第二十五話 冬
冬は、ある日突然やって来るものではなかった。
少しずつ寒くなって、朝に布から出るのが嫌になる。
水桶の表面に薄い氷が張るようになり、降った雪が昼になっても残るようになる。
そうして気づいた頃には、村は白くなっていた。
---
「兄ちゃん」
「……なに」
「寒い」
「俺も」
「火」
「まだ」
布の中から顔だけ出したリナが、不満そうに眉を寄せる。
「なんで?」
「薪がもったいないから」
「寒いのに?」
「寒いから残すんだって」
「どういうこと?」
「俺も最初そう思った」
火を焚けば暖かい。
だったら寒い間ずっと焚けばいい。
エイルも少し前まではそう思っていた。
けれど冬は長い。
今ある薪を全部使ってしまえば、そのあとの方が困る。
だから朝も夜も、火は必要な分だけ。
それ以外は服を重ねて、身体を動かして、我慢する。
最近は、そんなことが増えていた。
「エイル。起きろ」
トーマの声がする。
「起きてる」
「なら水」
「凍ってる?」
「見てこい」
「凍ってたら?」
「割れ」
エイルはしばらく布の中で抵抗したが、どうせ逃げられない。
「……はい」
身体を起こす。
寒い。
本当に嫌になるくらい寒い。
「リナも来いよ」
「嫌」
「俺も嫌だよ」
「兄ちゃんだから」
「最近それ、便利に使ってない?」
返事がない。
見ると、リナはもう布の中に潜っていた。
「寝るなよ」
動かない。
エイルは諦めて外へ出た。
---
昨夜も雪が降ったらしい。
足を下ろすと、雪の中へ沈んだ。
「うわ……」
井戸へ向かう途中、村の道ではすでに何人かが雪を退けていた。
そのままでは水を運ぶのも大変だ。
エイルも桶を置き、木の板を手に取る。
雪を押す。
重い。
自然と身体へ魔力を回した。
脚で踏ん張り、腕に力を入れる。
雪の塊が前へ動く。
もう一度。
さらに押す。
以前なら、魔力をどこへ動かすか考えるだけで手間取っていた。
今では仕事を始めれば、身体が勝手に必要なところへ回してくれる。
何度か雪を押したところで、
ぐう、と腹が鳴った。
エイルは手を止める。
「……もう?」
まだ朝飯も食べていない。
---
朝食は、薄い粥とパンだった。
リナが器を覗く。
「肉ないの?」
ミラの手が少し止まった。
「今日はないよ」
「卵は?」
「鶏も毎日産むわけじゃないからね」
「じゃあ昼?」
「昼も似たようなもの」
リナは器を見た。
「これだけ?」
エイルが妹を見る。
少し前なら、ミラに怒られるまで何度か聞いていたと思う。
「今日はこれだけ」
ミラが答える。
「……そっか」
リナはそれ以上言わず、粥を食べ始めた。
エイルも自分のパンをちぎる。
食べ終わっても、まだ少し腹が減っていた。
もう一切れ欲しい。
けれど、誰もおかわりをしていない。
トーマも。
ミラも。
エイルは何も言わなかった。
「リナ」
「なに?」
「それ、行儀悪い」
リナが匙で器の端を何度もこすっている。
「残ってる」
「ほとんどないじゃん」
「ある」
集めた粥を口に入れる。
本当にほんの少しだった。
「なくなった」
「そう」
本人は満足したらしい。
---
昼前。
エイルとトーマは薪置き場にいた。
「あんなにあったのに」
「ああ」
冬が始まる前、山みたいだと思った。
毎日のように森へ行き、みんなで集めた薪だ。
それがもう、目に見えて小さくなっている。
「足りる?」
「使い方次第だな」
「森に取りに行けば?」
「雪が深い」
「ドルクさんは?」
「今日、様子を見に行ってる」
「取れそうなら?」
「明日だな」
エイルは森を見る。
雪の向こうで、木々まで白くなっていた。
「俺も行く?」
「駄目だ」
「前は行ったじゃん」
「今は冬だ」
「何が違うの?」
「全部」
「それ説明になってないよ」
トーマは薪を抱え直した。
「雪で足跡が消える。道も分かりにくい。身体も動かん。転んで怪我しても、すぐには戻れん」
「……なるほど」
「あと寒い」
「それは知ってる」
「なら村にいろ」
今回は素直に頷いた。
森に入れるようになったからといって、いつでも同じように入れるわけではないらしい。
---
冬になれば畑仕事が減る。
だから少しは楽になる。
エイルはそう思っていた。
違った。
雪を退ける。
薪を運ぶ。
家畜を見る。
屋根の雪を落とす。
それが終わったら、また雪を退ける。
畑の代わりに、別の仕事が増えただけだった。
「エイル!」
ベルンに呼ばれた。
「何?」
「悪い、こっち手伝ってくれ」
ベルンの家の屋根には、かなり雪が積もっていた。
