第32基音:去りし者たち
俺たちがビアンカの宿屋で温かな夜を過ごしていた頃――。
商業都市カデンツァの片隅にあるしがない酒場に、鎧をガタつかせた男女の姿があった。
かつてアルトを「無能」と見下して追放し、あの【響鳴の鉱山】で返り討ちに遭ったパーティ『銀翼』のリーダー・ヴァンと、魔導士ミリアである。
「……くそっ、ちくしょうが……ッ!」
ヴァンは粗悪な酒が注がれた木樽の杯を、乱暴にテーブルへ叩きつけた。酒がバシャリと跳ね、彼の無精ヒゲを生やした頬を濡らす。
あの鉱山でカノンが放った圧倒的な雷光と、アルトの『調律』によって自分たちの武器が脆く砕け散った恐怖。あの日の屈辱と敗北感が、今も鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。
「文句を言わないでよヴァン……ッ! 私たちの装備、あの鉱山で完全に壊されてからまともなもの買い直せてないのよ!? 私の予備の杖だって魔導回路が狂いっぱなしで、簡単な魔法すら発動しないじゃない!」
ミリアが震える声で金切り声を上げる。
アルトがいた頃は、どんなに激しい戦闘の後でも、彼が毎夜欠かさず武具や魔法媒体を『調律』し、新品以上の状態に保ってくれていた。
だが、あの鉱山でアルトの本当の力を見せつけられ、自分たちが「無能」と切り捨てた男の手によって生かされていたのだと嫌というほど分からされたのだ。
「腕利きの鍛冶師に見せても『こんな精密な波長で調整されていた装備は直しようがない。一体誰が手入れしていたんだ』って呆れられるばかりだ……ッ!」
ヴァンは頭を抱え、痛烈な後悔に押しつぶされそうになっていた。
『ねえヴァン、明日の討伐に合わせて剣の波長を合わせておいたよ』
昔、アルトが当たり前のように差し出してくれていたあの手入れ。
あれこそが自分たちを「Sランク」と呼ばせていた真の理由だった。
「ねえ、ヴァン……。噂で聞いたんだけど、アルトのやつ……カデンツァのマルコ商会と正式に提携して、あの恐ろしい魔導兵器の少女と奇妙なスライムを連れて、さらに北のビアンカへ向かったらしいわよ……」
「……知ってるよ。街の冒険者ギルドでも、あいつの話でもちきりだ」
自分たちが誇りを砕かれ、依頼も受けられずに泥を啜っている間に、アルトは遥か高みへと駆け上がっていく。
「追い出さなきゃよかったのよ……っ! 素直に謝って、頭を下げて戻ってきてもらえば……っ!」
「無理に決まってるだろ!! あんな凄まじい力を持ったアルトが、今さら俺たちみたいな奴らのところに戻ってくるわけねえだろ……ッ!!」
ヴァンの悲痛な叫びが、虚しく酒場に響き渡る。
手遅れになってから気づいた至高の『音』。
二人がどれほど悔しさと後悔に涙を流そうとも、去った青年が戻ってくることは永久にないのだった。
◇
――酒場の外。
冷たい雨が降り頻る薄暗い路地裏で、ずぶ濡れになりながら惨めに立ち尽くすヴァンとミリア。
「……これから、どうすればいいのよ……」
力なく膝をつくミリアの傍らで、ヴァンが固く拳を握りしめたその時――。
カツン、カツン、と足音が聞こえた。
黒いフード付きのローブを深々と被った男が、暗がりの中から静かに二人の前へと歩み寄ってくる。男の胸元には、紫色の禍々しい結晶があしらわれた装飾が鈍く光っていた。
「……誰だ、てめえ」
警戒して剣の柄に手をかけるヴァン。
フードの男は、口元だけに不気味な笑みを浮かべ、低く掠れた声で囁いた。
「復讐と……力を望むか? 『銀翼』の諸君」
「な……んだと?」
「君たちを嘲笑い、踏みにじったあの『調律師』の少年……アルト。彼の手にあるものを奪い、再び君たちが輝くための……最高の『力』を授けてあげよう」
男がポケットから取り出したのは、不気味な不協和音のノイズを放つ【紫色の魔導結晶】だった。
「……あいつに、復讐できるってのか……?」
「ええ、容易く。さあ……我らと共に来たまえ」
吸い寄せられるように、ヴァンとミリアの目が妖しく歪んだ光を宿し始める。
アルトたちが霊峰へと踏み出す陰で、新たなる『不飽和の影』が静かに動き出していた――。




