第十九話 足りない
それから十日ほど経った。
トーマは杖を使えば、家の中を歩けるようになっていた。
朝、エイルが水桶を持って外へ出ようとすると、その後ろをトーマが杖をつきながら歩いてくる。
「父さん」
「なんだ」
「どこ行くの?」
「外」
「座ってて」
「家の前までだぞ」
「婆さんに怒られるよ」
「家の中と家の前くらいならいいって言われた」
「畑は?」
「それは駄目だと」
「じゃあ座ってて」
「なんでお前が偉そうなんだ」
文句を言いながらも、トーマは家の前の椅子に腰を下ろした。
エイルはその横を通り過ぎる。
「どこ行く」
「薪」
「昨日も運んでなかったか?」
「使ったら減るんだよ」
「そうか」
「それ、前に父さんが俺に言ったんだけど」
トーマが笑った。
「よく覚えてるな」
「毎日やってるからね」
最近は、こんな会話が増えていた。
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薪置き場に残っている量は、目に見えて少なくなっていた。
森へ自由に入れなくなってから、使う量に集める量が追いついていない。
今はドルクが先に確認した場所へ、大人と一緒に入るだけだ。それも森の浅いところまで。
エイルは落ちている枝を拾い、紐でまとめていく。
「今日はこれくらいだな」
一緒に来た男が言った。
エイルは周囲を見る。
「もっと取らなくていいの?」
「取れるなら取りたいさ」
男の視線が森の奥へ向く。
「でも、今日はここまでだ」
「まだ奥は駄目?」
「ああ」
エイルも森を見る。
静かだった。
鳥の声がして、風が木の葉を揺らしている。
灰牙の姿なんて、どこにもない。
けれど、静かだから何もいないとは限らない。
それはもう知っている。
エイルは足元の枝を拾った。
「冬、足りる?」
男が少し嫌そうな顔をした。
「そういうことは大人に任せとけ」
「足りるの?」
「……だから今、集めてるんだ」
答えになっていないようで、なっている気がした。
エイルはそれ以上聞かなかった。
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昼前。
水を運んでいると、ベルンの家の前に男たちが集まっていた。
最近、よく見る光景だった。
「南をもう少し使えないか?」
「今から増やすのか?」
「何もしないよりはいい」
「収穫までに間に合わんだろ」
「全部取れなくても、少しは足しになる」
「種はどうする?」
そこで話が止まる。
少しして別の男が言った。
「セドから買うか」
「この前の値段見ただろ」
「じゃあどうするんだ」
「だから、それを話してる」
声が少し大きくなる。
エイルは歩く速度を落とした。
けれど、すぐにまた歩き出した。
最近、大人たちはよく集まって話をしている。
何を植えるか。
どこまで森へ入るか。
何を買うか。
何を残すか。
ただ、いくら話しても、畑の作物や薪が急に増えるわけではなかった。
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午後は、ガンツの家へ行った。
壊れた柵を直すためだ。
ガンツがいれば、自分で直していただろう。
今は村の男二人とエイルでやっている。
「エイル、そこ押さえてくれ」
「ここ?」
「ああ」
板を持つ。
魔力を腕へ流し、ずれないように押さえた。
男が釘を打つ。
コン。
コン。
コン。
「次」
板を少しずらす。
また押さえる。
そのとき、家の窓から子供が顔を出した。
「終わった?」
ガンツの子だった。
エイルより何歳か下で、以前にも一緒に遊んだことがある。
「まだ」
「いつ終わる?」
「もうちょっと」
子供は作業を眺めた。
「父さんなら早かったよ」
釘を打っていた男の手が、一瞬止まった。
もう一人も何も言わない。
子供だけが、そのことに気づいていなかった。
「父さん、こういうのすぐ直すもん」
エイルは板を押さえたまま答えた。
「じゃあ急ぐ」
「兄ちゃん遅いよ」
「うるさいな。押さえてるだけだよ」
子供が笑った。
エイルも少しだけ笑った。
やがて、また釘を打つ音が始まった。
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帰り道。
さっきの言葉が頭に残っていた。
父さんなら早かった。
その通りなのだと思う。
トーマなら、エイルよりずっと早く畑を耕せる。
ガンツなら、自分の家の柵を直しただろう。
オルバにも、毎日やっていた仕事があった。
人がいなくなると、その人がやるはずだった仕事まで消えるわけではない。
次の日にも。
その次の日にも。
残る。
誰かが代わりにやらなければ、そのままだ。
エイルは今まで、そんなことを考えたことがなかった。
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家へ戻ると、トーマが椅子に座って鍬の柄を直していた。