エイルが上を見上げる。
「登るの?」
「お前は下」
「分かった」
大人たちが屋根から落とした雪を、道から退ける。
板を押す。
重い。
魔力を身体へ回せば、雪が動く。
もう一度。
さらに押す。
身体はまだ動いた。
けれど、また腹が鳴った。
朝からずっとだった。
重いものを運ぶ。
雪を押す。
魔力を使って身体を動かす。
そうするたびに、妙に腹が減る。
前から疲れることはあった。
でも、食べる量が減った今は、その感覚がはっきり分かった。
---
夕方。
家に戻ると、鍋からいい匂いがしていた。
「ただいま」
「おかえり」
エイルは少し期待して席につく。
器には豆と芋。
そして、小さな肉が一つ。
リナの顔が一気に明るくなった。
「肉!」
「一個ずつね」
ミラが言う。
リナの器に一つ。
エイルにも一つ。
トーマにも、ミラにも一つ。
リナは真っ先に肉を食べた。
「おいしい」
「よかったね」
エイルも口へ入れる。
小さい。
一口でなくなった。
それでも、久しぶりの肉だった。
しばらくして、リナの器が空になった。
エイルは自分のパンを見る。
まだ半分ほど残っている。
少しちぎった。
「リナ」
「なに?」
「これ食べる?」
リナがパンを見る。
以前なら、すぐ取ったはずだった。
でも今日は手を出さない。
「兄ちゃんの?」
「うん」
「兄ちゃん、まだ食べてないじゃん」
「腹いっぱい」
嘘だった。
リナがエイルを見る。
「お腹鳴ってたよ」
「聞こえた?」
「うん」
「じゃあ忘れて」
「無理」
リナは差し出されたパンを押し返した。
「兄ちゃんのだからいい」
エイルは手元を見る。
「でも食べたいでしょ」
「食べたい」
「じゃあ食べれば?」
「でもいい」
そう言って、空の器を持ってミラのところへ行ってしまった。
エイルは残されたパンを見る。
結局、自分で食べた。
いつもと同じパンのはずなのに、あまり味がしなかった。
---
その夜。
火はついていた。
けれど、小さい。
薪を節約するため、家族全員がいつもより火の近くに集まっている。
「兄ちゃん」
「なに」
「春いつ?」
「知らない」
「明日?」
「そんな早くない」
「じゃあ何日?」
エイルはトーマを見る。
「父さん。何日で春?」
「いっぱい寝たら」
「何回?」
「いっぱい」
リナが不満そうな顔をした。
「分かんない」
「俺も分からん」
「大人なのに?」
「大人でも数えん」
「ベルンさんなら知ってる?」
「多分、同じこと言うぞ」
リナはしばらく考えた。
「じゃあ春来たら起こして」
「冬眠する気?」
「うん」
「飯食えないぞ」
「起きる」
「それ寝てないじゃん」
トーマが笑った。
ミラも少し笑った。
火は小さかったが、その周りだけは暖かかった。
---
それから数日、さらに雪が降った。
森へ入れない日が続いた。
薪は減った。
食事も、少しずつ少なくなった。
誰も毎回そのことを口にはしなかった。
言わなくても分かるからだ。
エイルも、魔力を使う量を減らし始めた。
最初は身体が楽になるから使っていた。
薪を運ぶ。
雪を退ける。
水を運ぶ。
使えば速い。
一度にたくさんできる。
けれど、使った日は明らかに腹が減った。
ある朝。
エイルは薪の束を前にして止まった。
これくらいなら、魔力を使えば一度で運べる。
使わなければ二回。
少し考えて、束を半分に分けた。
「何してる」
トーマが聞く。
「薪」
「それは見れば分かる。いつもまとめて持ってただろ」
「今日はいい」
「魔力使わないのか」
「使わなくても持てるから」
トーマはエイルを見たが、それ以上は何も言わなかった。
「そうか」
エイルは薪を抱える。
重い。
一度家まで運ぶ。
戻って、もう一度。
面倒だった。
寒かった。
でも、できる。
それなら今日は、これでいい。
---
夜。
布の中で、エイルは右手を見た。
ほんの少しだけ魔力を集める。
すぐに散らした。
今日は練習しなかった。
最近、そういう日が増えている。
学校のことを忘れたわけではない。
行ってみたい。
魔術を知りたい。
その気持ちはまだある。
けれど、遠かった。
馬車でも二週間ほどかかる大きな街。
学校。
魔術。
知らない場所。
それより今は、隣でリナが眠っている。
父はまだ少し脚をかばっている。
薪が減っている。
食べ物も減っている。
そちらの方が、ずっと近かった。
外で風が鳴った。
エイルは布を少しだけ引き上げ、目を閉じた。
今は、明日の朝の水が凍っていないことの方が大事だった。




