すべからく、なぞ。
「…まじっすか」
「…ええ、そうなのです。陛下をこちらに御喚びするために歪めた空間は聖女神の力を持ってしても未だ不安定で、これより数えてきっかり七日経たなければ常の状態には戻らないとシシー様より先ほど通達がありました。七日経過する前に陛下を元にいた世界に送り届けようとでもすれば、安定さを失った時限の狭間に引き摺りこまれて二度と帰ってこられなくなる、と。…ですから、こちらの都合で御喚び立てしたのにも関わらず誠に申し訳ありませんが、これより七日間はどうかこのテレスタジアでお過ごし頂きたいのです」
「ううん、まあ…そういう事情があるならしょうがないですよね」
「闊大なる御心での配慮ある決断に感謝致します」
「いえ…、ドウイタシマシテ」
食事を終え、仕事があるからと手を振るアウレリオと別れた後に、リリスと共に城内の案内という名目として当て所なくぶらぶらと彷徨っていた城内で出くわしたヒューバートに告げられた言葉に月子はただ頷くしかなかった。
通常では考えられない、人ひとりを異空間を通じて元世界から別世界へと移転する等という突拍子もなく広大過ぎる話に口を挟めるほど頭がいいわけでも詳しいわけでもないので、それは致し方のないことだ。むしろ七日経ちさえすれば帰れると吉報を貰ったのだと思えるほど良い便りだったので、この話自体にはなんのも問題はない。
それよりも驚いたのは、ヒューバートが月子の帰還に一片の口出しもしなかったことである。勝手な解釈であるが、ヒューバートは月子がこの世界から去ることに大いに反対していると思っていたからだ。
あまりにもあっさりと告げられた帰還出来る日程に、違和感を覚えたほどである。
しかし今になって考えてみれば、シシーが懸命に自分をテレスタジアに留めようとしていた時も、あれは月子が半ば窒息の危機に瀕していたからかもしれないが、止めに入ってそれ以上は月子が世界に駐在する云々の話には触れなかった気がする。月子に…皇帝陛下に忠誠を固く誓っている風情の彼を見ると、月子が元の世界に帰還するのは彼にとってあまり芳しくないことのように思えたのだが、違うのだろうか。
そのように思考する感情が面に漏れたのだろう、くちびるを小さく尖らせて眉を寄せる月子に、ヒューバートは出会ってから一番の情けない笑い顔で苦しそうな表情を作った。
「もちろん、…一家臣として出過ぎた想いかもしれませんが、この場に一時ではなく永久的に陛下に留まってほしくないと言えば嘘になります。ですが私は、陛下の望まぬ現状を肯定するわけにはいきません。貴方は貴方の願うように、御自分の心が赴くままに行動を起こされれば良いのです。それが私たちの、何よりの幸せですから」
「……ヒューバートさん…」
「どうかそうお気になさらずに」
伝えられた想いになんと返答をすればよいのかわからず、情けない表情のヒューバートに負けず劣らず辛そうな顔をする月子に、背後で控えていたリリスが穏やかに笑いかける。
妹の言葉を受けていつもの柔らかに凪いだ笑みに戻ったヒューバートも、月子の罪悪感を取り除くように気に貴方が病む必要はないのだと言葉を付け加えた。
「……は、い」
優しさが痛い。けれど同時に、否、それ以上に嬉しいと感じてしまう。それがまた、痛い。
流されつつあるからなのか、もしくは並々ならぬ敬愛を注がれているからなのか、彼等の好意を裏切ってまで元の世界に帰ろうとする自分に、生まれてこの方感じたこともないほどの罪悪感と嫌悪感を覚える。
なんの前触れもなく勝手な理由で召喚されたのは自分だと言うのに、頭で把握している事態を感情が否定するのだ。
言葉では言い表せないような、心の奥深くでテレスタジアに留まることを寛容しているもうひとりの自分がいる。月子自身はそんなことは露程も考えていないのに、何処かで確かにもうひとりの己がこの世界にいることを強要する。あなたの世界は此処なのだと、自分と同じ顔をした人間が愉しそうに囁く。
これは多分、こちらに来た瞬間から根強くあった気持ちだ。ただ、認めたくないから知らないふり、見ないふりを続けてきた。
言ってしまえばそれは今までは見ないふりが出来ていたと言うことだが、けれどこういった、あちらとこちらを天秤に掛けなければいけない場面になると途端に激しい自責の念に駆られるのだ。元の世界に彼等を置いて帰還するのは、身を裂かれるように苦しく、あってはならぬことなのだと思ってしまう。
――どうしてだろう。これまで生きてきて、きっとこれからを生きて行く上でも味わえないある種の愛情に触れたせいなのか。その零れんばかりの陽の気持ちや、通常ではありえない待遇の良さが居心地良くて、手放したくないと感じたから、深層心理で願いもしないと思っていた気持ちが芽生えたのか。でもだとしたら、喚び出された瞬きの後からあったのにはどう理由を付ける?
