第百五十五話 待つ仕事
場所を変えてから、また待つ時間が始まった。
今度のエイルの位置は、放牧地の端にある物置の近くだった。
最初に立っていた牛舎の横より森に近い。それでも、ガレスとデリクが身を隠した場所からは十分に離れている。
エイルは後ろを振り返った。
物置の脇を抜ければ、そのまま村側へ下がれる。
さっきガレスに言われた通り、一度そこまで歩いて道を確かめてから戻った。
牧場主の息子も一緒だった。
「さっきより近いな」
「少しだけ」
「大丈夫なのか?」
「何かあったら、物置の裏から向こうへ下がります」
エイルが指すと、息子もそちらを見る。
「俺も?」
「一緒にです」
「分かった」
二人はまた森へ目を向けた。
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森牙はなかなか出てこなかった。
さっき一度、人の気配に気づいて森へ戻っている。
もう一度現れるのか。それとも今日はもう出てこないのか。
エイルには分からない。
しばらくして、牧場主が水を持ってきた。
「まだか?」
「まだです」
「何もしてないように見えるな」
エイルは森の近くを見る。
ガレスもデリクも姿が見えない。
「待ってるんだと思います」
「それは見れば分かる」
牧場主の息子が笑った。
「俺たちも同じだな」
「そうですね」
「これで金がもらえるなら楽そうだけどな」
「俺はもらえませんよ」
「あ、そうか」
エイルも笑った。
ただ、ガレスとデリクが楽をしているとは思わなかった。
ずっと同じ姿勢ではいられないだろうし、森牙より先に自分たちの姿や匂いを気づかれれば、またやり直しになる。
何より、出てきた後に戦うのは二人だ。
エイルは水を一口飲んだ。
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風が少し強くなった。
草が一斉に揺れる。
遠くで、デリクが動いた。
木の陰から離れ、別の茂みへ移っていく。
少し遅れてガレスも位置を変えた。
二人の間に声はない。
「何してるんだ?」
牧場主の息子が聞いた。
エイルは少し考えた。
「風が変わったからじゃないですか」
「さっきみたいに匂いが行くから?」
「たぶん」
二人がどこまで風を読んでいるのかまでは分からない。
エイルは自分の頬に当たる風を感じてみた。
こちらから森へ吹いているようにも思える。
だが、少しすると横からも吹く。
「難しいな」
「何が?」
「風」
牧場主の息子も真似して顔を上げた。
「吹いてるぞ」
「それは分かります」
「じゃあいいだろ」
「よくないと思います」
二人で小さく笑った。
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しばらくして、森の端で草が動いた。
エイルはそちらを見る。
すぐには立たない。
少し前にも似た動きがあったが、その時は鳥が一羽飛び出しただけだった。
もう一度、草が揺れる。
今度は大きい。
エイルが立った。
牧場主の息子も気づく。
「来たか?」
「たぶん」
エイルは後ろを確認した。
物置。
その先の道。
牧場主は少し離れた柵のところにいる。
「父さん呼ぶ?」
「お願いします」
息子が小声で呼びに行く。
エイルは森から目を離さなかった。
やがて、茶灰色の頭が現れた。
森牙だった。
さっきと同じ親だ。
森の端で止まり、周囲を見回している。
子の姿は見えない。
エイルは剣に触れなかった。
森牙が一歩、草地へ出る。
止まる。
鼻を動かす。
餌を見る。
また一歩進んだ。
さっきより慎重だった。
何度も止まり、そのたびに森の中へ顔を向ける。
やがて後ろの茂みから、小さな森牙が姿を見せた。
親よりかなり小さい。
だが、親のすぐ後ろにはついてこない。
森の端を行ったり来たりしている。
親だけが餌へ近づいていった。
エイルにはガレスもデリクも見えなかった。
どこに隠れているのか分からない。
森牙がさらに進む。
餌まで、あと少し。
そこで止まった。
長い。
エイルにはそう感じた。
森牙が頭を下げる。
肉の匂いを嗅ぐ。
まだ何も起こらない。
もう少し近づいた。
その瞬間。
矢が飛んだ。
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森牙の身体が大きく跳ねた。
矢は肩の後ろに刺さっていた。
低い咆哮が放牧地に響く。
「下がって!」
エイルは牧場主と息子に声をかけた。
三人で物置の裏へ動く。
エイルは最後に入り、そこから森の方を見る。
森牙は逃げなかった。
身体を反転させ、矢が飛んできた方へ向く。
デリクが茂みから姿を現した。
すでに次の矢をつがえている。
森牙が走った。
速い。
