
「リナもでしょ」
「減ってる」
「じゃあ食べろよ」
リナは不思議そうな顔をした。
「半分なら二人とも食べられるよ」
簡単に言う。
エイルは少し困った。
それから、差し出されたパンを受け取った。
「……じゃあ半分」
「うん」
「ありがとう」
二人で食べる。
小さい。
すぐになくなった。
「おいしい?」
リナが聞いた。
「普通」
「私も」
「じゃあ聞くなよ」
「兄ちゃんの方がおいしいかもしれない」
「同じパンだよ」
「でも半分違う」
「何が違うんだよ」
リナが笑う。
エイルも少し笑った。
腹は全然いっぱいにならなかった。
それでも、さっきよりは少しましだった。
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夜。
エイルはなかなか眠れなかった。
寒さではない。
腹が減っている。
空っぽというほどではない。
でも、何か食べたい。
ずっとそんな感じがする。
魔力を使おうとは思わなかった。
練習もしない。
以前は、昨日より少し上手く使えるだけで楽しかった。
重いものを持てた。
仕事が速くなった。
できることが増えるのが嬉しかった。
今は、使ったあとに腹が減ることの方が先に浮かぶ。
だから使わない。
必要なときだけでいい。
エイルは布を深くかぶった。
昼にリナからもらった、小さなパンを思い出す。
半分。
たったそれだけ。
それでも二人で食べた。
外では風が吹いている。
薪も減っている。
食べ物も減っている。
明日の朝も、きっと腹は減っている。
それでも春のための種だけは、誰も食べない。
エイルは目を閉じた。
冬の終わりが近いと言われても、まだ春は見えなかった。




