三話:存在しない男
空の裂け目は、今度は消えなかった。
薄く、だが確実にそこに“残っている”。
歪みは静かに広がり、空の一部が現実から剥がれかけているようだった。
「……固定された?」
飯田が低く呟く。
男は答えない。
ただ、その裂け目をじっと見つめていた。
世界のノイズが増幅していく。
音がわずかに遅れ、光が微妙に滲む。
人々は相変わらず気づかない。
だが二人には分かる。
これは“兆候”ではない。
すでに――崩壊が始まっている。
「なあ、観測者さん」
男が口を開いた。
「この先、どうなると思う?」
飯田は即答しなかった。
代わりに、冷静に状況を整理する。
分岐。
干渉。
融合。
そして――不安定化。
導き出される結論は一つだった。
「世界線同士が、重なり始めている」
「正解」
男は笑う。
だがその目は、笑っていない。
「枝が増えすぎたんだよ。分岐しすぎて、もう支えきれない」
再び、空が軋む。
今度は音があった。
――ミシ、と。
現実に亀裂が入る音。
裂け目の向こうに、“何か”が見えた。
色が違う。
空の色が、こちらとは明らかに異なる。
紫に近い、不気味な色。
その奥に、理解できない構造物が一瞬だけ浮かび上がる。
塔のようで、木のようで――形が定まらない。
「……別の世界か」
飯田の声は低い。
「いや」
男は首を振った。
「“別”ってほど綺麗に分かれてない」
一歩、裂け目に近づく。
「混ざり始めてる」
飯田はその背中を見る。
そして、気づく。
この男はもう、止まらない。
止められない、ではない。
最初から――止まるつもりがない。
「行くのか」
短い問い。
男は振り返らない。
「ここにいても、いずれ潰れるだけだろ」
軽い口調。
だが、それは事実だった。
この世界は、もう安定していない。
観測者として留まる選択肢は、意味を失っている。
「お前はどうする」
男が逆に問う。
飯田は少しだけ黙る。
このまま観測者でいるか。
干渉者になるか。
あるいは――
そのどちらでもない場所へ行くか。
過去が干渉されたことで俺の親は、生まれない。
そして俺は――元の枝から“切り離された存在”。
でも消えない。
だが、同時に――
「ここに、俺の居場所はない」
戸籍はない。
過去もない。
未来も保証されていない。
俺は、世界にとって“存在しない人間”になった。
ならば――
「好きに生きるか」
誰にも記録されない人生。
誰の記憶にも残らない物語。
だが、それでもいい。
俺は、ここにいる。
たとえこの世界が、
俺を生み出していなかったとしても。
――存在とは、記録か。
それとも、認識か。
その答えを探すために、
空が、さらに裂ける。
今度は明確だった。
一本の“線”が走り、それがゆっくりと開いていく。
向こう側の景色が、はっきりと見えた。
紫の空。
異質な空気。
そして――
空を横切る、巨大な影。
翼のようで、翼ではないもの。
生物とも、物体ともつかない“何か”。
「……マジかよ」
男が、初めて小さく笑った。
「面白くなってきたな」
飯田は、その光景を見つめる。
理論の外。
だが否定できない現実。
「……観測では、届かないな」
静かに言う。
男はようやく振り返った。
その表情は、どこか楽しげで――
同時に、すでにこの世界から一歩外れているようだった。
「だから言っただろ」
一歩、裂け目へ踏み出す。
「“触るしかない”ってな」
次の瞬間。
男の姿は、裂け目の向こうへ消えた。
飯田は、その場に残る。
数秒。
わずかな逡巡。
だが――
空の歪みは、待ってくれない。
「……観測は、干渉しない」
かつての前提を、口にする。
そして、自分で否定する。
「もう、その段階じゃないか」
飯田もまた、一歩踏み出す。
裂け目に触れた瞬間――
現実が、崩れた。
――その先で待っているのは、
分岐の果てか、
それとも。
“外側”か。




