見て見ぬふりをされてきた子供
ローズの元から逃げるように走って辿り着いた森の中で、俺は破った服の布を湖の水で濡らし、ローズの父親から一発喰らった頬を冷やしていた。
俺がいなくなった後のローズのことは、考えたくない。
あの父親には、クズ婚約者のやらかしぐらいは認知して欲しい。自由恋愛は許さずとも、今度連れてくる結婚相手はせめてまともな男であって欲しい。
とにかく、ローズが苦しみに耐えきれず、一番最悪な結末を迎えないことだけを祈りたい。
ローズの今後を案じているうちに、段々とあの父親への怒りが今頃のように湧き上がってきた。
「………あんの野郎ッ!!ちょっと自分にも原因があるとか考えろよ!!!クソッ…!!クソッ!!」
ローズの事情や、薄汚れた物置部屋にまで逃げた理由も理解せず、逆上されて殴られたことに無性に納得がいかない。苛立ちが止まらず、拳を地面に何度も叩きつけることでしか、憤りを治めるしかできない。
どこにいても、俺の中では虚しさが宿る。
何を言っても理解してもらえない。
正しい行いすらも受け入れてもらえない。
苛立って当てつけのように反抗的な行為や、倫理観の外れた行為をしても、苛立ちや虚しさは一時的に治るだけで、根本は何も変わらない。
心の澱みは、いつでも溜まる一方でしかなかった。
(ああ…この白い髪がまた濁ってる…前よりも酷いな……もう…どうでも良いや)
「おや、こんな所でどうしたんだい?」
湖に映る髪をぼんやり眺めていると、横から中年かつ立派な装いの男が話しかけてきた。
今の状況では逃げるべきだろうが、その姿を見た瞬間に俺は、いつもの癖で見定めを始めていた。
立派ではあるが、どちらかというと清廉な印象を与える服装は、公爵とまではいかずとも、身分はそれなりに高い貴族だろう。
灰色の髪に、緑がかった青色の瞳は優しげで、顔立ちも中年にしては整っている方だ。そして、雰囲気からして絶対怖そうではない。
見定めた結果からそう判断した俺は、苛立ちに任せてその男に威嚇する。
「見りゃ分かんだろ!!クソ野郎に殴られたから冷やしてんだよ!!そもそもてめぇ誰だよ!!!」
「ああ、いきなり声かけてごめんね。僕はレオン・グレイス。一応、ここの領地の領主なんだ」
「っ………」
威嚇した相手の名前を聞いた時、俺は一瞬逃げようかと思った。
"レオン・グレイス"
この男は、俺が今いる湖を含め、緑豊かで街並みもゆったりとしていて、治安も非常に良く過ごしやすい領地を治めているグレイス侯爵家の現当主だ。
要するに、身分もそれなりかつ陛下からもかなり評価されている存在で、俺の親父と接点がある可能性が非常に高い。
なにより、俺は評判を聞くたびにこの男を正直苦手に思ってきた。
様々な事情を抱える孤児や、路頭に迷っている人間を見つけたら、次々に自身の家の使用人や、領地の農民として雇うなど、社交界では心優しい紳士などと呼ばれている。だが、俺からすればとんでもないお人好しで、それも偽善ではなく完全な善意だからこそ、余計に理解不能と感じるばかりだった。
男の正体を知ればより一層警戒心を解くことなど出来ないが、俺はもう何もかもがめんどくさくて、市民のフリを忘れて貴族相手に無愛想な態度を取り続ける。
「……それで、俺に何の用なんだよ」
「偶然ここを散歩してたら君がいて、どうして顔を冷やすのにこんな森の中にわざわざ来たのかと思って声をかけたんだよ。ここは余程のことがなければ誰も来ない所なんだよ。例えば…しばらく一人でいたい子とかがね」
「っ……別にしばらく一人でいたいって思って来たわけじゃねぇよ…!俺のことをろくに理解もしないクソ親父に自分のせいだって思わせるために家出してここまで過ごしてきたんだ…!!ここに来たのはただの偶然なんだよ!!」
元々は、あのクソ親父に失望し、俺の全てを縛りつける貴族社会から逃れたくて、一人で生きようと決めていた。
それなのに、レオン・グレイスの言い方は、まるで俺が苦しみに耐えられなくてしばらく一人でいたいと泣きたくて来たと思われているようで、腹立たしくて余計に苛立ちが増していた。
「つーかいつまでいんだよ!!早くどっか行けよ!!!もう俺は一人で生きるって決めてんだ!!あんな腐った貴族の連中になんか染まりたくないし、何より…俺が正しいことをしても何も評価しなかったくせに兄上が死んだら予備品みたいに突然俺を跡継ぎ扱いしてきやがった親父の元になんか今更戻りたくねぇんだよ!!だから…俺のことなんかも放っておけよ!!!」
この男はなぜ俺のことを放っておかず、ずっと側にいるんだろう。
