第十八話 減っていく
灰牙の襲撃から、三週間が過ぎた。
東の柵は直った。
壊れた荷車も片づけられ、地面に残っていた血の跡も、何度か雨が降るうちに見えなくなった。
それでも、村は元には戻っていなかった。
「エイル」
「分かってる」
「まだ何も言ってないぞ」
寝床からトーマが言った。
エイルは棚の下を覗き込む。
「豆でしょ」
「今日は粉」
「あれ?」
「豆は昨日だ」
言われた袋を持ち上げる。
軽い。
エイルは中を覗いた。
「これだけ?」
「それだけ」
底が見えそうだった。
「少なくない?」
「少ないな」
「セドが来たら買う?」
「買える分はな」
エイルは袋を戻した。
以前なら、そこで終わっていたと思う。
でも今は、その言葉が少し引っかかった。
買える分。
欲しい分ではない。
「エイル」
「何?」
「水」
「はい」
結局、考えるより先に仕事だった。
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朝食はパンと豆のスープだった。
「また豆?」
リナが嫌そうな顔をする。
ミラが見る。
「嫌なら食べなくていいよ」
「肉がいい」
「私も食べたいよ」
「じゃあ肉にして」
「肉があったらね」
リナが今度はエイルを見る。
「兄ちゃん」
「俺に言うなよ」
「兄ちゃん獲ってきて」
「何を」
「肉」
「肉っていう動物はいないんだよ」
「鹿」
「無理」
「兎」
「無理」
「鶏」
「それ、うちのだろ」
「いるじゃん」
「食ったら卵なくなるぞ」
リナは真剣に考えた。
「じゃあ駄目」
「だろ」
不満そうな顔のまま豆を食べ始める。
エイルもパンをちぎった。
前より少し小さくなった気がした。
気のせいかもしれない。
聞かなかった。
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原因は一つではなかった。
東の畑は、灰牙の襲撃でかなり荒らされた。
食べられたわけではない。
走り抜けられ、踏まれ、倒された。
それだけでも、駄目になった作物は多い。
森にも、以前のようには入れない。
薪を取る。
木の実を拾う。
薬草を探す。
獲物を狩る。
森へ入れなくなってから、エイルは初めて、村が思っていた以上に森を使って暮らしていたことを知った。
それに、人も足りなかった。
ガンツはいない。
オルバもいない。
トーマはまだ畑仕事ができない。
ほかにも、怪我が治りきっていない者がいる。
誰かがやっていた仕事を、別の誰かがやる。
そうすると、その人が本来やるはずだった仕事が残る。
最近は、ずっとその繰り返しだった。
「エイル!」
畑の方から声が飛んでくる。
「何?」
「こっち手伝ってくれ!」
「今行く!」
向かおうとしたところで、
「エイル!」
今度は後ろからだった。
ベルンが手を上げている。
「先に井戸から水頼む!」
「畑は?」
「そのあとでいい!」
「分かった!」
エイルは井戸へ走った。
最近は、自分の家の仕事だけをしていればいいわけではない。
人手が足りないところへ行く。
運ぶ。
掘る。
持つ。
直す。
十二歳でもできることは、思っていたより多かった。
そして、できると分かれば頼まれることも増えた。
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水桶を二つ持つ。
以前なら、一つずつ運んでいた。
エイルは魔力を集め、そのまま腕へ流す。
両手で桶を持ち上げた。
「……よし」
歩き出す。
重いことは重い。
それでも持てる。
少し前なら無理だった。
魔力の扱いが上手くなっていることは、自分でも分かった。
「エイル! それ終わったらこっち!」
遠くからまた声が飛んでくる。
「分かった!」
上手くなったことを喜んでいる暇もなく、次の仕事が来た。
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昼。
ようやく座ることができた。
エイルは持ってきたパンを取り出す。
朝と同じように、やはり少し小さい気がする。
食べながら、近くで休んでいる大人たちの話が耳に入った。
「東はどれくらい残りそうだ?」
「半分取れりゃいい方じゃないか」
「そんなにか」
「踏まれたところがな」
「冬どうする」
「森に入れりゃ、まだ違うんだが」
「ドルクは?」
「まだ奥はやめろって言ってる」
「もう三週間だぞ」
「三週間経ったからって、安全になったとは限らんだろ」
「薪も足りなくなるぞ」
エイルはパンを噛みながら空を見上げた。
冬。
まだ暑いくらいなのに、大人たちはもう冬の話をしている。
エイルには、ずっと先のことのように思えた。
けれど、大人たちの顔を見ると、そうでもないらしい。
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午後も仕事が続いた。
畑。
薪。
柵の補修に使う木材。
全部終えて家へ戻る頃には、腕が重くなっていた。
「ただいま」
「兄ちゃん」
すぐにリナが出てくる。
「何?」
「今日、肉?」
「知らない」
「肉がいい」
「朝も聞いた」
「夜はあるかもしれない」
「母さんに聞けば?」
「兄ちゃんが聞いて」
「自分で聞けよ」
「兄ちゃん」
「嫌だよ」
二人で家へ入る。
鍋を見る。
豆だった。
リナが止まる。
エイルも止まった。
「……また豆」
「聞こえてるよ」
ミラが言った。
エイルはすぐに取り繕う。
「豆、おいしいよ」
「じゃあ毎日でもいいね」
「それは嫌」
「なら文句言わず食べなさい」
「はい」
リナが先に座る。
エイルもその隣に座った。
トーマが寝床で笑っている。
「何?」
「いや」
「父さんも豆じゃん」
「知ってる」
「肉食べたくない?」
「食いたい」
「じゃあ笑わないでよ」
「お前ら見てる方が面白い」
「意味分かんない」
いつもの夕食みたいだった。
ただ、肉はなかった。
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次の日。
「セドだ!」
村の入口から子供の声が聞こえた。
