第十三話 朝まで
ミラが戻ってきたのは、それからしばらくしてからだった。
扉が開く。
エイルはすぐに立ち上がった。リナも顔を上げる。
「母さん」
ミラの袖には、さっきよりも血がついていた。
「父さんは?」
ミラはすぐには答えず、先にリナの前へしゃがんだ。
「大丈夫。生きてるよ」
リナの肩から力が抜ける。
エイルも、ようやく息を吐いた。
「怪我は?」
「脚」
「どれくらい?」
「まだ分からない」
エイルはそれ以上聞かなかった。
ミラの顔を見れば、今聞いても答えが増えないことくらい分かった。
「父さん、ここに来る?」
「今は動かせないの。北の柵の近くで、ドルクさんたちが見てくれてる」
「母さん、戻る?」
「うん」
エイルは隣のリナを見た。
「じゃあ、リナは俺が見てる」
ミラが少しだけ表情を緩めた。
「お願い」
「うん」
ミラはすぐに外へ戻っていった。
---
ベルンの家には、まだ大勢の人が残っていた。
誰もすぐには帰ろうとしない。
「もう大丈夫なんだろ?」
「ベルンは『今は』って言ってたぞ」
「家畜はどうする?」
「外に残ってる奴はいないのか?」
あちこちから声が上がる。
ベルンが何度か静かにするよう言ったが、完全には収まらなかった。
エイルは壁際へ戻った。
リナが肩にもたれてくる。
「眠い?」
「ちょっと」
「寝ていいよ」
「兄ちゃんは?」
「起きてる」
「父さん待つ?」
「うん」
リナは少し考えてから、
「じゃあ私も待つ」
と言った。
「寝ていいって」
「いい」
そう言ったくせに、しばらくもしないうちにエイルの肩で眠ってしまった。
エイルは何も言わず、ずり落ちないように少しだけ身体を寄せた。
そのとき、また扉が開いた。
入ってきたのはサナだった。
顔も服も泥で汚れ、袖の一部が焦げている。肩にはあの大きな鞄があった。
「怪我人、ここ?」
「奥!」
すぐに人が場所を空ける。
サナは迷わず奥へ進んだ。
エイルはその姿を目で追った。
腰には杖がある。
さっき外で聞いた大きな音。
あれはサナの魔術だったのかもしれない。
何をしたのか。
どうやったのか。
聞きたいことはあった。
けれど、今のサナはエイルの方を見ることすらなく、怪我人の前へしゃがみ込んでいた。
エイルも声をかけなかった。
サナは脚を怪我した男の布を外し、傷を確かめた。
「ここは?」
「痛い」
「こっち」
「……そこも」
「足の指、動かして」
男が顔をしかめながら動かす。
サナは何度か確認してから、腰の杖を取った。
エイルの目が止まる。
魔力が集まった。
昨日見せてもらった小さな火のときより、ずっと多い。
それでも、集めるところまでは分かる。
自分もやっているからだ。
問題はそのあとだった。
サナの魔力が、一度そこで留まる。
そのまま杖へ流れていかない。
何かをしている。
細かく整えているようにも見える。
昨日と同じだ。
けれど、今度はもっと複雑だった。
やがて魔力が杖を通り、男の脚を薄く覆った。
サナは傷の周囲から膝、足首へと慎重に杖を動かし、また傷へ戻る。
しばらくして魔力が消えた。
「骨は大丈夫。でも傷が深い。縫うよ」
男が嫌そうな顔をする。
「痛い?」
「痛い」
「魔術でどうにか――」
「何でも魔術で済むと思わないで」
いつもの調子だった。
周りから小さな笑いが漏れ、張りつめていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
サナはすぐに鞄を開き、針や布を取り出した。
エイルは黙って見ていた。
魔術を使っても、傷が消えたわけではない。
それに、やっぱり分からなかった。
火のときにもあった、魔力を集めたあとの何か。
今は聞くときではない。
エイルは眠っているリナの頭を支え直した。
---
夜が深くなるにつれて、ようやく何人かが家へ戻り始めた。
まず老人たち。
次に子供を連れた家族。
村の男たちはまだ残る。見回りを再開するらしい。
ベルンが皆に言った。
「子供と女は、今夜はできるだけ家の中にいてくれ」
「また来るのか?」
「分からん」
「大きいのは倒したんだろ?」
「ああ」
「なら、もう終わりじゃないのか?」
ベルンが答える前に、扉が開いた。
ハインだった。
腕には布が巻かれ、顔にも泥がついている。
「終わりとは言えん」
部屋が静かになる。
「灰牙は散った。何頭かは森へ戻った」
「何頭だ?」
「確認できてない」
「また来る?」
「来るかもしれん」
ハインは隠さず答えた。
「でも、あのでかいのは死んだ」
誰かが聞く。
「あれが群れの中心か?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「他にもっとでかいのがいなけりゃな」
