Pennies from heaven
「うわっ…」
願いを受け入れてもらい宮廷図書館へと導かれた月子は、本をモチーフにされた豪奢な扉を潜った瞬間、驚きと感嘆の声を漏らした。
足を踏み入れた時から鼻を擽る本独特の匂いと木の香り、それから宮廷図書館と名乗れるだけのことはある草原のような広大な面積と、通常より高い天井に向かって生える本棚の数々に圧倒される。
これでもかというほどの密度で本棚に肩を並べる大小様々な本は、背表紙から内容が想像出来る目新しいものから、記号のようにのたくった文字で書かれたもの、古いのかタイトルすら読めないものまで彩りだ。落ち着いた雰囲気の光を灯す上品なシャンデリアや、大きな窓から差し込む日差しが室内に柔らかい空気を作り出している。
一番真新しい記憶で“図書館”に行った時のことを思い返すが、大学時代に県立図書館に訪れたことくらいで、今自分が見渡している宮廷図書館とはスケールが違う。
「規模が違うってこれ…。図書館ってこんなんだっけ…?」
「国一の広さと質を誇る宮廷図書館ですから。さあ、中へどうぞ」
入り口で唖然としたままの月子は、ヒューバートに促されてやっと足を踏み出した。
時折ちらほらと見受ける神官風情の女性や軍人に深々と頭を下げられるのを少しばかり居心地悪く思いながら、背の高い本棚の間を縫うようにして奥へと進んで行く。
「陛下は何故図書館を訪れたいと思ったのですか?」
広い図書館内を繁々と見渡しながら縦横無尽に練り歩く月子の背に、リリスが単純な疑問を投げ掛ける。それに気付かれない程度にびくりと肩を震わせてから、月子は取り繕う笑みを顔に背後の二人を振り返った。
「アウレリオが朝別れた時に図書館で仕事するって言ってたからちょっと気になって…あ、邪魔しようとかじゃなくて、図書館がどういうところか気になったからただ見学出来たらなあって……。…あの、ごめん。私ちゃんと喋れてる?」
「ええ。…そうですね、後で城内をもう少し詳しく御案内します。これだけ広ければ気になるのも当然の摂理ですから」
「あ、うん。お願いします」
本音を言えば先ほどの、月子が元いた世界に帰還するには七日間を要するという話をした際に沈鬱してしまった空気に耐えかねて、今朝方アウレリオが図書館に行くと言い残したそれを頼りにするために口走ってしまった台詞だったので、リリスに返した答えは嘘だった。自由奔放で周囲を気にしない彼に会えれば、幾らか気分が紛れる気がしたのに加え、その場凌ぎにもなる故の苦し紛れな発言だったのだ。
ただ、嘘の理由で口にした邪魔をする気はない、という部分だけは本音だったので、さして会えることを期待もしていないし、会えたとしても長居をするつもりはなかった。
「あれ、陛下?」
「アウレリオ!」
だから、本棚の影から青い髪の毛を揺らして青年が現れた時はただ単純に驚いた。
図書館ということも忘れて月子は青年の名前を大声で叫んだ後、しまったと口を噤む。
幸いなことに周囲には人影がなかったのでよかったと安心するが、例えば大勢人がいたとしても咎められることはなかったはずだとこちらの世界ならではの月子に対する常識を思い出して別の意味で人がいなかったことに安心した。
「なんでこんなところにいるの?図書館に用事?」
大声を出してしまったことに口を引き結ぶ月子に構わず、アウレリオは一切潜めたりしない通常の声量で月子に疑問を投げかけてくる。こういうところがアウレリオと一緒にいて楽な所以かも、と微苦笑しながら月子は首を横に振って、逆に問い返した。
「用事って言うか…見学?宮廷図書館って今までに見たことないから気になってさ。…アウレリオは?仕事だって言ってたよね?」
「あー、うん。まあ、此処での仕事は僕の仕事じゃないんだけどね」
「違うの?じゃあ…なにしてるの?」
「仕事上のパートナーが此処に用があるって言うから、着いて来ただけ。だから暇でさー。まあそれも一応仕事の内だし、しょーがないんだけど」
