無自覚な本能
※少々グロい描写あり
俺に向かって逃さないと叫んだ男は、怒りの形相で迫ってくる。
その男は、かつて娼館に来たばかりの頃にちゃんと働けるかのテストをされた日、俺が縛り上げたクソ客だ。反省したのかと思っていたが、成敗された屈辱は忘れられなかったらしい。
当時はチビガリだったのが、ストレスのせいか今ではチビデブになっている。
「やっと見つけたぞクソガキ…!いつか痛い目に遭わせてやるつもりで俺はお前を探していた!!突然姿を消したかと思えば…そんな上等な服着て悠々と過ごしやがって…!!」
縄で吊るされ、切られて落とされるかもしれない恐怖をしっかり与えたにも関わらず、この元チビガリはその恐怖すら忘れてしまったようだ。
その挙句、反省を行動に示すこともせず、完全な逆恨みで俺に復讐する機会を伺い続けたとは、馬鹿馬鹿し過ぎていっそ笑えてくる。
「はぁ〜〜〜…ちゃんと反省したものだと信じていたのに残念なことだ。三つ子の魂百までってところか。結局反省もできないクズは死ななきゃ治らないってことが、お前のおかげで理解できたよ」
「うるせぇ!!!あの日から噂が広まって俺はどこの店に行っても閉め出されて…ついには働くのもままならなくなったんだ!!」
完全な逆恨みだけならまだしも、これは最早八つ当たりだ。
このチビガリもといチビデブは、俺がいなくてもいずれ出禁になったり、働いててもクビになっていたのは目に見えている。
「まあこんなの誰も雇い続けたくないだろうしな。むしろ今まで働かせてくれたことに感謝しろよ」
「うるせぇっつってんだよぉ!!!その上等な服に傷でもつけてやるだけにしてやろうと思っていたが…こうなったらてめぇの服をズタズタにして素っ裸にして俺の家の前に吊るしてやるからな!!!」
「別に出来るならやってみろよ。でも吊るすのだけはやめておいた方が良いぜ?お偉い様が知ったらてめぇが処罰されちまうからな」
「ふん!!!お前みたいなガキのためにお偉い様が動くわけねぇよ!!覚悟しろ!!!」
チビデブは勢いのままナイフを両手で持ち、猪のように突進して来た。
「っ!!!グレイ!!避けて!!!」
「心配すんな、サラ。こんなの遅いだけだ」
たかが知れてるスピードの突進を避けながら、俺はチビデブの両手首を掴み、ナイフを持つ手に向かって膝を打ちつけた。
「い"ッ…!!!」
チビガリが足を動かせないよう、両足を踏みながら手首を折れるギリギリまで加減して掴み上げた。その状態で、いわゆる"人間の反対折り"になるよう、身体を限界まで逸らさせた。
「いでででででっ…!!!!!死ぬっ…!!やめでぐれぇええ…!!!!」
「これに懲りたらもう二度と俺の前に現れるな。お前自身のためにも」
「ヒギィッ…ぅぐっ…す…み…ませ……っ」
「サラ、そのナイフを拾って街の役人に渡しておいてくれ」
「っ……わ、分かった…」
ナイフをサラに回収させ、俺はチビデブを人にぶつからない遠くの方に放り投げる。
この騒動によって、あの男はもうどこにもいられなくなる。大人しく家に篭って俺に喧嘩を売らなければ、居場所を一つまた一つと失わずに済んだものを。
俺はさっさとすぐにグレイス家に帰るため、役人の元にいるサラと合流しようとした。
「サラ、こっちの用事は無事終わった。すぐに帰るぞ」
「うん…ほんと何だったのあの猪野郎は…」
「悪いことを注意された逆恨みらしい」
「うっわ、ほんとにただの馬鹿じゃんあいつ」
「……まだ…だ…!こうなったら……っ…こうなったらそこの女をズタズタにしてやる!!!!」
「ッ!?えっ…何!?」
まだ動く力が残っていたのか、チビデブが再び突進して来た。しかも、今度はサラに向かって来ている。
(ッ…!!まさかこいつ…サラを…!?)
