第十四話 残ったもの
しばらくして、家の扉が開いた。
「エイル」
ミラが顔を出す。
「入っていいよ」
エイルはすぐに立ち上がった。
家へ入ると、トーマは寝床に横になっていた。脚には新しい布が巻かれていて、さっきまでのように血が滲んではいない。
そばでは、村で怪我や病気を見ている婆さんが道具を片づけていた。
「父さん、どう?」
婆さんではなく、ミラが答えた。
「しばらく動けないって」
「しばらくって?」
「まだ分からない」
「歩けるようにはなる?」
「なるよ」
今度は婆さんが答えた。
「傷は深いけど、骨は折れてない。ちゃんと休ませればね」
エイルは少し安心して、トーマを見る。
「じゃあ大丈夫?」
「すぐ畑に出ようとしなければね」
その言葉に、トーマが目を開けた。
「いつから出られる?」
婆さんがじろりと見る。
「今それを聞いたから、もう一日増やすよ」
「なんでだ」
「私が決めるからだよ」
「横暴だな」
「もう一日」
「分かった。黙る」
エイルは思わず笑った。
声は弱いけれど、いつもの父親だった。
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婆さんが帰ると、ミラは血のついた布をまとめ始めた。
エイルはその横に立つ。
「母さん」
「何?」
「今日、俺は何すればいい?」
ミラの手が止まった。
「珍しいね」
「父さん動けないし」
「そうだね」
少し考えてから、指を折る。
「まず鶏。それから水と薪」
「畑は?」
「今日は行かなくていい」
「でも――」
「今日はね」
エイルは頷いた。
「分かった」
外へ出ようとすると、後ろから声が飛んでくる。
「エイル」
「何?」
「鶏、逃がすなよ」
「逃がしたことないだろ」
「リナがある」
「俺じゃないじゃん」
「念のためだ」
「はいはい」
寝床から動けなくても、父は父らしい。
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外へ出ると、リナが鶏小屋の前にいた。
「何してるの?」
「見る」
「何を?」
「鶏」
「それ俺の仕事」
「手伝う」
エイルは少し驚いた。
「珍しい」
「兄ちゃんも言われてた」
「何を?」
「珍しいって」
「……聞いてたのか」
二人で鶏に餌をやった。
いつもならリナはどうでもいいことをずっと喋っている。
今日はあまり喋らなかった。
昨日のことが残っているのかもしれない。
エイルは聞かなかった。
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水を汲みに行く途中、村の中央を通った。
昨日は避難してきた人でいっぱいだったベルンの家。その前に、何人かが集まっている。
ハイン。
ボル。
ドルク。
ベルン。
サナもいた。
何かを地面に広げて、話している。
エイルは足を止めた。
昨日、何があったのか。
あの大きな灰牙は何だったのか。
全部で何頭いたのか。
誰が倒したのか。
聞きたいことはいくらでもある。
けれど、近づこうとは思わなかった。
ドルクは座ったまま俯いていた。
ボルの左腕には厚く布が巻かれている。
ハインの腕にも傷がある。
サナは何かを書きながら、ときどき誰かに確認していた。
誰も笑っていない。
エイルはそのまま井戸へ向かった。
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井戸には、昨日ベルンの家に一緒に避難していた女がいた。
「エイル」
「おはよう」
「トーマは?」
「しばらく動けないって。でも骨は大丈夫だって」
「そう……よかったね」
「うん」
エイルは桶を井戸へ下ろした。
水を汲み、引き上げる。
持ち上げる前に魔力を集め、腕へ流す。
以前より、ずっと自然にできた。
「重くない?」
女が聞く。
「大丈夫」
「ほんとに? 持とうか?」
「持てるよ」
桶を持ち上げる。
「ほんとだね」
エイルはそのまま歩き出した。
数歩進んだところで、後ろから別の女の声が聞こえた。
「ガンツのところ、もう行った?」
エイルの足が止まった。
「これから」
「奥さんは?」
「ずっと一緒にいるよ」
「そう……」
エイルは振り返らなかった。
そのまま家へ戻った。
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「母さん」
「何?」
「ガンツさん、怪我ひどいの?」
ミラの手が止まった。
「誰から聞いたの?」
「井戸で。昨日、怪我したって言ってたよね」
ミラは少し黙った。
「亡くなったよ」
エイルは母の顔を見た。
すぐには意味が入ってこなかった。
「……いつ?」
「夜」
「俺たちがベルンさんの家にいたとき?」
「そのあと」
エイルは少し黙る。
それから、思いついたことをそのまま聞いた。
「サナは?」
「診てくれたよ」
「治せなかったの?」
ミラがエイルを見る。
責めたつもりはなかった。
ただ、昨日サナが怪我人を治療しているところを見た。
魔術も使っていた。
だから、どこかで助かるものだと思っていた。
「傷が深すぎたの」
「魔術でも?」
「うん」
エイルはそれ以上聞けなかった。
「……そっか」
ガンツとは何度も話したことがある。
特別に仲がよかったわけではない。
でも、村を歩けば普通に会う人だった。
昨日までは。
エイルは桶を置いたまま、少しの間そこに立っていた。
