第三話 ハイン
翌朝、エイルが家を出ると、村の入口に見慣れない馬が繋がれていた。
馬だけではない。
その横には、大きな荷袋と弓。それから長い槍が立てかけてある。
「誰か来てる」
近づいてみると、村長のベルンの家の前に何人か集まっていた。
昨日、隣の村から来ていた男もいる。
そして、その中心に一人の男がいた。
年はトーマより少し上に見える。
日に焼けた顔に短い髭。腰には剣があり、背中には荷物を背負っていた。
ただ、エイルが一番気になったのは、男の靴だった。
泥だらけだった。
「ハイン、どうだ?」
ベルンが尋ねる。
ハインと呼ばれた男は、しゃがんだまま地面に描いた線を指でなぞった。
「話だけじゃ分からん。現物を見ないとな」
「やっぱり向こうまで行くのか」
「そのために呼んだんだろ」
昨日の男が頷いた。
「うちの猟師は、狼じゃないと言ってる」
「それも見てみないと分からん」
ハインは立ち上がると、腰を軽く叩いた。
「羊が消えたのは一頭だけか?」
「今のところは」
「人が襲われたって話は?」
「ない」
「なら、まず跡を見る。森まで追うかどうかは、それからだ」
その言葉に、エイルは少し意外に思った。
何か危ないものがいるなら、すぐ森へ入って探すのだと思っていた。
「ハイン」
ドルクが歩いてきた。
「俺も行く」
「助かる」
「こっちの森まで来てるなら、道くらいは見ておきたい」
二人は短く話すと、荷物の確認を始めた。
エイルは少しずつ近づいた。
「何してる」
後ろから声がした。
振り返る。
トーマだった。
「見てる」
「それは見れば分かる」
「ハインって誰?」
「知らないのか?」
「知らない」
「前にも来たことあるぞ」
「覚えてない」
「お前がもっと小さい頃だ」
それなら知らなくても仕方ない。
エイルはもう一度ハインを見る。
「何する人?」
「色々だな」
「色々って?」
「護衛したり、狩りをしたり、荷物運んだり。魔物が出たって話があれば、それを見に行くこともある」
「魔物を倒す人?」
「それだけじゃない」
「じゃあ何?」
「だから色々だ」
父まで同じことを言う。
「仕事って決まってないの?」
「旅しながら、できる仕事を受けてるんだろ」
エイルは少し考えた。
村の大人たちは、だいたい何をしている人なのか分かる。
畑をやる人。
猟をする人。
物を作る人。
家畜を見る人。
もちろん皆、忙しいときは別の仕事も手伝う。
それでもハインは、少し違って見えた。
「どこに住んでるの?」
「知らん」
「父さん知らないこと多いね」
「お前に言われたくない」
「俺は子供だからいいんだよ」
「便利だな」
昨日も似たようなことを言われた。
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ハインたちは出発の準備をしていた。
ドルクは弓と矢筒。
ハインは剣に加えて短い槍を持つ。
昨日来た男は案内役らしく、武器らしいものは腰の小さな鉈だけだった。
「ハインさん」
エイルが声をかけると、男が振り向いた。
「ん?」
「何を見に行くの?」
「羊」
「いなくなった羊?」
「正確には、その周りだな」
「足跡?」
「それも」
「何の魔物だと思う?」
ハインが少し笑った。
「分からん」
まただ。
「みんな分からないって言う」
「見てないものを分かったって言う方がおかしいだろ」
「でも、魔物かもしれないんでしょ?」
「かもしれない」
「狼かもしれない?」
「そうだ」
「大きな足跡だったって」
「大きな狼もいる」
「じゃあ――」
「エイル」
トーマが呼んだ。
「邪魔するな」
「聞いてるだけ」
「それを邪魔って言うんだ」
ハインは笑った。
「別に構わんよ」
「こいつ、放っておくとずっと聞くぞ」
「それは困るな」
「ほら」
エイルは少し不満だった。
「最後に一個だけ」
「なんだ?」
「見つけたら倒すの?」
ハインの表情が少しだけ変わった。
「必要ならな」
「必要じゃなかったら?」
「放っておく」
エイルは首を傾げた。
「魔物でも?」
「魔物だからって、森にいるものを全部殺して回るわけじゃない」
ハインは槍を肩に担いだ。
