第百十五話 北の牧場
翌朝、エイルは日の出から少し経った頃に宿を出た。
水と昼までの食事。
雨具。
縄。
薬。
剣。
昨日聞いた話では、牧場までは歩いて半日ほどだった。
もし何もなければ、そのまま町へ戻る。
魔物がいたとしても、一人で戦うつもりはない。
まずは話を聞く。
それだけ決めて、北へ向かった。
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道は途中までは広かった。
荷車とも何度かすれ違ったが、村へ近づくにつれて細くなっていく。
昼前になって、ようやく家が見えてきた。
畑があり、その先に牧草地が広がっている。
エイルは道端にいた男へ声をかけた。
「すみません。この辺で羊が襲われた牧場ってありますか?」
「ああ。それなら向こうだ」
男が指した。
「森の近くですか?」
「そうだ」
「ありがとうございます」
教えられた道を進む。
しばらくすると柵が見えてきた。
その向こうに羊がいる。
柵の近くで作業していた男がエイルに気づいた。
「何だ?」
「町で、羊が一頭やられたって聞いて来ました」
男が手を止める。
「何しに?」
エイルは一瞬詰まった。
考えてみれば、そこをちゃんと決めていなかった。
「魔物なら、そういう仕事を探してます」
「お前が?」
「はい」
男はエイルを上から下まで見た。
「若いな」
「十五です」
「十五?」
「学校を卒業したばかりです」
男の顔がさらに怪しくなる。
「魔物を狩ったことは?」
「一人ではないです」
「じゃあ駄目だ」
早かった。
「話だけでも聞けませんか?」
「話?」
「何が出たのか知りたいです」
男は少し迷ってから、森の方を指した。
「三日前の朝だ。向こうで一頭死んでた」
「夜に?」
「たぶんな」
「見た人は?」
「いない」
「足跡があったって聞きました」
「あった」
「残ってます?」
「もうほとんど消えてるだろ」
「見てもいいですか?」
「好きにしろ。ただし森には入るなよ」
「はい」
エイルは柵に沿って歩いた。
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羊が死んでいたという場所には、まだ血の跡が少し残っていた。
地面を見る。
泥は乾き始めている。
いくつか窪みがあるが、形はかなり崩れていた。
エイルはしゃがんだ。
四本の指らしき跡。
爪も見える。
ただ、それだけで種類までは分からない。
少し離れた場所にも跡がある。
こちらはさらに薄い。
エイルは周囲を見る。
森まではそれほど遠くない。
学校の実習なら、ここから先は先生と相談していた。
今は一人だ。
エイルは立ち上がった。
牧場の男のところへ戻る。
「足跡、かなり消えてました」
「だろうな」
「羊は、どんな感じでやられてたんです?」
「首を噛まれてた」
「食べられてました?」
「腹のあたりを少し」
「一頭だけ?」
「ああ」
「それから被害は?」
「ない」
エイルは考える。
「隣村の猟師に声をかけたって聞いたんですけど」
「ああ」
「来ました?」
「昨日来た」
エイルは顔を上げた。
「昨日?」
「見て帰ったよ」
「何て言ってました?」
「灰犬かもしれんって」
「退治は?」
「してない」
「なんでです?」
「いくら払うかで折り合わなかった」
エイルは少し意外だった。
「いくらだったんです?」
男が金額を言う。
エイルには、それが高いのか安いのか分からなかった。
「一頭かもしれんのに、そんなに払えん」
男は言った。
「それに、あれから何も出てない」
「じゃあ、もう頼まないんですか?」
「また出たら考える」
「でも、また羊がやられるかもしれないですよね」
「かもしれんな」
「だったら――」
そこでエイルは口を止めた。
男が牧草地を見る。
「羊一頭の値段は分かるか?」
「いえ」
男が教えた。
次に、猟師が求めた金額をもう一度言う。
エイルは二つを比べた。
「あ」
「そういうことだ」
猟師を雇う金額の方が高い。
「でも二頭やられたら?」
「損だな」
「三頭ならもっと」
「当たり前だ」
「じゃあ今頼んだ方が――」
「灰犬がまだいるならな」
エイルは黙った。
もうどこかへ移動しているかもしれない。
そもそも本当に灰犬だったのかも確定していない。
猟師に金を払っても、見つからない可能性がある。
「難しいですね」
「こっちだって金が余ってるわけじゃない」
男はそう言って、作業へ戻った。
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エイルはもう一度、羊が死んでいた場所を見た。
森には入らなかった。
足跡だけでは、これ以上分からない。
しばらくして牧場を離れた。
仕事にはならなかった。
往復すれば一日が終わる。
今日の収入はゼロ。
持ってきた昼食を道端で食べながら、エイルは昨日聞いた話を思い返した。
町で聞いたときには、
羊が襲われた。
足跡があった。
猟師を呼んだらしい。
そこまでだった。
実際に来てみると、猟師はすでに来ていた。
魔物らしいものも確認していた。
それでも仕事にはならなかった。
「来れば仕事があるってわけじゃないんだな」
パンを食べ終え、水を飲む。
帰ろうとしたところで、後ろから荷車の音が聞こえた。
道の端へ寄る。
荷車を引いていた男が、エイルの剣を見た。
「狩りか?」
「違います。仕事を探して牧場まで行ってました」
「仕事?」
「魔物が出たって聞いたので」
「ああ、あそこの羊か」
「知ってるんですか?」
「この辺じゃ話になってる」
男は荷車を止めた。
「魔物の仕事なら、西の方があるんじゃないか?」
「西?」
「ここから二つ先の村だ。畑を荒らされてるって聞いたぞ」
エイルは少し身を乗り出した。
「何が出てるんです?」
「知らん」
「いつから?」
「さあ」
「誰から聞いたんです?」
「昨日、村から来た奴が言ってた」
昨日。
今度は比較的新しい。
「その村、ここからどのくらいです?」
「歩けば半日くらいだな」
エイルは空を見る。
今から向かえば、着く頃にはかなり遅くなる。
泊まる場所があるかも分からない。
「今日はやめときます」
「そうか」
「でも、村の名前教えてください」
男から名前を聞き、覚える。
「ありがとうございます」
荷車が走り去っていった。
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町へ戻った頃には、もう夕方だった。
エイルは宿へ戻る前に市場へ寄った。
何軒か、明日の仕事がないか聞いて回る。
一軒で朝から荷運びがあると言われた。
一日働けば、確実に金が入る。
一方、西の村へ行けば魔物の仕事があるかもしれない。
ただし、ないかもしれない。
エイルは店の前で少し迷った。
「明日、来るのか?」
主人に聞かれる。
「……行きます」
「朝からだぞ」
「はい」
まずは金を稼ぐことにした。
西の村へ行くのは、その次でもいい。
宿へ戻り、夕食を食べる。
部屋へ上がってから、エイルは荷物の中から紙を出した。
北の牧場。
羊一頭。
三日前。
灰犬の可能性。
猟師が確認済み。
報酬が合わず、依頼成立せず。
そこまで書いて、次の行に今日聞いた村の名前を書く。
その横には、
**畑の被害。詳細不明。昨日聞いた話。**
とだけ記した。
紙を畳んで荷物へ戻す。
明日は荷運び。
その次の日に、まだ話が残っているようなら西へ行ってみよう。
今は、それで十分だった。