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昼前。
村の中央に人が集められた。
昨日のように家の中ではない。
ベルンが皆の前に立つ。
エイルもリナと並んで話を聞いた。
「昨日のことで、分かっていることを話す」
ざわついていた人たちが静かになる。
「東から灰牙の群れが来た。確認できた死骸は七頭」
エイルは顔を上げた。
七頭。
森でハインたちが見た数より多い。
「森へ逃げたものもいる。正確な数は分からない」
ベルンの横にはハインが立っている。
「それと、群れを率いていたと思われる大きな個体は倒した」
周囲が少しざわついた。
「じゃあ、もう来ないのか?」
誰かが聞く。
ベルンはハインを見る。
ハインが答えた。
「分からん」
いつもなら、またそれかと思う言葉だった。
今日は誰も笑わなかった。
「少なくとも、昨日と同じ群れがそのまま戻ってくる可能性は低いと思う」
「逃げたのは?」
「散った」
「また集まるか?」
「それも分からん。だから、しばらく見回りは続ける」
ベルンが続けた。
「森には入るな。東側だけじゃない。村の外へ出るときは、一人で行かないようにしてくれ」
そこで終わるのかと思った。
ベルンは少し黙った。
それから、もう一度口を開く。
「昨日、二人亡くなった」
エイルはベルンを見る。
一人は、もう知っている。
「ガンツと、オルバだ」
オルバ。
知らない名前ではなかった。
村の南側に住んでいる男だ。
何度も見たことがあるし、話したこともある。
でも、昨日オルバがどこにいたのか、エイルは知らなかった。
誰と戦っていたのかも知らない。
周囲から泣く声が聞こえた。
エイルは隣を見る。
リナも黙っていた。
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話が終わっても、すぐには誰も帰らなかった。
エイルもその場に残った。
少し離れたところで、サナがハインと話している。
「今日出る」
サナの声が聞こえた。
ハインが尋ねる。
「動かせるか?」
「三人は。残りはここで大丈夫」
「街まで持つ?」
「途中で無理させなければ」
エイルは少しだけ近づいた。
「教会に連れていく」
サナが続ける。
「ここじゃ、できることに限界がある」
「荷車は?」
「ベルンが出してくれるって」
「なら、日が高いうちに出た方がいいな」
「そうする」
怪我人の話だ。
昨日の襲撃で大怪我をした人たちを、街へ運ぶ。
村では治療しきれないから。
サナも一緒に行く。
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昼になる頃には、村の入口に荷車が二台並んでいた。
荷台には藁と布が厚く敷かれ、怪我人が横になっている。
一人。
二人。
三人。
サナが一人ずつ様子を確認していく。
ボルは荷物を積んでいた。
ハインとカイルも出発の準備をしている。
エイルは少し離れたところから見ていた。
サナには、まだ聞きたいことがあった。
昨日見た魔術。
火が出る前。
傷を診るとき。
あの魔力の動きが何なのか。
けれど、サナは忙しかった。
怪我人を見る。
水を確認する。
薬や布を確かめる。
荷車の揺れで傷が悪くならないよう、何度も寝かせ方を直している。
エイルは話しかけなかった。
「エイル」
逆に呼ばれた。
サナだった。
「何?」
「お父さん、大丈夫?」
「うん。しばらく歩けないけど、骨は大丈夫だって」
「そう」
サナは頷いた。
「傷は私も見たから。ちゃんと休めば大丈夫だと思う」
「ありがとう」
「私は大したことしてないよ」
サナは荷車へ目を向ける。
「しばらく村の外には出ない方がいいよ」
「分かってる」
「本当に?」
「みんなに言われる」
「なら大丈夫かな」
少し笑う。
エイルは口を開きかけた。
聞くなら今かもしれない。
けれど、その前に荷車から声がした。
「サナ」
「今行く」
サナが振り返る。
「じゃあね、エイル」
「あ……うん」
サナは荷車へ向かった。
エイルは呼び止めなかった。
今は違う。
それくらいは分かった。
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荷車が動き始めた。
サナ、ボル、ハイン、カイル。
怪我人を乗せて、街へ向かう。
村の人たちが見送っていた。
エイルもその中にいた。
少し進んだところで、サナが一度だけ振り返った。
軽く手を上げる。
エイルも手を上げた。
それだけだった。
荷車は道を進み、やがて見えなくなった。
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家へ戻ると、トーマは眠っていた。
リナも疲れたのか、ミラのそばで座ったままぼんやりしている。
エイルは家の前に腰を下ろした。
右手を見る。
少しだけ魔力を集める。
腕へ流す。
いつもの動き。
それならできる。
でも、サナがしていたことは違った。
火を灯す前。
怪我人を診る前。
そして昨日、ベルンの家の中から感じた大きな魔力。
どれも同じものではなかった。
何をしていたのかも、まだ分からない。
エイルは手の中の魔力を散らした。
今日はもう試す気にならなかった。
立ち上がって家へ入る。
水を替えて、薪を運んで、鶏を見なければならない。
父さんが動けない間は、その分の仕事が残る。
エイルは眠っているトーマを起こさないように、静かに水桶を持ち上げた。