「人や家畜を襲ってるなら話は別だ。道の近くに居着いて危ないなら、それもな。でも森の奥で勝手に生きてるだけなら、わざわざ探して殺す理由はない」
「危なくないの?」
「危ないものなんて森にはいくらでもいる」
ドルクが横から口を挟んだ。
「猪だって下手すりゃ人を殺すぞ」
「猪も倒さないの?」
「必要なら狩る。必要なければ狩らん」
「ふうん……」
エイルには、まだよく分からなかった。
危ないものなら倒した方がいいような気もする。
けれどドルクたちは、そう単純には考えていないらしい。
「じゃあ行ってくる」
ハインがベルンに声をかける。
「日暮れまでには向こうへ着く。戻るのは早くても明日だ」
「ああ。頼む」
三人が歩き出す。
エイルはその背中を見送った。
「ついていくなよ」
トーマが言った。
「行かないよ」
「本当か?」
「昨日ドルクさんにも駄目って言われた」
「ならいい」
「でも見てみたい」
「何を」
「足跡」
「やめとけ」
「見るだけなのに」
「その足跡を残したやつが近くにいるかもしれないだろ」
「……それは嫌だな」
「だろ」
そこは素直に納得した。
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昼過ぎ。
エイルは畑の脇で、昨日の続きを試していた。
魔力を少し集める。
腕へ流す。
石を持つ。
「違う」
下ろす。
もう一度。
今度は脚にも少し。
立ち上がる。
「……これも違う」
「何が?」
リナだった。
「また来たの?」
「見に来た」
「何を」
「兄ちゃんができないの」
「できるようになってきてる」
「じゃあやって」
「今やってる」
「できてないじゃん」
「昨日はできた」
「今日は?」
「……今やってる」
リナが笑った。
「できてない」
腹が立つ。
エイルは石を掴んだ。
「見てろよ」
少しだけ魔力を集める。
散らさない。
腕へ。
持ち上げる。
「あ」
昨日と同じ感覚だった。
ほんの少しだけ、身体が動かしやすい。
「できた」
リナが首を傾げる。
「何が?」
「今の」
「石持っただけじゃん」
「違うって」
「同じだったよ」
「俺には分かる」
「じゃあもう一回」
「いいよ」
石を下ろす。
もう一度。
集める。
腕へ。
持ち上げる。
今度もできた。
エイルの顔が少し緩んだ。
「できた」
「同じ」
「だから違うんだって」
「何が違うの?」
「……軽い」
「石が?」
「持つのが」
「じゃあもっと大きいの持てる?」
エイルは少し離れたところにある石を見る。
さっきの倍くらいある。
「持てると思う」
「やって」
「いいよ」
エイルが近づこうとしたところで、
「やめとけ」
声が飛んできた。
トーマだった。
「なんで?」
「腰を痛める」
「でも今、うまくできた」
「だからって急に重いもの持つな」
「ちょっとだけ」
「駄目だ」
エイルは大きな石を見る。
それからトーマを見る。
「……はい」
「珍しく聞き分けがいいな」
「父さんが腰痛めるって言ったから」
「そういうのは聞け」
トーマはそう言って畑へ戻っていった。
リナが大きな石を指差す。
「やらないの?」
「やらない」
「怖い?」
「違う」
「怖いんだ」
「腰痛めたくないだけ」
「やっぱり怖いんじゃん」
「リナ」
「なに?」
「母さん呼んでたよ」
「え?」
「さっき」
嘘だった。
リナが家の方へ走っていく。
エイルは少し笑った。
これで静かになった。
もう一度、さっきの石を持つ。
魔力を集める。
腕へ流す。
持ち上げる。
できた。
今度も。
「……できた」
三回続いた。
昨日は一度できても、次はできなかった。
今日は違う。
まだ何をしているのか、自分でもうまく説明できない。
父に聞いても「普通に」としか言わない。
それでも、自分の中では少しずつ分かってきている。
エイルは石を下ろした。
そして、もう一度持ち上げた。
今度は魔力を意識せずに。
「……やっぱり違う」
少し嬉しくなった。
「兄ちゃん!」
遠くからリナの声がした。
嫌な予感がする。
「母さん呼んでないって!」
エイルは立ち上がった。
「逃げよ」
魔力のことを考えるのは、またあとにすることにした。