傷物にでもするつもりか。
そう感じ取った途端、俺はサラの腕を引き、絶対サラが攻撃を受けぬよう、覆い被さる形で抱き止めた。
「ッ!!はははっ…自ら身を差し出すとは立派だな!!これで本望だァッ!!!!!」
チビデブがそう叫んだと同時に、光る鋭利なものが目に入った。
ナイフをまだ持っていたのかと考える隙もなく、それは俺の右目を掠めた。
自分に何が起きたのか理解出来ぬまま、サラの叫び声を聞きながら、赤く染まっていく視界を閉ざした。
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頭がグラグラする。
息が上手くできない。
身体がやけに熱いのに、寒気を感じる。
右目が、酷く痛い。
俺の身に、何かが起こっている。
サラを庇ってから、ずっと身体がおかしい。
ナイフが右目を掠めた時、視界が真っ赤に染まっていた。それだけは確かなことだ。
ああ、俺は右目をやられたのか。
あのチビデブはトロそうだから反撃してもたかが知れていると油断していたのが、運の尽きだったのだろう。
サラは無事だろうか。
俺が動けない間に、酷い目には遭っていないだろうか。
目を閉じる前に悲鳴が聞こえたのは、俺が右目をやられたからであって欲しい。別の理由だったら、俺は許せない。
俺たちを襲ったあの男を…そいつから守れなかった自分自身を。
(いや、今更この身体で何が出来る…何もできないのなら…このまま異変が身体を蝕んでしまえば良い…そうなれば、あって欲しくない現実を見て、復讐したくても出来ない苦しみを感じなくて済むかもしれない…)
サラのことが無くても、現実に戻っても親父のことを時々思い出すのも嫌だ。ならば、身体に起こる異変を、そのまま受け入れよう。
《グレイ…お前はまだ死ぬべきではない》
誰だこの声は。
頭に響いてうるさいから喋らないでくれ。
《お前が今ここで死ねば、不幸な結末を迎える者が多く現れることになる》
そんなもん知るか。死んだら他人が不幸になるから生きろとか、志とやらが高い人間でなければ聞く奴などいる訳がない。
第一、俺がいなくても世界はちゃんと回る。実際ジルコニア家も、俺がいてもいなくても特に変わった様子を聞くことなんてなかった。
《その不幸な結末を迎える者の中には、お前が大事に想う者もいる…喪っても良いのであれば、このまま死ぬが良い》
俺に偉そうにそう語るのは、恐らく神様とやらだろう。生きろと言ったかと思えば、今度は死ぬならさっさと死ねなどと言い出す。
神というのは身勝手なものだと感じながら、今度こそ自身を蝕む異変を受け入れようとした。
『グレイ…!お願いだから死なないでっ…!!』
「っ……!!」
俺を呼ぶ声が聞こえた途端、ぼんやりし始めていた意識が急激にはっきりと形を成した。
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「ッ!!ここ…は……?」
「グレイ!!良かった…っ…もう死んじゃうかと思った…」
目の前に、サラがいる。
ぼんやりしていた俺の意識を覚醒させたその声は、今にも泣き出しそうだった。
あの男に何もされていないか確認するため、サラの方を見ようとした。すると、俺の右目に痛みと違和感を感じた。右目の辺りを包帯で巻かれており、強制的に何も見れないようにされている。
「その右目…傷跡は消えないままで、包帯が取れても視力が戻ることはもう無いって…お医者様が言ってた……」
「……ああ…あれだけ切られたらそうなるだろうな…」
「そうなるだろうなって…!右目が失明したって言うのになんでそんなに冷静なの!?」
「サラ…あの男は…?」
右目のことなど、今はどうでも良い。それよりも、サラがあの男に何も危害を加えられていないかが気がかりだ。
「あいつはアンタが目を切られた後にすぐ街の役人達に捕まったよ。なんかアンタのこと見るなり顔を真っ青にして色々聞かれて、分からないからとりあえず孤児だって伝えたんだけど、それで大丈夫だった?」
「全然問題ない。にしてもあいつちゃんと捕まったんだな…まあ、流石に店内で暴れるだけじゃ済まないことしたから当然か」
あの男が捕まってほっとしてはいるが、街の役人が俺の正体に気づいていたら間違いなく今いる場所はジルコニア家だっただろう。サラが適当に答えてくれたおかげで、俺は命拾いをした。
(いきなり戻ってきた息子が右目を怪我した上に失明したなんて知ったら、『こんな命知らずの馬鹿は知らん』とかクソ親父は言ったんだろうな…)
母上に関しては、恐ろしすぎて想像もしたくない。誤魔化してくれたサラには足を向けて眠れないと思い、サラを見上げる。
「っ……お前…泣いてんのか…?」
「ッ別に…泣いてないっ…!」
「もしかして心配してくれたとか…はないだろうな。目の前で人が目を切られたの見たら誰だって…」
「心配してるに決まってんじゃん!!自分を庇ったせいでグレイが死んじゃったかと思ったし…それで助かったと思ったらっ…もう目が見えないって言われて……っ」
辛うじて涙目だったのが、サラの目から涙が次から次へと溢れ始める。
サラが俺を本気で心配して、泣いている。クソ生意気で喧嘩ばっかり売ってくるガキだと思っていたサラの真の素直な本音を聞いた途端、俺の中で何かがじわじわと湧き上がったのを感じた。
(……?なんだ…今のは…?サラが俺を本気で心配していただけだってのに…)
謎の熱は、中々引いてくれない。
まだ熱があるのかと思ったが、身体は怠くない。むしろ、身体自体は回復している。現在進行形で。
「グレイくん、大丈夫だった?サラちゃんすごい心配して………って顔真っ赤だよ!?まだ熱でもあるの!?」
「いや…大丈夫だ……」
入ってきたレイラは俺を見るなり、顔が真っ赤などとありもしないことを言う。
サラの心配が嬉しいだけならまだしも、顔が赤くなるのは自分でも訳がわからない。こんな現象は今まで経験したことがない。
「なら良いけど…今日は二人に話さなきゃいけないことがあって…」
「え、何かあったのか?」
レイラの顔が、曇っていく。その背後から、ジョゼフも部屋に入ってきた。
「グレイ君たちが外に行ってた日に私とジョゼフいなかったのは覚えてる?」
「ああ、用事があったからだろ………ってまさか……」
思い当たることが、いくつかある。サラが来てから、ジョゼフとレイラはよくグレイス家から外出してどこかに向かっていることが多かった。
どちらに聞いても、奥様の親戚家から手伝いを頼まれるからだと言っていた。しかし、その手伝いに別の理由があるとしたら、この二人がこの先どうなるか想像がついてしまう。
そして、ずっと理解不能だった、旦那様から俺にサラの教育を任せた理由。今考えている想像が当たれば、そこも合点が行くことになる。
「二ヶ月後、僕とレイラさんは奥様の親戚にあたるモルガン家で働くことになる」
「今大変な状況なのは分かってるけど、その頃にはグレイ君達二人でグレイス家を支えられるようにお願いしたいの」
もうすぐ、レイラとジョゼフとの別れが迫っている。
その事実を知った途端、俺は何も言えなかった。
ここにいる皆、将来的にグレイス家から独立することを目標としているのは最初から聞いていたはずだった。
めでたいことのはずなのに、素直に喜ぶことができなかった。




