第十五話 父の仕事
サナたちが村を出てから二日。
エイルの朝は、少し早くなった。
「エイル」
「起きてる」
「まだ呼んでないぞ」
目を開けると、寝床からトーマがこちらを見ていた。
「……じゃあ何?」
「水」
「昨日汲んだじゃん」
「使えば減るだろ」
「知ってるよ」
身体を起こす。
隣ではリナがまだ眠っていた。ミラはもう起きていて、外へ出る準備をしている。
「母さん、どこ行くの?」
「鶏を見てくる」
「俺やるよ」
「水は?」
「そのあと」
「薪も少ないよ」
「それもやる」
すると寝床からトーマが付け足した。
「畑もな」
エイルが振り返る。
「今日行くの?」
「俺は行かん」
「それは分かってるよ」
「お前が行く」
「一人で?」
「ドルクに頼んである」
エイルは少し嫌な顔をした。
「見張られるの?」
「手伝ってもらうんだ」
「畑くらいできるよ」
「できるなら助かる」
「……何やればいい?」
トーマが少し笑った。
「まず水」
結局、そこからだった。
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井戸へ向かう途中、東側の柵が見えた。
壊されたところでは、もう補修が始まっている。
何人かの男たちが新しい杭を立て、板を運んでいた。
二日前。
ベルンの家に詰め込まれていたとき、エイルには外で何が起きているのかほとんど分からなかった。
今なら分かる。
柵が壊れている。
地面が深く抉れている。
倒された荷車には傷が残っている。
乾いた血の跡も、まだ完全には消えていない。
エイルは少しだけ見て、そのまま井戸へ向かった。
水を汲む。
桶を持ち上げる前に、魔力を集める。
腕へ流す。
持ち上げる。
「よし」
前よりずっと自然にできた。
そのまま家へ戻った。
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朝食のあと、ドルクがやってきた。
「行くぞ」
「もう?」
「嫌ならやめるか?」
「行く」
エイルが鍬を持つと、トーマに呼び止められた。
「今日は南だけだ」
「東じゃなくて?」
「ああ」
「でも柵直してるじゃん」
「大人がな」
「俺も畑なら――」
「南だ」
エイルは口を閉じた。
まだ東へ行かせる気はないらしい。
「昼まで?」
「様子を見てな」
ドルクが答える。
「何かあったらすぐ戻る」
「灰牙?」
「ああ」
寝床からトーマの声が飛んでくる。
「ドルクの言うこと聞けよ」
「分かってる」
「勝手に森入るな」
「入らないよ」
「考え事して畑から消えるな」
「それもないって」
「どうだかな」
「行ってきます」
これ以上言われる前に、エイルは家を出た。
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南の畑へ着くと、ドルクは畑の端に立った。
背中には弓がある。
「ドルクさん、仕事しないの?」
「してるぞ」
「弓で?」
「今日はこっちが仕事だ」
ドルクは畑ではなく、周囲を見ている。
道。
森。
柵。
ときどき地面。
エイルは鍬を構えた。
「どこからやればいい?」
「トーマに聞け」
「父さん家だよ」
「なら聞いてこい」
「面倒」
「じゃあ好きにやれ」
「失敗したら怒られる」
「なら聞いてこい」
エイルはしばらく畑を見た。
「……ここからでいいや」
「そうか」
ドルクは止めなかった。
土を起こす。
鍬を振る。
また振る。
腕へ少し魔力を流せば楽にはなる。
それでも、いつもより仕事が進まない。
父と二人でやっていたときは、気づけば向こう側まで終わっていたのに、今日はまだずいぶん残っている。
「父さん、もっと速かったな」
「そりゃそうだろ」
「聞こえてた?」
「近いからな」
エイルはまた鍬を振る。
「俺も毎日やってたら、父さんくらいになる?」
「畑仕事か?」
「うん」
「なるんじゃないか」
「魔力の使い方も?」
「知らん」
「ドルクさんもそれ言う」
「知らんものは知らん」
前なら、それで終わるのが少し腹立たしかった。
でも最近は、本当に分からないからそう言っているだけなのだと、少し分かってきた。
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しばらくして、エイルは鍬を止めた。
「ドルクさん」
「なんだ」
「この前の……」
言いかけて止まる。
昨日ではない。
もう二日前だ。
「灰牙のことか?」
ドルクが先に言った。
「うん」
「何が聞きたい」
エイルは少し考えた。
聞きたいことはいくらでもある。
灰牙は全部で何頭いたのか。