でもやっぱり暇なんだよね、ヒューバートかリリス変わってくれない?とブロワーズ兄妹に問い掛けるアウレリオのそのひとつ前の台詞を、月子は口にしてなぞった。
「仕事上のパートナー?えっと…」
「気になる?でも会ったことあるよ、陛下」
「私?うそ、誰?」
これ以上この世界に関わることを自粛するつもりでいる自分が誰、と尋ねても良いものかどうか悩んでいる折にさらに気になる単語がアウレリオから飛び出したので、つい反射的に聞き返していた。己の短慮さと状況にしまった、と思った時にはもう遅い。
「ちょっと待って、いま呼んであげる。おーい、ジュストおじさーん。陛下が面見せろってさー」
やっぱり今のナシ、と言う暇もなく、説明するより本人を呼び付けた方が楽だと判断したのかアウレリオは月子にそう言うが早いか、背後を顧みて相棒を呼ぶ。
「ええっ、私そんなこと言ってな…」
しかも言い掛かりも甚だしい言い方で呼び掛けられるなど、月子とすれば堪ったものではない。すぐに否定をしようとアウレリオに放った台詞は、けれどアウレリオのものではない声に遮られた。
「なんだって?アウレリオ。おじさんいま手ェ離せないんだけど」
「だから陛下がこっち来いって言ってるんだってば。聞こえなかったの?これだから年寄りは…。…てゆーかジュストおじさんなにやってんの?」
「お前が手伝わないからこういうことになる……、なに?陛下?」
「…気付くのおっそ」
アウレリオに揶揄られながら本棚の影から姿を見せたのは、両手一杯に重そうな本の数々を抱えた男だった。まだ二十代にもなっていないように見えるアウレリオに『おじさん』と呼ばれるだけのことはあって、男の年齢は三十代半ばか後半くらいだろう。
薄らと髭が生えた顎の下まで積み重ねた本を抱えながら、しかしさして重そうな素振りも見せずにアウレリオの背後に立った彼は、月子の顔を見ると僅かに目を瞠った。
「おっ…と、こんなところで陛下と相見えるとは予想外だったな」
「だからさっきからそう言ってるじゃん。…ね、陛下。会ったことあるでしょ?」
「う、…えっと……」
人の顔と名前を覚えるのが得意ではない上に、東洋人離れした造りの人々に囲まれて大方の人間の顔が同じに見えてしまう今の状況でそう問われて、月子は返答に詰まった。
アウレリオが指差す男の顔を不躾にならない程度に見詰めても、残念ながらここ二日間の日常の中で記憶に引っ掛かるものがない。
申し訳なさに首を竦めて態度で覚えがないと示せば、アウレリオが背後の男の顔を振り仰ぎながら楽しそうに声を立てて笑う。
「あっはっは、陛下に覚えられてないんだ、ジュスト。かわいそー」
「お前らみたいに派手でもなんでもない、何処にでもいるなんでもないおじさんだから仕方がない」
アウレリオにそう指摘されても彼はなんのこともないように軽く肩を竦める、その口振りは自嘲でもなんでもないただ事実を告げているだけなのだが、覚えていない自責の念がある月子からすれば申し訳なくて、ますます小さく身体を縮めた。
その様子を見兼ねたのか、後からヒューバートが小声で話し掛けてくる。
「彼の名前はジュスト・ディヴリー。…七騎士のひとりです」
「あ!」
ヒューバートの解説を耳にして小さく声を上げる。
アウレリオにからかわれながら言葉を交わしている男の顔を今一度見詰めれば、確かにヒューバートの言う通り喚び出されたあの時あの場所に居た気がした。
そっかだから会ったことがあるって言ったんだ、と先ほどのアウレリオの言葉にひとり納得する。混乱と錯乱の渦にいたあの瞬間では、例え己の前に跪いていた人間が複数いたとしても覚えられるわけがなかったのだが、それでも覚えられていないという事実はあまり気持ちのいいものではない。
相変わらず青年に揶揄られている男に謝ろうと思い、月子はあの、と呼び掛けながら男に話し掛けることに気付いてもらうために距離を詰めた。