杖はすぐ横に立てかけてある。
「ただいま」
「おう」
「ガンツさんのところ行ってきた」
「柵か?」
「うん」
「直ったか」
「半分くらい」
「遅いな」
「三人しかいなかったんだよ」
「三人なら終わるだろ」
「父さん基準で言わないでよ」
トーマが笑う。
エイルは水を飲んでから、その向かいに座った。
「父さん」
「なんだ」
「いつ畑に戻れる?」
「俺が一番知りたい」
「まだ?」
「まだだな」
「そっか」
少し前まで、早く治ってほしい一番の理由は、自分の仕事が減るからだった。
今も、それはかなりある。
でも最近は、それだけではなくなっていた。
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夕食のあと。
エイルは家の裏へ出た。
最近は一日中動いていることが多く、魔力のことを考える時間も前ほど取れない。
それでも、たまに確かめている。
少し大きめの石の前にしゃがむ。
持ち上げる。
重い。
一度置いて、今度は魔力を腕へ流す。
もう一度持つ。
さっきより軽い。
以前よりも、少ない間で自然に使える。
水も多く運べる。
薪も持てる。
畑仕事も少し楽になる。
役に立っている。
今の村では、特に。
エイルは石を地面へ戻した。
それでも。
襲撃の日のことを思い出すと、別の気持ちが残った。
あの日、父も魔力を使っていたはずだ。
ドルクも。
村の男たちも。
それでも二人が死んだ。
父も大怪我をした。
エイルは自分の手を見る。
「……足りないな」
今までやってきたことが無駄だとは思わない。
今日だって、ガンツの家の柵を直すのに役立った。
でも、これだけで何でもできるわけではない。
そんな当たり前のことが、以前よりよく分かるようになっていた。
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サナの魔術が頭に浮かぶ。
小さな火。
怪我人を診たときの魔力。
襲撃の日、ベルンの家の中から感じた大きな動き。
あれを使えれば――。
そこまで考えて、エイルは止まった。
使えれば、何ができる?
自分はサナが何をしていたのかさえ知らない。
それに、サナがいても全員を助けられたわけではなかった。
ハインだって怪我をした。
魔術が使えれば何でも解決する。
そんなことはないのだろう。
それでも、知りたい。
前よりも強く、そう思った。
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「兄ちゃん」
後ろからリナの声がした。
「何?」
「母さん呼んでる」
「何だって?」
「知らない」
「聞いてこなかったの?」
「兄ちゃん呼んできてって言われただけだもん」
エイルは立ち上がった。
リナが足元の石を見る。
「また持ってたの?」
「うん」
「もっと大きいの持てば?」
「なんで?」
「強くなるから」
「そんな簡単じゃないよ」
「じゃあ、いっぱい持つ」
「何個?」
「十個」
「持てるわけないだろ」
「魔力使えば?」
エイルは少し考えた。
「無理」
「じゃあ練習したら?」
「雑だなあ」
リナは気にせず、先に家へ戻っていった。
エイルもそのあとを追った。
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その夜。
雨が降った。
屋根を叩く音を聞きながら、エイルは寝床に入っていた。
隣ではリナがもう眠っている。
少し離れたところから、父と母の声が聞こえた。
「このままだと厳しいね」
ミラだった。
「分かってる」
トーマが答える。
「冬までにどこまで戻せる?」
「東次第だな」
「薪は?」
少し間があった。
「足りん」
エイルは目を閉じたまま聞いていた。
盗み聞きするつもりはなかった。
ただ、眠るには二人の声が近すぎた。
「街から買う?」
「金がない」
また雨の音だけになる。
「俺が動けりゃな」
「今それ言っても仕方ないよ」
「分かってる」
「ちゃんと治して。無理してまた悪くしたら、それこそ困るから」
「ああ」
会話が途切れた。
エイルは布の中で目を開けた。
薪が足りない。
食べ物も少ない。
金もない。
働ける人も足りない。
そして自分も。
できることは増えた。
でも、まだ足りない。
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翌朝。
雨は上がっていた。
エイルはいつも通り起きた。
水を汲み、鶏を見て、薪を運ぶ。
朝食を食べたら畑へ行く。
何かが急に変わったわけではない。
魔術が使えるようになったわけでもない。
ただ、前よりはっきりしていた。
サナがまた来たら、今度は聞こう。
火の出し方だけではなく。
自分が見た、あの魔力の使い方が何だったのか。
どうすれば、ああいうことを学べるのか。
エイルはそう決めた。
ただ、そのサナがいつ戻ってくるのかは、まだ誰も知らなかった。