俺はそこらの貴族や小金持ちの野郎みたく、誰かに一発殴られただけでギャン泣きしながら訴えると喚かず、冷静に対処できる。今は宿がなくても、また当てを探すことだってできる。
復讐を糧にすることに限界が来ていようが、上手くやっていけば一人で生きられる。
俺を、無力なガキのように見ないで欲しい。
そんな思いを誰かにぶつけたくてたまらず、レオンに怒鳴りながら色々喋り過ぎてしまった。
貴族の息子であることや、兄を亡くしたことまで喋るなど、身元を明かすも同然だ。一番やってはいけないことをやらかしたと後悔しながら、言い過ぎたことも懸念して男を見てみる。
だが、男は不快そうにするどころか、むしろ優しげな顔をしていた。
「……そっか。君はずっと…自分を理解して欲しかったんだね」
「っ……!?は……?」
俺は驚いた。
レオンは俺の怒りをものともせず、俺の頭を優しく撫でていた。威嚇も通用しないし、俺に対して年相応の子供のように接してくるため、俺は戸惑いしか生まれない。
それに、俺が誰かに理解して欲しかったとは一体どういうことだ。俺は理解者なんかいらないのに。
「……理解して欲しいってなんだよ…俺はそんなこと……」
「君は正しい行いをした時、まず誰に理解して欲しかったのかな?それと…お兄さんが亡くなってすぐに気持ちを切り替えられないのに、跡継ぎの話をしてほしくないって訴えた時も」
「誰に………」
俺がした正しい行いと呼べるのは、占術師の予言のことで陛下に意見を述べた時だ。
あの時は、母上と兄上だけでなく、最高権力を持つ絶対的存在である陛下が褒めてくださった。それはとても光栄なはずだったのに、親父は余計なことをするなと言うだけで、何も褒めてはくれなかった。
それ以外では、身分は低いが優秀な生徒を冷遇する教師の風上にも置けない人間や、気弱な従者をいじめるクズに、悪戯の名の下で罰を与えた時だろう。あとは、令嬢からセクハラクソ野郎を追い払ったことぐらいだ。
しかし、それらをきっかけに野蛮な悪戯者扱いをされるようになった事実しか、親父は見てくれなかった。
兄上が亡くなった時も同じだった。
俺は兄の手紙を見て欲しかったのに、親父はそれを見もせずに跡継ぎの話を持ち出してきた。慕っていた兄さんが亡くなって辛い気持ちを慮ることもなく。
何より、親父にとっての俺は、兄上の代わりでしかないと思い知らされたことが、ただ悲しかった。
「俺は……自分のしたことの意味や…自分の気持ちを…………親父に分かって欲しかった」
「……うん。誰よりも分かって欲しかったよね」
「っ………本当は…兄上だけじゃなくて……っ…俺のことも…ちゃんと見て欲しかったっ……」
いつの間にか、本音と共に涙を溢していた。
本当は、長男の兄ばかりに期待をかけて構う親父に、少しでも目を向けて欲しかった。悪戯ばかり繰り返してきたのは、親父の気を引くためだった。
そんな環境でも慕ってきた兄を亡くして辛い気持ちも、すぐに跡継ぎの意識へと切り替えられない心を、理解して欲しかった。
最初に悪戯もせずに正しい行いをしたのは、友人になる前のウィルが、なよなよしてて女みたいだと悪ガキに虐められていた時のことだ。髪を引っ張られていた所を見て、ムカついて悪ガキ共を引き剥がし、みっともない真似をこれ以上したら直々に罰を与えてやると脅して追い払った。
兄上と母上は、褒めてくれた。だが、親父は片手間で話を聞いただけで何も言ってはくれなかった。
ちゃんと正しい行いをしたのに、それでも見てくれないのであれば、いっそ悩ませて意識を向けさせたいと、考えた瞬間だった。
それは、かつて幼い頃に抱いた父への尊敬があったから。
国の秩序と規律を守るために行動する父が、俺にとって一番最初に正しい人間だと認識したから、そんな人に俺は一度だけでも良いから、頑張ったなと褒められたかった。
「…ずっと寂しかったね。お父さんに一度でいいから褒められたかったんだね。それでもお兄さんを恨まないで家族として最期まで慕って…君はちゃんと良い子だ。だから、今は思い切り泣いて良いんだよ」
「ッ………ひぐっ…!ぅっ…うぅっ…!俺はそんなガキみたいに…っ…泣かねぇよっ…!ぐすっ…!」
ずっと表に出さないようにしてきた"子供"の俺が、やっと表に出てこられた気がする。初めて出会った上に、苦手意識があった男が相手でも、初めて自身の葛藤に寄り添ってもらえた安心感で、俺は涙が枯れるまでずっと泣き続けた。
子供みたいにわんわん泣くのは、どうしても気恥ずかしくて出来なかった。だが、俺なりに今まで溜まっていた分だけの涙は流せた気はしている。