「あの、さっきはすみませんでした。なな…騎士の方ですよ、ね?…いま思い出したっていうか……いや、ほんとは覚えてなかったんですみません、でした…?」
「……………は、は」
「はは?…あの…?」
ヒューバートに初めて頭を下げた時の二の舞にならないように余り堅苦しくならない謝罪の仕方をしたつもりだったのだが、なにやら男の様子が可笑しい。
距離を詰めてから適度に折った身体を元に戻して男の表情を窺えば、積まれた本の上に見える顔の色が悪い。加えてその本を抱えている腕もなんだか震えているように見える。
またなにか帝天関係の地雷でも踏んだのかと、私にこの世界で頭を下げるなと言われているのかと彼ほどではないにしろ顔色を曇らせた月子に、男がしどろもどろな口調で弁明をした。
「いや、その…なんちゅーかね…。……おじさん、女の子、苦手だったりして……ハハ」
「え」
明かされた思わぬ理由に月子は目を丸くした。
失礼だとは考えながらもじっと男を凝視すると、茶化して軽い調子でカミングアウトしているものの、本を抱えている腕だけでなく身体全体が小刻みに震えているし、視線がどうも忙しく動いて定まらない。
嘘でも冗談でもなく、彼が女の子が苦手…というよりも女性恐怖症のきらいがあるのは本当らしい。しかも本人の口振りよりもどうも症状は深刻なようだ。
顔を青ざめさせて額に冷や汗までかく男が本気で可哀想になってきて、月子は詰めた距離より倍以上の距離を開けてから丁寧に頭を下げた。
「ごめんなさい。知らなかったから…」
「! や、そんなに深刻にならなくても…。あー…いや、違うか。やり直す。…申し訳ありません、陛下。些か驚いたとはいえ御身に向かって不躾な物言いをしたこと、お許しください」
今までずっと抱え込んでいた本を隣にいたアウレリオに押し付けて、彼は月子が下げた頭の位置より倍の深さになるまで身体を折り曲げた。
唐突に変わった男の雰囲気にぽかんとする月子を、柑橘系を思わせる鮮やかなオレンジの瞳で見詰めて、彼は更に言葉を重ねる。
「遅ればせながら改めて、私の名前はジュスト・ディヴリーと申します。不肖ながら、皇帝陛下であらせられる貴殿の盾にも矛にも成り得る…先ほど陛下が仰られた七騎士の任を負わせて頂いております。微弱ではありますが、陛下が織り成すであろう益々の繁栄の力添えになれるよう、誠心誠意心身を砕いて御仕えさせて頂く所存でおりますので、何卒お見知り置きを」
「……ハイ」
自分に対する怒涛の格式ばった台詞の数々に頬が引き攣るのを感じつつ、取り敢えず形だけとばかりに大人しく頷いておいた。
会ったばかりの折に気負うことなく使っていた気さくな言葉遣いの方が月子としたら良かったのだが、やはり立場的には最終的に、格式ばった台詞に彩られた関係にしかならないのだろうか。雲の上の人間になったつもりなど毛頭ない自分に気を使う必要も忠誠を誓う必要もないというのに、やはり会う人会う人みなが月子ではなく“皇帝陛下”を見るのは仕方のないことなのだろうか。
短い間しかいないが、それだけでもわかるこの世界の常識に肩を落として、だからきっと聞き入れてはもらえないこと前提で、それでも月子は上目遣いで見詰めながらジュストにやんわりと異議を申し立てた。
「…気にしてないっていうか、むしろそのままでいいんですけどね、私としたら」
背後でヒューバートとリリスが困った表情をしているのが目に浮かぶ。
けれど言わずにはいられなかったのだ。
そんな月子の帝天として有り得ない言葉を受けたジュストは、当然のように驚き目を見開き…、すぐに楽しそうにくちびるの端を吊り上げた。
「アウレリオが言った通りだな」
「え?」
「でしょ。面白いんだよ、陛下は」
「…………」
パートナーに一方的に押し付けられた本の束に不機嫌そうにしていたアウレリオが一変して、ジュストに同調して楽しげに笑う。
話の的になっているはずなのに今一会話が理解出来ていない月子は、まあ褒められてはないんだろうな、とくちびるを尖らせた。




