第百六十三話 最後の一頭
翌朝。
エイルとガレスは、昨日見つけた羊の死骸がある谷へ向かった。
ロマには、今日はついてこなくていいと伝えてある。
「二人で行くんですね」
歩きながらエイルが聞いた。
「見るだけならな」
「狼がいたら?」
「近づかない」
「向こうから来たら?」
「距離を取る」
ガレスは前を見たまま答える。
「戦うかどうか決めるのは、その後だ」
「はい」
昨日と同じだった。
何がいるのか。
何頭いるのか。
どこを動いているのか。
まず、それを確かめる。
二人は村を出て、東の丘へ向かった。
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谷へ入る前に、ガレスが足を止めた。
「ここから静かにしろ」
エイルは頷いた。
斜面を下りる。
昨日見つけた羊は、そのまま残っていた。
だが、近づく前にガレスが止まった。
エイルも止まる。
死骸の位置が、昨日と少し違う。
「動いてる」
エイルが小声で言った。
「ああ」
昨日は草の上に横倒しになっていた。
今はそこから少し谷の奥へ引かれている。
周囲の草も広く倒れていた。
ガレスはすぐには近づかない。
斜面の上から周囲を見る。
しばらく待つ。
何も動かない。
鳥の声がする。
風で葉が揺れる。
それだけだった。
「行くぞ」
二人はゆっくり下りた。
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死骸の周りには、新しい跡が増えていた。
ガレスがしゃがむ。
「昨夜ですね」
「ああ」
土の上に犬に似た足跡がいくつも残っている。
昨日よりはっきりしていた。
エイルも少し離れたところから見る。
「こっち、大きい」
「そうだな」
「こっちは小さい」
「ああ」
一つずつ見ていく。
同じ場所を何度も歩いているため、全部を数えることはできない。
それでも、大きさの違う跡がいくつかある。
「三頭?」
エイルが聞いた。
「少なくとも、それくらいはいるかもしれん」
「もっと?」
「いるかもしれん」
ガレスは死骸の食べられた部分も確認した。
昨日より減っている。
「戻ってきたんですね」
「ああ」
「じゃあ、この近くにいる?」
「それも分からん。夜だけ来たかもしれない」
エイルは谷の奥を見る。
足跡はそちらへ続いている。
昨日は追わなかった。
今日は、ガレスがその方向をしばらく見ている。
「行きます?」
「少しだけな」
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二人は足跡を追った。
谷は奥へ行くほど狭くなっていた。
両側に低い斜面があり、その上に木が生えている。
エイルはガレスの少し後ろを歩く。
足元だけを見ない。
前。
左右。
時々、後ろ。
学校の実習でも言われたことだった。
ガレスが止まる。
エイルも止まった。
「何かありました?」
ガレスが地面を指す。
羊の蹄跡だった。
「狼じゃない」
「ああ」
新しいのか古いのか、エイルには分からない。
ただ、昨日見つけた死骸よりさらに奥へ続いている。
「死んだ羊の跡?」
「分からん」
「残りの一頭かも?」
「かもしれん」
ガレスは蹄跡を見る。
その近くには、犬に似た足跡もあった。
「一緒に進んでる?」
「そう見える場所もある」
「追われた?」
「それもあり得る」
また少し進む。
途中で蹄跡は草の中へ消えた。
ガレスは周囲を探し、斜面の下でまた見つけた。
今度は地面が大きく荒れている。
草が倒れ、土が露出していた。
エイルは少し離れたところで止まる。
白い毛が落ちている。
「ここにも羊毛」
ガレスが確認する。
血は見当たらない。
「逃げたのかな」
エイルが言った。
「たぶんな」
その先へ目を向ける。
蹄跡は斜面を上っていた。
二人も上がる。
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斜面の上は、林だった。
木々の間隔はそれほど狭くない。
朝の光も入っている。
だが、下草が多く、遠くまでは見えなかった。
ガレスが進む速度を落とした。
エイルも合わせる。
少し歩いたところで、前方から音がした。
枝が折れる。
二人とも止まる。
エイルは音のした方を見る。
何も見えない。
また音。
今度は少し近い。
ガレスが片手を上げた。
動くな、という意味だ。
エイルはその場で待った。
草が揺れた。
灰色の身体が一瞬だけ見えた。
「……いた」
小さく呟く。
狼だった。
森牙ほど大きくない。
村の近くで見たことのある狼と、それほど変わらないように見える。
一頭。
すぐに木の陰へ消えた。
ガレスは動かない。
エイルも待つ。
しばらくして、別の場所で草が揺れた。
もう一頭。
最初の個体より少し小さい。
「二頭」
エイルが小声で言う。
ガレスは返事をしない。
さらに右側。
今度は姿をはっきり見る前に、低い唸り声が聞こえた。
エイルの身体が固くなる。
三頭目がいる。
少なくとも。
ガレスがゆっくり後ろへ下がった。
エイルも同じように下がる。
狼は追ってこない。
数歩。
さらに数歩。
十分に距離を取ったところで、二人は斜面を下りた。
