第百四十二話 待つ仕事
日が傾き始める前に、ガレスはもう一度農場の周囲を歩いた。
エイルも後ろについていく。
鶏小屋から畑の端へ。そこから柵沿いに進み、林に近い場所まで行く。
ガレスはときどき立ち止まったが、何も言わない。エイルも足元を見ながら歩いた。
昨日までなら、跡らしいものを見つけるたびに聞いていたかもしれない。
だが今日は、人の足跡も犬の足跡も、農場の周りにはいくらでもある。
少し進んだところで、ガレスがしゃがんだ。
「ここ」
エイルも横から覗く。
土の上に薄い跡が残っている。
「朝見たのと同じですか?」
「近い」
ガレスはその先を見る。
跡は林の方へ向かっていた。
「追います?」
「追わん」
「まだ明るいですよ」
「今日は農場を見る」
ガレスは立ち上がった。
「林に入れば、こっちが空く」
エイルは鶏小屋の方を振り返った。
「なるほど」
二人は農場へ戻った。
⸻
夕食は母屋の外で食べた。
農場の男が出してくれたのは、固いパンと豆を煮たものだった。
エイルは自分の分を払った。
食べ終える頃には、辺りはかなり暗くなっていた。
「どこで待つんです?」
エイルが聞く。
ガレスは納屋を指した。
「中」
「鶏小屋の近くじゃないんですね」
「近すぎる」
納屋の戸を少しだけ開けておけば、鶏小屋の周囲が見える。
風もこちらから鶏小屋の方へは流れていない。
ガレスは位置を確かめると、農場の男に言った。
「普段どおりにしてくれ」
「外に出ない方がいいか?」
「音がしても、まず俺を呼べ。勝手に追うな」
「分かった」
男が母屋へ戻る。
エイルとガレスは納屋へ入った。
⸻
暗い。
ガレスは明かりをつけなかった。
エイルも使わない。
しばらくすると目が慣れて、戸の隙間から鶏小屋の形くらいは見えるようになった。
最初のうちは、エイルも集中していた。
外から音がするたびに目を向ける。
風。
虫。
鶏が動く音。
どこか遠くで犬が鳴いた。
だが、何も来ない。
時間だけが過ぎていく。
エイルは壁に背を預けた。
「眠いか」
小さな声でガレスが聞いた。
「ちょっと」
「寝てもいいぞ」
「え?」
「何かあったら起こす」
「でも見に来たのに」
「明日歩けなくなる方が邪魔だ」
エイルは少し迷った。
「ガレスさんは寝ないんですか?」
「あとで寝る」
「交代ですか?」
「今日は俺が仕事だ」
言われてみればそうだった。
エイルは見学に来ただけで、見張りとして雇われているわけではない。
「じゃあ少しだけ」
荷物を枕代わりにして横になる。
眠れるとは思わなかった。
だが目を閉じると、思ったより早く意識が落ちた。
⸻
肩を軽く叩かれた。
エイルは目を開けた。
ガレスが指を口元へ当てる。
外はまだ暗い。
エイルは起き上がった。
何かが聞こえる。
かすかな音。
鶏小屋の方だ。
ガレスがゆっくり戸へ近づく。
エイルも後ろへ行こうとすると、手で止められた。
そこで待つ。
また音がした。
木を引っかくような音。
次に、鶏が騒ぎ始めた。
ガレスが納屋を出た。
エイルは残る。
戸の隙間から外を見る。
暗闇の中で、何かが動いた。
鶏小屋の横。
低い。
犬よりは大きく見える。
ガレスはすぐには近づかなかった。
何かが浮いた板の下へ頭を入れようとしている。
その時だった。
母屋の戸が開いた。
「いたか!」
農場の男だった。
「出るな!」
ガレスが声を上げる。
だが、その声で何かが振り向いた。
次の瞬間、走り出した。
農場の男とは逆。
納屋の方だった。
エイルはすぐに身体強化を形成し、発動した。
剣には手を伸ばさない。
ガレスから言われたことを思い出したからだ。
勝手なことはするな。
危ないと言われたら離れろ。
エイルは納屋の奥へ下がった。
何かが戸の前を横切る。
月明かりの下で、一瞬だけ姿が見えた。
長い鼻。
低い胴。
硬そうな毛。
そのまま畑へ走り抜けていった。
ガレスも追わない。
しばらくして、辺りが静かになった。
「出ていいぞ」
声がした。
エイルは納屋から出た。
農場の男も母屋の前に立っている。
「今のは?」
男が聞く。
ガレスは畑の方を見ていた。
「猪だ」
「猪?」
「たぶんな」
「魔物じゃないのか?」
「少なくとも今のは違う」
農場の男は拍子抜けしたような顔をした。
「じゃあ、猪が鶏を食ってたのか」
「それはまだ分からん」
またその答えだった。
ガレスは鶏小屋へ向かった。
⸻
板の下には新しい跡が残っていた。
さっきまでのものよりはっきりしている。
ガレスが指さす。
「これが今の奴だ」
エイルもしゃがむ。
「朝の跡と違いますね」
「違う」
朝に見た犬に似た跡。
今残った猪の跡。
二つある。
農場の男も気づいたらしい。
「じゃあ、もう一匹いるのか?」
「いるかもしれん」
「魔物か?」
「それもまだ分からん」
ガレスは立ち上がった。
「ただ、今夜はもう来ない可能性が高い」
「どうする?」
「朝になったら、もう一度見る」
「今から追わないのか?」
「暗い林へ?」
「……いや」
農場の男もさすがに黙った。
ガレスは納屋へ戻る。
エイルもついていった。
「さっき」
ガレスが言った。
「はい」
「身体強化を使ったな」
エイルは少し驚いた。
「分かったんですか?」
「動きが変わった」
ガレスはそれだけ答えた。
「何か来たら避けられるようにと思って」
「剣は抜かなかった」
「待てって言われてましたから」
「それでいい」
ガレスは納屋の壁に座った。
「今度は俺が少し寝る」
「じゃあ俺が見ます」
「何か見えても出るな」
「はい」
「起こせ」
「分かりました」
ガレスは目を閉じた。
エイルは戸の隙間から鶏小屋を見る。
何も起きない。
風が吹く。
鶏が少し鳴く。
また静かになる。
それを繰り返した。
しばらくしてエイルは思った。
魔物を狩る仕事を見に来たはずなのに、今日は歩いて、聞いて、跡を見て、暗い納屋で待っているだけだった。
それでも眠るガレスを起こすようなものは、朝まで現れなかった。