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「どう?すっきりした?」
「っ………ああ、お陰様でな」
一頻り泣き終えると、レオンは優しい笑顔でハンカチを差し出してきた。俺は頭を下げて受け取り、拭いきれてなかった涙を拭く。
「ところで、君はこれからどうしていくの?」
「っ……多分、お前んとこの領地は治安が良過ぎて今までのやり方じゃ難しい。だから…また宿泊と引き換えにそういうことやるのを受け入れる人間がいそうな街に行くつもりだ…」
今までなら、想定外のことが起きても気持ちを切り替えるのは容易だった。しかし、何故か言葉に詰まってしまう。
家出以来、援助交際どころか売春まがいの行いを散々してきたのだから、今更何を考える必要があるのだ。
そう頭では分かっていても、俺の声は震えていた。泣き過ぎて、心が弱くなってしまったのだろうか。
「それなら、僕の家に住み込みで執事として働くのはどう?まずは見習いからだけど」
「………………………は????」
中年の男から突然働き口としてスカウトされた俺は、不安など一瞬で吹き飛び、呆気に取られるしかなかった。
「それ…マジで言ってんのか??」
「うん、僕は嘘は吐くの苦手だからね。それに…君もこれ以上市民の中で噂になって貴族達の耳に届いても困るよね?グレイ・ジルコニアくん?」
「っ…………!!あ、あんた…もしかして俺のこと知ってて話しかけてきたのか…?」
俺の本名だけでなく、市民間を通じて親父を含めた貴族に噂が回る可能性を気にしていることを見抜かれていた。レオンのことが急に恐ろしくなり、思わず後退りした。
「いやっ…あの、そんなに警戒しないでよっ…!知ってて話しかけたのは勿論だけど、脅す目的で提案したわけじゃないんだ。ただ、どうしても今の君をあの家に帰す気にはなれないなって思って…それなら君の気が変わるまでしばらく僕の家で働く方がまだ良いかなっていう気持ちで言ったんだよ」
「ああ…そういうこと…じゃあ改めて聞くけど、お前は俺の出自を知ってる上で相談に乗ってくれて、おまけにグレイス侯爵家の執事として働くのを勧めているってこと?しかも見習いから?」
「うーんまあ、そうなる…かも?僕は別にちゃんと働いてくれて、もう悪いことをしないならそれで良いって思ってるんだよね…」
俺は仮にも、裏では拷問官という汚れ役を担いつつ、表では司法と裁判の役割を担う国王の臣下として振る舞うジルコニア公爵家の息子だ。
今は勘当されたも同然の状態だが、そんな俺のことを、レオン・グレイスはそこら辺の家出少年として接した上に、まずは執事見習いとして雇おうとしている。
人畜無害で優しそうな顔をしておいて、とんでもなく命知らずな男だ。
そう思った俺は、不思議と笑いが止まらなくなった。
「ぷっ……ははははははっ!!!お前って貴族のくせにほんと変な奴だな!!」
「えっ、えぇ…!?ぼ、僕ってそんなに変かなぁ…?」
「俺からすればだいぶ変だよ!なんせ貴族はクソみたいな奴ばっかだと思ってたからな。まあ、そういう意味ではこき使われても悪くないって思ってるぜ」
常に相手を蹴落とし合い、陰で嘲笑し合う貴族とは到底思えない、呆れるぐらいのお人好しだがどこか肝が据わってるこの男の元でなら、いずれ執事としてこき使われるのも悪くはない。
俺は、本心からそう思った。
「そう言ってくれるなら嬉しいよ!!それなら早速家まで案内するよ!着いてきて!」
「お、おう…って結構森の中広いけど大丈夫か?」
「大丈夫だよ。ここは僕の家と近いからね。明日からよろしくね、グレイ君」
「………はい、旦那様」
「あはは、まだ旦那様じゃなくて良いよ」
俺はレオン・グレイス侯爵の元で、新たな人生が始まることになったらしい。
いまいち心の底から信用はできていないが、俺のクズみたいな生き方はこれで少しは変わるんじゃないかと、ほんの少しだけだが期待を抱き始めている。
と思ったところで、しばらく歩いていたレオンがピタッと立ち止まった。
「……?どうしたんだ?」
「ごめん、僕の家ってどっちの方向だっけ??」
「俺が知るわけねぇだろ!!自分の家ぐらいちゃんと把握しとけよ!!!」
前言撤回。正直、お人好しなだけでなくかなりドジな主人の元で本当に変われるのかと、別の不安が生まれた。
ようやく本編の初期ではお馴染みのレオンおじさんが登場です。
次回から新章に入ります(※章名を前編としていましたが、「一章、二章…」といった形に変更します)