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谷まで戻ってから、エイルが息を吐いた。
「三頭いましたね」
「ああ」
「普通の狼?」
「見えた範囲ではな」
「魔物じゃない?」
「少なくとも、森牙には見えん」
ガレスは来た方向を見る。
「ただ、まだ決めつけるな」
「はい」
エイルも振り返る。
「追ってこなかったですね」
「ああ」
「じゃあ、人を襲う気はない?」
「今はな」
「今は?」
「巣に近づけば違うかもしれん。腹が減ってても違う。怪我してても違う」
「なるほど」
少し歩いてから、エイルが聞いた。
「倒します?」
「まだ決めない」
「羊を一頭食べてるのに?」
「狼が羊を食った。それだけで、森にいる狼を全部狩る理由にはならん」
「でもロマさんの羊、また狙われるかもしれない」
「だから、どこまで来てるのかを見る」
ガレスは足を止めた。
「それと、最後の一頭だ」
「あ」
まだ見つかっていない。
一頭は隣村で生きていた。
一頭は狼に食われていた。
最後の一頭がどうなったのかは分からない。
「さっきの蹄跡が、その一頭なら」
エイルが林を見る。
「まだ生きてるかもしれない?」
「かもしれんな」
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二人は谷の入り口まで戻った。
そこから今度は、斜面の反対側を回る。
林の中へ深く入らず、外側を歩いた。
しばらくして、エイルが足を止めた。
「ガレスさん」
「なんだ」
「鳴いてません?」
二人とも黙る。
風。
葉の音。
その向こうから、かすかに声が聞こえた。
「……メェ」
エイルが顔を上げる。
「羊だ」
ガレスも聞いていた。
声は林の奥ではない。
少し北。
二人はそちらへ回った。
また鳴く。
今度は近い。
低い藪を抜けた先に、小さなくぼ地があった。
そこに白いものが見える。
「いた」
羊だった。
立っている。
生きている。
だが、動こうとしない。
ガレスが周囲を確認してから近づく。
エイルも続いた。
羊の前脚に、細い蔓が絡みついていた。
暴れたらしく、周囲の草が倒れている。
「これで動けなかった?」
エイルが聞く。
「たぶんな」
ガレスがしゃがみ、蔓を見る。
「切るぞ」
エイルが周囲を見る。
さっき狼を見た場所から、それほど遠くない。
「俺、見てます」
「ああ」
ガレスが山刀を出す。
エイルは林の方を見る。
何も来ない。
一度、羊が大きく鳴いた。
「静かにしてくれないかな」
エイルが言う。
「羊に言え」
「聞かないですよね」
「たぶんな」
蔓が切れた。
羊が脚を引く。
立てる。
歩ける。
大きな傷も見当たらない。
「帰せそうですね」
「ああ」
ガレスが縄をつける。
羊は最初こそ抵抗したが、歩き始めると素直についてきた。
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ベルノへ戻ると、ロマは驚いた顔をした。
「またいたのか」
「これで三頭ですね」
エイルが言う。
ロマは羊を確認する。
「ああ。こいつで最後だ」
少し安心したように息を吐いた。
「どこにいた?」
「林の近くで蔓に絡まってました」
「なんでそんなところまで……」
ロマは羊を見る。
もちろん、羊は答えない。
ガレスが言った。
「もう一頭を食ったのは、たぶん狼だ」
ロマの表情が戻る。
「何頭いた?」
「見たのは三頭」
「三頭も?」
「ああ」
「狩れるか?」
ガレスはすぐには答えなかった。
「まず確認する」
「何をだ?」
「この辺りの狼が、普段どこまで来るか。最近ほかに家畜の被害がないか」
「まだ調べるのか」
「ああ」
ロマは少し不満そうだった。
「羊を食われてるんだぞ」
「だから調べる」
ガレスが言う。
「一度入り込んだだけなら、柵と放牧の場所を変える方が安く済むかもしれん。ここを餌場にし始めてるなら、追う必要が出る」
ロマは黙った。
「金を払うのはあんただ。先に決める」
しばらくして、ロマが頷いた。
「……分かった」
「ニルにも話を聞く」
「ああ」
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牧場を離れる。
エイルは少し歩いてから振り返った。
三頭のうち、二頭は戻った。
一頭は死んでいた。
最初は、三頭とも同じ理由で消えたと思っていた。
実際には違った。
一頭はどこかで群れから離れ、そのまま隣の村まで歩いていた。
一頭は狼に襲われた。
最後の一頭は、林の近くで動けなくなっていた。
「三頭とも違いましたね」
エイルが言う。
「ああ」
「最初に狼の毛を見て、全部狼だと思ってたら間違ってた」
「ああ」
ガレスはそれだけ答えた。
エイルは少し考える。
「次はニルさん?」
「その前に飯だ」
「また?」
「昼だぞ」
エイルは空を見る。
「本当だ」
調べているうちに、思ったより時間が経っていた。
「じゃあ食べてから?」
「ああ」
「そのあと狼のこと調べる?」
「ロマが金を払うならな」
「まだ仕事になるか分からない?」
「そういうことだ」
エイルは笑った。
羊は全部見つかった。
けれど、仕事はまだ終わっていないらしい。
二人は昼飯を食べるため、村の中心へ戻った。