あの大きな個体は、どれくらい強かったのか。
誰が倒したのか。
父は、どうして怪我をしたのか。
結局、口から出たのは一つだった。
「父さん、何してた?」
ドルクはすぐには答えなかった。
森の方を見たまま言う。
「柵のところにいた」
「戦った?」
「ああ」
「灰牙と?」
「ああ」
「倒した?」
「一頭な」
エイルは思わずドルクを見た。
「父さんが?」
「何だ、その顔」
「だって父さん、農家だよ」
「農家でも斧は振れる」
「強かった?」
「本人に聞け」
「絶対、適当なこと言う」
「なら聞くな」
「……どうやって怪我したの?」
ドルクが黙った。
エイルは待った。
「倒れた奴を引っ張った」
「誰?」
「俺だ」
「ドルクさん?」
「ああ」
「灰牙にやられたの?」
「転んだ」
「……転んだ?」
ドルクが嫌そうな顔をした。
「悪いか」
「いや。ちょっと思ってたのと違っただけ」
「足を取られてな。起きる前に一頭来た」
「そこに父さんが来た?」
「横から入った」
「それで脚を?」
「ああ」
ドルクはそれ以上話さなかった。
エイルも、すぐには次を聞かなかった。
少ししてから鍬を持ち直す。
「ドルクさん」
「なんだ」
「父さんが来なかったら、どうなってた?」
「さあな」
ドルクは森を見たままだった。
「少なくとも、今より怪我は増えてたかもしれん」
「そっか」
エイルはまた土を起こした。
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昼に家へ戻ると、トーマは寝床にいた。
「どうだった」
「疲れた」
「それだけか」
「父さんの畑、広すぎ」
「今さらか」
「もう半分くらいでいいんじゃない?」
「飯も半分になるぞ」
「それは困る」
鍬を置いて、水を飲む。
それから少し迷って、トーマを見る。
「父さん」
「なんだ」
「灰牙、倒したの?」
トーマが眉を寄せた。
「誰から聞いた」
「ドルクさん」
「あいつ余計なこと言ったな」
「本当?」
「まあな」
「一頭?」
「ああ」
「どうやって?」
「斧」
「それは分かるよ」
「ならいいだろ」
「よくない」
トーマは面倒そうに目を閉じた。
「寝る」
「まだ昼だよ」
「怪我人は寝るのも仕事だ」
「便利だな、怪我人」
「だろ」
エイルは少し笑った。
「あとさ」
トーマが目を閉じたまま言う。
「なんだ」
「それ、俺の台詞」
「……何?」
トーマが片目を開ける。
「まだ聞きたいことあるんだろ」
エイルは少し迷った。
「ドルクさん助けたって」
「ああ」
「それで怪我した?」
「そうだな」
「なんで助けたの?」
トーマが変な顔をした。
「なんでって」
「危ないじゃん」
「そりゃ危ないだろ」
「だったら……」
言葉が止まる。
助けなければよかった、とは言いたくない。
ドルクが怪我をすればよかったわけでもない。
ただ、父があのまま帰ってこなかったかもしれないと思うと、腹のあたりが嫌な感じになった。
トーマは少し考えてから答えた。
「近かったからな」
「それだけ?」
「それだけ」
「死ぬかもしれなかったのに?」
「そこまで考えてなかった」
「……考えてよ」
トーマが笑った。
「次からな」
「絶対だよ」
「多分」
「多分じゃなくて」
「分かった分かった」
たぶん、分かっていない。
でも、それ以上は言わなかった。
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午後。
少し時間ができて、エイルは家の裏に座った。
右手を見る。
魔力を集める。
腕へ流す。
戻す。
ここまでは、もうずいぶん速くなった。
もう一度。
今度は途中で止める。
サナの魔術を思い出した。
小さな火が灯る直前。
怪我人の脚を診たとき。
自分がやっているのとは違う魔力の使い方だった。
けれど、何が違うのかは分からない。
サナが何をしていたのかも知らない。
エイルは集めた魔力をそのまま散らした。
適当に真似しても、たぶん意味はない。
もう一度集めることはせず、目を閉じたまま、見たものだけを思い返した。
忘れないように。
次にサナに会ったら、聞けるように。
「兄ちゃん!」
リナの声がして、目を開けた。
「何?」
「母さん呼んでる」
「なんで?」
「薪」
「朝やったじゃん」
「少ないって」
エイルは空を見上げた。
もう日が傾き始めている。
「……いつの間に」
「寝てた?」
「寝てない」
「じゃあ何してたの?」
立ち上がる。
「考えてた」
「また?」
「また」
リナが先に歩き出す。
エイルもその後ろを追った。
今は父が動けない。
考えることがあっても、薪は勝手には増えてくれなかった。