さっきまで慎重に一歩ずつ進んでいた獣と同じとは思えないほど、一気に距離が縮まった。
デリクはその場で二本目を撃たなかった。
後ろへ動く。
その横からガレスが出た。
剣を抜いている。
ガレスが短く声を上げる。
森牙の頭がそちらへ向いた。
そのまま進む方向が変わった。
ガレスへ向かう。
森牙が飛びかかる。
ガレスは正面から受けなかった。
横へ大きく踏み出す。
その一歩だけが、不自然なほど速い。
身体強化だとエイルにも分かった。
森牙の前脚が空を切る。
ガレスは剣を振らず、そのまま距離を取った。
森牙が追う。
デリクが弓を引く。
だが、撃たない。
ガレスが近すぎる。
エイルは物置の陰から二人を見ていた。
ガレスがさらに横へ動く。
森牙も向きを変える。
一瞬、二人の間が開いた。
矢が飛んだ。
森牙の脇腹に刺さる。
咆哮が上がった。
それでも倒れない。
森牙は身体をひねり、今度はデリクの方を向いた。
ガレスが前へ出る。
剣を振る。
刃が森牙の横腹を浅く切った。
森牙が再びガレスへ向き直る。
エイルの手が剣の柄に触れた。
すぐに離した。
自分の方へ来ているわけではない。
助けに行くなと言われている。
今、自分が出ればガレスたちの邪魔になる。
エイルはその場に残った。
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森の方から、高い鳴き声がした。
子だった。
親の森牙が反応する。
ほんの一瞬、動きが止まった。
そのまま森へ向きを変える。
「逃げるぞ!」
デリクが叫んだ。
弓を引く。
だが、すぐには放たなかった。
森牙の向こうには木が並んでいる。
親はそのまま森へ駆け込んだ。
ガレスが追う。
数歩。
森の手前で止まった。
それ以上は入らない。
デリクも弓を構えたまま森を見ている。
低い唸り声が聞こえた。
少しして、それも遠ざかっていった。
「逃げた?」
牧場主の息子が聞いた。
「分かりません」
エイルは物置から出なかった。
ガレスからまだ合図がない。
しばらくして、ガレスがゆっくり後ろへ下がり始めた。
デリクもそれに合わせる。
二人とも森に背を向けない。
十分に離れたところで、ガレスがこちらへ手を上げた。
「行って大丈夫です」
エイルはそこで初めて物置の裏から出た。
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ガレスの剣には血がついていた。
デリクは左腕を押さえている。
「腕、大丈夫ですか?」
「少しきついな」
デリクは弓を持ち替えた。
「途中から引くたびに痛んだ」
ガレスが布の上から腕を見る。
「今日はもう引くな」
「ああ」
牧場主が森の方を見た。
「倒せなかったのか」
「まだだ」
「矢は当たっただろ?」
「二本な」
デリクが答える。
「追わないんですか?」
エイルが聞いた。
「ああ」
ガレスは剣の血を拭う。
「追えば昨日の場所に戻る」
木の多い斜面。
その中には子もいる。
「でも、傷を負ってますよね」
「だから追いやすくはなる」
ガレスは森の手前へ向かった。
「血を見てくる」
エイルも少し遅れてついていった。
森には入らない。
草地までだった。
すぐに血が見つかった。
一滴。
その先にもう一滴。
森へ続いている。
ガレスはしゃがんで確認した。
「深くは入ってるな」
デリクも近くまで来る。
「肩の方は悪くない」
「脇は?」
「手応えはあった」
ガレスは立ち上がった。
「今日はここまでだ」
牧場主が眉を寄せる。
「明日まで待つのか?」
「ああ」
「逃げないか?」
「逃げるかもしれん」
「だったら今――」
「デリクの腕で森へ入る方がまずい」
ガレスが言った。
デリクも否定しなかった。
牧場主は口を閉じた。
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帰る前に、エイルは草地に落ちた矢を見つけた。
森牙を外した一本だった。
拾ってデリクへ持っていく。
「これ」
「ありがとよ」
デリクは矢を回して見る。
軸が少し曲がっている。
「駄目だな」
「もう使えない?」
「このままじゃな」
デリクは鏃を指で確かめた。
「こっちは外して使う」
エイルは森を見る。
刺さった二本は戻ってきていない。
「矢もなくなるんですね」
「そりゃ撃てばな」
「考えたことなかったです」
「剣だって刃こぼれするぞ」
横からガレスが言った。
「知ってます」
「なら同じだ」
「弓は飛んでいくから、もっと分かりやすいですね」
デリクが笑った。
「拾えればいいんだがな」
三人は牧場を出た。
エイルは一度だけ後ろを振り返った。
森はもう静かだった。
明日は、血の跡を確認する。
それだけ決めて、村へ戻った。