何人かが乾いた笑いを漏らした。
ハインも少しだけ笑う。
「だから今夜は追わない。見回りだけ続ける」
「明日は?」
「明日になってから考える」
それで話は終わった。
エイルは肩にもたれているリナを揺らした。
「リナ。帰るよ」
「……父さんは?」
「まだ」
「会えない?」
「母さんがいいって言ったら」
眠そうなリナの手を引いて外へ出る。
村は暗かった。
ところどころに松明が残っている。
壊れた柵。
横倒しになった荷車。
地面には黒く見える血の跡もあった。
エイルはそれを見た。
でも、立ち止まらなかった。
今は家へ帰る。
リナの手を握って歩いた。
---
家の中は静かだった。
「母さんいないね」
「父さんのところ」
「兄ちゃん」
「なに?」
「怖かった?」
エイルは靴を脱ぎながら答えた。
「うん」
「私も」
「知ってる」
「なんで?」
「ずっと俺の手掴んでたから」
リナが少し考える。
「兄ちゃんも手、びしょびしょだった」
エイルの手が止まった。
「……お互いさまだな」
リナが少しだけ笑った。
寝床へ入ると、今度はすぐに眠った。
エイルはなかなか眠れなかった。
父さんは生きている。
それは分かった。
でも、脚の怪我がどれくらいなのかは分からない。
外では時々、人が歩く音がした。
見回りだろう。
そのたびに目が覚める。
結局、まともに眠れないまま夜が過ぎた。
---
空が明るくなり始める少し前。
扉が叩かれた。
エイルはすぐに起き上がった。
「誰?」
「俺だ」
ドルクの声だった。
扉を開ける。
外にはドルクとミラ、それから村の男が二人いた。
その後ろに、戸板がある。
上にトーマが寝かされていた。
「父さん」
トーマが薄く目を開ける。
「……おう」
生きている。
分かっていたはずなのに、顔を見た瞬間、また少し安心した。
「そこ空けて」
ミラに言われ、エイルはすぐに寝床の横を片づける。
男たちが戸板を家の中へ運び込んだ。
「せーの」
ゆっくり下ろす。
その瞬間、トーマの顔が歪んだ。
右脚には何重にも布が巻かれている。
赤黒く染まっていた。
エイルは近づきかけて、止まった。
ドルクも泥と血だらけだった。
目の下には濃い疲れが見える。
聞きたいことはあった。
けれど今は違う。
「母さん、水いる?」
「お願い」
「分かった」
桶を持って外へ出た。
---
空が少しずつ明るくなっていた。
村の中央には、まだ火が残っている。
何人かが壊れた柵を見ていた。
東の方には行かず、エイルは井戸へ向かった。
水を汲む。
桶を持ち上げる前に、魔力を集めた。
腕へ流す。
持つ。
重さが少しだけ軽くなる。
昨日までなら、うまくできたことが嬉しくて、もう一度試していたかもしれない。
今日はそのまま歩いた。
家へ戻ると、ドルクたちが帰るところだった。
エイルは道を空ける。
ドルクと目が合った。
「エイル」
「なに?」
ドルクは何か言おうとした。
けれど、口を閉じた。
エイルも聞かなかった。
代わりに、
「ありがとう」
と言った。
ドルクが少しだけ目を細める。
「ああ」
それだけだった。
---
ミラはトーマの脚の横に座っていた。
エイルは桶を置く。
「水」
「ありがとう」
「何かする?」
「今は大丈夫」
「父さん、寝る?」
「たぶんね」
「勝手に寝かすな」
トーマが目を開けた。
エイルが振り向く。
「起きてるじゃん」
「今起きた」
「それ、寝てたってことだろ」
「うるさい」
声は弱い。
それでも、いつもの父親だった。
エイルは少しだけ笑った。
「父さん」
「なんだ」
痛いのか。
歩けるのか。
ちゃんと治るのか。
どうして怪我したのか。
聞きたいことはいくらでもあった。
けれど、トーマの顔を見ていると、今すぐ聞く必要はない気がした。
「水、飲む?」
「ああ」
エイルは器に水を入れて渡した。
トーマは少し飲むと、また横になる。
「もう寝る」
「今度は本当に?」
「うるさい」
目を閉じる。
しばらくすると、呼吸がゆっくりになった。
---
朝になると、村で怪我や病気に詳しい婆さんが呼ばれた。
ミラと二人で、トーマの脚の布を外し始める。
エイルは自分から外へ出た。
頼まれたわけではない。
ただ、今は中にいない方がいいと思った。
家の前に座る。
村を見た。
昨日とは違う。
壊れた柵を直そうとしている人がいる。
水を汲む人がいる。
鶏の声もする。
完全にいつも通りではない。
それでも、朝になれば人は動き始めるらしい。
エイルは膝を抱えた。
しばらくして。
家の中から、
「っ……!」
トーマの押し殺した声が聞こえた。
エイルの手に力が入る。
それでも中には入らなかった。
そのまま、家の前で待った。