エイルは薪を運んでいた手を止める。
道の向こうに、見慣れた荷車が見えた。
「行っていい?」
家の前のトーマに聞く。
「それ置いたらな」
「分かった」
以前なら、そのまま走っていたかもしれない。
エイルは抱えていた薪をきちんと置いてから、村の入口へ向かった。
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セドの荷車の周りには、もう大勢集まっていた。
塩。
粉。
油。
干した魚。
布。
道具。
いつもと同じような品が並んでいる。
けれど、荷台そのものが少し寂しい。
エイルにも分かった。
「高くないか?」
村の男が声を上げた。
セドが困った顔をする。
「俺に言うなって。向こうでも上がってるんだよ」
「前はこんな値段じゃなかっただろ」
「道が悪いんだ」
「雨か?」
「それもある。魔物もだ」
周囲の何人かが顔を上げた。
「他でも出てるのか?」
「ああ。護衛なしじゃ走りたくない道が増えてる」
「灰牙か?」
「灰牙だけじゃねえよ」
セドは荷台を軽く叩いた。
「護衛を頼めば金がかかる。危ない道を避けりゃ日数も増える。そもそも前みたいに荷が集まらんこともある。俺だって好きで高くしてるわけじゃねえ」
ベルンが荷台を覗く。
「塩は?」
「そこ」
「これだけか」
「これだけ」
「粉は?」
「隣だ」
ベルンの顔が少し険しくなる。
「少ないな」
「次も同じだけ持ってこられるか分からんぞ」
その一言で、周囲が静かになった。
エイルは並んだ品を見る。
いつもなら、セドが来る日はもう少し賑やかだった。
今日は誰も、楽しそうに品を選んでいなかった。
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「兄ちゃん」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、リナがいる。
「何?」
「……」
何も言わない。
見ているのは荷車の端。
菓子だった。
「金ないぞ」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
リナは菓子から目を離さない。
「一個」
「駄目」
「半分あげる」
「俺の金で買うんだから、全部俺のだろ」
「じゃあ半分ちょうだい」
「買わないって」
「けち」
「なんで俺が悪いんだよ」
第一話のときと、ほとんど同じやり取りだった。
「一口でもいいよ」
「どんどん減ってるな」
「兄ちゃん」
「無理」
「なんで?」
エイルは少し止まった。
前なら、もったいないから。
それだけでよかった。
今日は違う。
「……金ないから」
「ほんとに?」
「ほんと」
「一個も?」
「一個も」
「……そっか」
リナはまだ菓子を見ていた。
欲しそうだった。
エイルも少し欲しかった。
でも、買わなかった。
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結局、村が買ったのは必要なものばかりだった。
塩。
粉。
油。
干した魚。
いくつかの道具。
菓子はかなり残っていた。
帰り道。
「次来たとき買って」
リナが言った。
「金あったらな」
「いつある?」
「知らない」
「父さんにもらって」
「父さんもないよ」
「母さん」
「たぶんない」
リナは少し考える。
「じゃあ誰が持ってるの?」
「セド」
「セドからもらおう」
「それは泥棒って言うんだよ」
「じゃあ駄目」
「駄目だよ」
しばらく歩いてから、リナがまた聞いた。
「次はある?」
「何が?」
「お金」
エイルは答えられなかった。
「さあ」
「分かんないの?」
「分かんない」
「大人みたい」
「まだ十二だよ」
「じゃあ分かって」
「無茶言うな」
リナは不満そうだった。
けれど、道端に何かを見つけると、すぐそちらへ走っていった。
まだ、リナにとってはそれくらいだった。
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その日の夕方。
エイルは家の裏にいた。
手頃な石を一つ持ち上げる。
魔力を使う。
以前より楽に持てる。
置く。
もう一度。
水桶を二つ運べるようになった。
木材も前より楽に持てる。
畑仕事にも役立っている。
少しずつ、自分にできることは増えていた。
エイルは石を置いた。
東を見る。
直された柵。
その向こうには森がある。
三週間前。
あそこから灰牙が来た。
自分はベルンの家にいた。
人に囲まれて。
リナに服を掴まれて。
何が起きているのかも分からないまま、外の音を聞いていた。
父が怪我をした。
二人が死んだ。
畑が荒れた。
森へ入りにくくなった。
人が足りなくなった。
食べ物が減った。
セドが運んでくるものまで高くなった。
灰牙が村へ来たのは、あの日だけだった。
たった一度。
それなのに、三週間経っても、まだあの日の続きの中にいる。
エイルには、それが少し不思議だった。
そして、嫌だった。
また来れば。
せっかく直したものが、また壊れるかもしれない。
誰かが怪我をするかもしれない。
またベルンの家に集められて、何が起きているのかも分からないまま待つことになるかもしれない。
エイルは右手を握った。
怖い。
それはもちろんある。
でも、それだけではなかった。
毎日みんなで働いて、少しずつ戻しているものを、また壊されるのが嫌だった。
目を閉じる。
浮かんだのは、サナの魔術だった。
火が灯る前。
怪我人を診たとき。
そして襲撃の日に感じた、大きな魔力。
自分がやっているのとは違う。
何が違うのか知りたくて、ずっと気になっていた。
今までは、それだけだった。
エイルは目を開ける。
「……使えたら」
口にしてから、少し考えた。
魔術が使えれば何ができるのか。
灰牙を倒せるのか。
誰かを助けられるのか。
そんなことは、まだ何も分からない。
それでも。
何も知らないままよりはいい。
何もできないままよりはいい。
エイルはもう一度、東の柵を見た。
「使えるようになりたい」
今度は最後まで言った。
誰も聞いていなかった。
それでよかった。




