第百四十九話 森へ入る
翌朝、二人は牧場へ向かった。
空は明るくなり始めたばかりだった。
牧場主はすでに起きていて、牛舎の前で待っていた。
「今日は牛を出してない」
「ああ。そのままでいい」
ガレスは森の方を見る。
風は弱い。
雨も降っていない。
「行くぞ」
「はい」
エイルは背負い袋の紐を締め直した。
水と食料。短い縄。布。小さな道具。それに剣。
ガレスも似たような荷物を持っている。
ただ、エイルよりずっと使い込まれていた。
二人は放牧地を横切った。
⸻
牛の死骸の近くまで来ると、ガレスが足を止めた。
「昨日の跡、覚えてるか」
「はい」
エイルは地面を探した。
すぐには見つからない。
少し歩いて、昨日ガレスがしゃがんでいた場所を思い出す。
「あれですか?」
「そうだ」
大きな足跡。
そこから森へ向かっている。
ガレスは先に進んだ。
エイルも後ろにつく。
森の手前でガレスが振り返る。
「ここからは俺の後ろを歩け」
「はい」
「近すぎるなよ」
エイルは一歩下がった。
「これくらい?」
「もう少し」
さらに下がる。
「それでいい」
「結構離れるんですね」
「俺が急に止まった時、お前まで突っ込んでくるだろ」
「ああ」
「前だけ見るな。足元も見ろ」
「はい」
二人は森へ入った。
⸻
外から見ていた時より暗かった。
木々の間から朝の光は入っているが、地面には枯れ葉が厚く積もっている。
ガレスはゆっくり歩いた。
エイルもその後ろを進む。
しばらくすると、ガレスが止まった。
エイルも止まる。
何も言われていない。
少し待つ。
ガレスが振り返った。
「今のはいい」
「何がです?」
「止まった」
「ああ」
「俺が止まったら、まず止まれ」
ガレスは前へ向き直った。
「理由を聞くのはそのあとだ」
「分かりました」
ガレスが指した先を見る。
低い枝の下に毛がついている。
白ではない。
灰色とも茶色ともつかない、太い毛だった。
「森牙の毛ですか?」
「似てる」
ガレスは一本だけ確認し、そのまま残した。
「持っていかないんですか?」
「もう見た」
それだけ言って進む。
⸻
さらに奥へ入る。
地面が少し湿ってきた。
ここでは足跡が見つけやすかった。
ガレスがしゃがむ。
エイルも横から覗いた。
大きな跡が残っている。
「昨日のと同じですね」
「そうだな」
ガレスは足跡の端を指した。
「これは?」
エイルは見る。
「……新しい?」
「何でそう思う」
「縁がまだ崩れてないから」
「他は」
エイルは少し考える。
足跡の中に溜まったものを見る。
「落ち葉があんまり入ってない」
「そうだ」
ガレスが立ち上がる。
「昨日よりは新しい」
「今日?」
「そこまでは分からん」
ガレスは跡の向きを見る。
さらに森の奥へ続いている。
二人はそれを追った。
⸻
少し歩いたところで、エイルが何かを見つけた。
「ガレスさん」
ガレスが止まる。
「何だ」
「あそこ」
エイルは前へ出ずに指を差した。
木の根元。
茶色いものが落ちている。
ガレスが近づいた。
しゃがむ。
「糞だ」
「やっぱり」
「近づくな」
エイルはその場に残った。
ガレスは枝で少し崩した。
「古くない」
「じゃあ近くに?」
「いるかもしれん」
ガレスは周囲を見る。
それから風の向きを確かめる。
エイルも森の奥を見る。
急に、さっきまでと同じ森が少し違って見えた。
何かがいる。
少なくとも、ここを通っている。
ガレスが立ち上がった。
「ここから少し静かにする」
エイルは声を出さずに頷いた。
⸻
二人はさらに進んだ。
歩く速さが落ちる。
ガレスは時々止まり、地面や木を見る。
エイルも余計なことは話さなかった。
しばらくして、前方から小さな音がした。
