第二十三話 初雪
朝。
寒かった。
昨日よりも、その前の日よりも、明らかに寒い。
エイルは布の中で目を開けた。
今日は出たくない。
そう思っていると、隣から声がした。
「兄ちゃん」
「なに」
「外、白い」
「……何が?」
「全部」
エイルは布から少しだけ顔を出した。
リナが窓のそばに立っている。
「寒いから閉めてよ」
「雪」
その一言で、エイルは起き上がった。
---
外へ出ると、本当に白かった。
屋根も、柵も、道も、畑も。
まだ地面を覆い隠すほどではない。薄く白くなっているだけだ。
それでも、村で見る今年最初の雪だった。
「おお……」
エイルはしゃがみ、指先で触った。
冷たい。
握るとすぐに崩れる。
「兄ちゃん!」
リナが横を走り抜けた。
「走るな!」
言った直後だった。
足が滑った。
「うわっ!」
そのまま尻から落ちる。
エイルは黙って見る。
リナも座ったまま黙っている。
「……転んだ?」
「転んでない」
「いや、今のは無理あるだろ」
「滑っただけ」
「それを転んだって言うんだよ」
「違う」
第一話のときと同じことを言っている。
どうやら、リナの中では滑って尻もちをつくのは転んだうちに入らないらしい。
「遊ぶ前に薪!」
家の中からミラの声が飛んできた。
「はーい!」
リナが元気よく返事をする。
そして、その場で雪を丸め始めた。
「お前、今なんて返事した?」
「はーいって」
「じゃあ薪だろ」
「兄ちゃんお願い」
「なんでだよ」
「寒いから」
「俺も寒いよ」
「兄ちゃん、魔力使えるじゃん」
エイルは眉を寄せた。
「お前だって魔力くらい使うだろ」
「でも寒いもん」
「理由になってない」
リナはもう次の雪を集めている。
エイルは家の方を向いた。
「母さ――」
「待って!」
早かった。
リナは雪を放り出し、慌てて薪置き場へ走っていった。
---
朝食のあと、エイルはトーマと畑へ出た。
雪はもう少しずつ溶け始めている。
「積もらないね」
「まだ早いからな」
「これからもっと降る?」
「ああ」
「嫌だな」
「さっきまで楽しそうだっただろ」
「見るだけならいい」
「冬は見るだけじゃ終わらん」
畑へ着く。
収穫できるものは、もうほとんど取ってある。
残っているものも少ない。
土の上にところどころ雪が残り、黒と白がまだらになっていた。
「今日何する?」
「片づけ」
「また?」
「冬前は片づけるもんが多いんだ」
「春も片づけてなかった?」
「一年中、何かしら片づけてる」
エイルは鍬を持ちながら感心した。
「農家って大変だね」
トーマの手が止まる。
「お前も農家だぞ」
エイルは少し考えた。
「そうなの?」
「今まで何だと思ってた」
「父さんが農家」
「じゃあお前は何だ」
「エイル」
トーマはしばらく息子を見た。
「……そうか」
「何?」
「仕事するぞ」
なぜか諦められた。
---
昼前。
畑から戻る途中、村の中央に荷車が止まっているのが見えた。
セドだった。
少し前にも来たばかりなので、エイルは近づきながら聞いた。
「また来たの?」
「来ちゃ悪いか」
「早いなって」
「冬前だからな。動けるうちに動いとくんだよ」
荷台には塩や布、乾物、油などが積まれている。
けれど、前より荷物は少なかった。
「菓子は?」
横から声がした。
いつの間にかリナがいる。
セドが荷台を覗く。
「あるぞ」
リナの顔が明るくなる。
「どれ?」
「高いぞ」
すぐ暗くなった。
「なんで?」
「俺が高く買ったから」
「安くして」
「俺が損する」
「ちょっとだけ」
「駄目」
「一個」
「駄目」
「半分」
「何を半分にするんだ」
リナは本気で悩み始めた。
エイルは笑いながら、荷台へ目を戻した。
以前なら、自分も菓子や見慣れない道具ばかり探していた。
今日は塩の袋が目に入った。
「セド」
「ん?」
「塩、いくら?」
セドが妙な顔をする。
「お前が買うのか?」
「違う」
「じゃあなんで聞くんだ」
「気になるから」
値段を聞く。
エイルには、以前いくらだったかまでは正確に覚えていない。
それでも、周りにいる大人たちの顔を見れば分かった。
安くはない。
「前より上がったな」
ベルンが言った。
「俺に言うなよ。向こうでも上がってんだ」
「何があった?」
「北の道が使いにくい」
「雪か?」
「それもある」
セドは荷物を下ろしながら続けた。
「魔物も出てるらしい」
エイルは思わず顔を上げた。
「どこ?」
そう聞きかけて、やめた。
ベルンたちが話している。
自分が間に入る必要はない。
エイルは荷物を運ぶのを手伝いながら、そのまま聞いた。
「北ってどの辺だ」
「街道の向こうだ。ここからは結構ある」
「灰牙か?」
「知らん。俺は見てねえよ」
「荷車が襲われたのか?」
「いや。危ないってんで、その道を避ける商人が増えてるって話だ」
「それで値が上がったか」
「たぶんな。遠回りすりゃ、その分かかるからな」
エイルは塩の袋を運びながら聞いていた。
以前なら「魔物」と聞いただけで、もっと近くへ行って質問していたと思う。
今も気にはなる。
けれど、セド自身が見たわけではない。
それなら、今聞いても分からないことが多い。
エイルはそのまま荷物を運んだ。
---
「兄ちゃん」
リナが袖を引いた。
「何?」
差し出された手には、小さな菓子がある。
「買ったの?」
「母さんが買ってくれた」
「よかったね」
リナは菓子を両手で割ろうとした。
なかなか割れない。
「貸して」
エイルが受け取り、半分に割る。
片方を返した。
「はい」
残った半分も渡そうとすると、リナが首を振った。
「兄ちゃんの」
「俺の?」
「半分あげるって言った」
エイルは少し考えた。
セドが来るたびに、
半分あげるから買って。
そう言っていた。
結局、エイルは一度も買わなかった。
「いいの?」
「うん」
「全部食べたいんじゃないの?」
リナは自分の半分を見る。
しばらく考えた。
「食べたい」
「じゃあ食べれば?」
また考える。
それから、エイルの手に半分を押しつけた。
「でも半分」
「……そっか」
エイルは受け取った。
「ありがとう」
「うん」
リナはすぐに自分の分を口へ入れた。
少しして、空になった手を見る。
「あ」
「どうした?」
「もうない」
「そりゃ食べたからな」
リナの視線が、エイルの手へ移る。
嫌な予感がした。
「兄ちゃん」
「嫌だよ」
「まだ何も言ってない」
「一口って言うだろ」
「一口」
「やっぱり」
「ちょうだい」
「お前がくれたんだろ」
「けち」
「意味分かんないよ」
リナが笑った。
エイルも笑う。
結局、自分の半分をさらに割った。
「ほら。一口だけ」
「ありがとう!」
嬉しそうに食べる。
エイルの分は四分の一になった。
小さい。
一口でなくなった。
それでも、悪くなかった。
---
夕方になると、また雪が降り始めた。
セドは村を出ず、今夜はベルンの家に泊まることになったらしい。
エイルは家の前で空を見上げた。
小さな雪が、ゆっくり落ちてくる。
手を出す。
一つが掌に落ちた。
すぐに溶ける。
「兄ちゃん」
「何?」
「明日積もる?」
「知らない」
「いっぱい?」
「知らないって」
「積もったら遊ぼ」
「仕事なかったらね」
「ある?」
「たぶん」
「じゃあ終わったら」
「分かったよ」
リナは満足したのか、先に家へ戻っていった。
エイルはもう少しだけ外に残った。
寒い。
自然に身体へ魔力を回すと、少しだけ楽になる。
もう、以前のように一つずつ考えなくてもできる。
それでも、サナが使っていた魔術は違う。
エイルは目を閉じた。
何度も思い出した場面。
小さな火が灯る直前。
サナが魔力を集めた。
そこまでは分かる。
そのあと。
何かがあった。
ただ身体へ流したわけではない。
エイルは自分の魔力を少しだけ集め、そのまま留める。
「……」
分からない。
それ以上はやらず、魔力を散らした。
最近は、無理に答えを出そうとはしなくなった。
分からないものを適当に真似しても仕方がない。
見たことだけ、忘れなければいい。
「やっぱ分かんないな」
呟いて、家へ戻ろうとする。
そのとき。
ベルンの家の方から声が聞こえた。
セドだった。
大人たちと話しているらしい。
「春になったら、街へ行く奴いるか?」
エイルの足が止まった。
近づきはしなかった。
ただ、その言葉だけが妙に耳に残った。
街。
エイルはまだ、大きな街を見たことがなかった。