枝が折れたような音。
ガレスが止まる。
エイルも止まった。
ガレスの右手がゆっくり上がる。
そのまま動くな。
そういう意味だと分かった。
エイルは周囲を見る。
何も見えない。
また音がする。
今度は少し右。
ガレスが腰の剣へ手を置いた。
エイルも剣に手を伸ばしかける。
だが、昨日言われたことを思い出した。
勝手に動くな。
手を下ろす。
ガレスが少しだけ振り返った。
その視線が一瞬、エイルの手元へ向いた。
何も言わない。
再び前を見る。
森が静かになった。
しばらく待つ。
長く感じた。
やがてガレスがゆっくり動き出す。
ただし、音のした方へは行かなかった。
少し左へ回る。
エイルも後ろをついていった。
⸻
地面が緩く下っていた。
その先に、小さな沢があった。
ガレスは沢へ降りず、上から見る。
エイルも隣まで行かず、少し後ろから覗いた。
泥の上に跡がある。
大きな足跡。
今までで一番はっきりしていた。
沢へ降りて、水を飲んだらしい。
その横に、もう一つ跡がある。
エイルは目を細めた。
「……小さくないですか?」
ガレスがしゃがんだ。
一つは大きい。
もう一つは、それよりかなり小さい。
ガレスは両方を見比べた。
さらに沢の向こう側を見る。
「二匹?」
エイルが小声で聞く。
ガレスは首を振った。
「分からん」
そのまま少し上流を見る。
小さい足跡がもう一つあった。
エイルにも見えた。
「子供?」
ガレスは答えなかった。
沢の泥。
大きな跡。
小さな跡。
何度か見比べる。
「戻るぞ」
「え?」
「戻る」
「まだ森牙を見てないですよね」
「ああ」
「でも、かなり近いんじゃ――」
「だから戻る」
ガレスはもう立ち上がっていた。
エイルもそれ以上言わなかった。
二人は来た道を戻り始めた。
⸻
森を出るまで、ガレスはほとんど話さなかった。
放牧地まで戻ったところで、ようやくエイルが聞いた。
「子供がいるからですか?」
「その可能性がある」
「危ない?」
「親ならな」
「森牙って子供を守るんですか?」
「近づいた奴を襲う程度には」
ガレスは歩きながら答えた。
「それに、話が変わった」
「一匹じゃないから?」
「ああ」
昨日は、大きな森牙が一匹いるかもしれないという話だった。
今は違う。
少なくとも大きな個体と、小さな個体らしい跡がある。
「じゃあ、もう一人呼ぶ?」
「その前に牧場主と話す」
「また条件から?」
「そうだ」
エイルは少し笑った。
「魔物を見つける前に、話してばっかりですね」
ガレスが横を見る。
「嫌になったか?」
「いや」
エイルは首を振った。
「思ってたのと違うだけです」
「どんなのを想像してた」
「足跡を見つけて、そのまま追いかけて、見つけたら戦う感じです」
「やりたければ一人でやれ」
「やりませんよ」
今度はガレスが少し笑った。
⸻
牧場主は、二人が思ったより早く戻ってきたのを見て驚いた。
「もう見つけたのか?」
「姿は見てない」
「じゃあ何で戻ってきた」
ガレスは牛舎の前で立ち止まった。
「大きい跡とは別に、小さい跡がある」
「小さい?」
「子連れの可能性がある」
牧場主の表情が変わる。
「二匹いるのか?」
「少なくとも、そう考えて動いた方がいい」
「……倒せるのか?」
ガレスは少し考えた。
「俺一人では受けん」
牧場主がエイルを見る。
「二人いるだろ」
ガレスもエイルを見た。
「あいつは調査についてきただけだ」
エイルは黙っていた。
「じゃあ、どうする?」
「もう一人探す」
ガレスは答えた。
「見つからなければ?」
「今回は受けない」
牧場主は森の方を見た。
その向こうでは、牛たちが牛舎の近くに集められていた。