こんなに不可解で認めるのさえ困難な申し出を受けるわけにはいかないと、どんなに強く自身に言い聞かせても、心底には別の、まったく真逆の感情が湧き上がる。自分のことなのにまったく理解出来ない気持ちの螺旋に戸惑って、思考することを放棄してしまいたくなる。流された方が、楽ではないかとも考える。
「………………」
溢れるテレスタジアという世界への覚えのない慈愛の気持ちを振り払ってどうにか返事をしたのはいいものの、何処か重くなってしまった空気と思いまでは拭えなくて、月子は所在なさげに視線を辺りに漂わせた。
影が差した月子の表情に、兄妹も容易に口を出せなくなる。
それがわかっているからこそ尚更なにも言えなくなって、月子はふい、と視線の先を斜め先になる中庭へと向けた。
リリスに誘われてやってきた城の中心部付近にある中庭に面する回廊で今の会話を進めていた三人を嘲笑うように、朗らかに差し込む日差しが、手入れが行き届いて色取り取りの花が咲き誇る中庭を温かい色に染め上げている。
木漏れ日が地を揺らし、吹き抜けから入り込んで来た小鳥が代わる代わるに歌を口ずさむ。
庭の中央よりやや隅に控え目に設置されたささやかなお茶会を楽しむために用意されたテーブルとチェアは目を凝らさなければわからないほど細かな細工が施されており、中庭の外観や雰囲気と相まって、それはまるで、子供が遊ぶためではなく、遥か昔へと追いやった幻想を何処かで諦めきれない想いを胸に、それでも夢を視るのは馬鹿らしいと灰色の日々を色付きと思いながら過ごす大人がせめてもの慰みと日常への小さな抵抗で買った、精巧な白亜の城のミニチュアの一部のようだった。
水分を含んで重くなった水浸しの服を纏った気持ちを抱える月子の心理を、そのミニチュアの光景が都合良く癒してくれることはなかったが、けれど幾分かは今とはまったく関係のない他の事象へと心を移すことで軽くはなったかもしれない、と前向きに考えて、月子は揺れる木漏れ日から目を離そうとした。
「…うん?」
滑らせた目の先が、木漏れ日のせいではなく動くものを見付けて反射的に帰ってくる。
動くものや気になるものが視界の端に映り込むと無意識に追ってしまうのは生き物の本能だが、しかし月子はその本能を樹木の下にいたモノを見たことで恨みたくなった。
「………………は、…?」
蜃気楼の如くゆらめく影の元である木の下で、月子をじいと見詰めてくる視線がある。
けれどその野生が溢れたエメラルドグリーンの双眸を持つ目を疑いたくなるモノが瞬きも惜しむほどこちらを凝視してくることよりも、その瞳を持ってしてこの場にいる“モノ”自体に月子はぽかんと口を開け放った。
地に着く四足は力強さを表すように太く、筋肉質な身体は見事なベルベットの毛に覆われて、ゆるりと揺れる尾は気高さそのもの。威風堂々たる立ち姿は生まれながらの強者であることを言外に明確に示し、それから彼等の代名詞のような黄金の鬣が降り注ぐ日差しの中で小さな太陽のような輝きを放つ。月子だけを凝視する瞳は生い茂る鮮やかな新緑の色でそれがより一層、温かみのある毛並みの艶やかさを引き立てた。
「ら、らいおん…?」
月子が木の根元で目にした“モノ”とは、黄褐色の短い体毛と何処となく全体的に猫の名残を残す雰囲気、顔周りをぐるりと囲う鬣が存在感を放つ雄剛な獅子そのものだった。
…そのものではあるが、しかし果たしてあれは本物なのか。そもそも本物だったとして、アフリカかもしくは動物園の檻越しでしかお目に掛かれない、むしろ掛かってはいけない百獣の王が何故ここに。番犬代わりに城で飼われているのだろうか?…ライオンを?
逸らすに逸らせないほど噛み合わさった視線の中で、走馬灯のように脳内を巡る疑問と突飛過ぎる状況にただ呆然と佇むことしか出来ない。
恐怖に駆られて背を向けて走り出したら最後、猫がおもちゃにじゃれるようにあの獅子は己に飛び掛かってくるのではないかという思考も手伝って、月子は瞬きをするのにも息をするのにも細心の注意を払った。
「陛下?」
「どうなされたのですか?」
一方、ヒューバートとリリスは中庭に視線を向けたと思ったら突如としてぴくりとも微動だにしなくなった月子に目を瞬かせていた。
月子の視線の先へと目を向けても別段珍しいものがあるわけでもなく、何時もの平和で温かみのある中庭が広がっているだけである。
険しいというよりも極度に緊張した面持ちで一点だけを見詰め続ける月子に、ブロワーズ兄妹は顔を見合わせて眉間に谷間を作った。
呼び掛けても返事がない以上、なにやら焦った様子ではあるが自分たちが見る限り危険が及んでいそうな事態ではない。だったら邪魔をせずに大人しく傍に控えているのが正解なのか、それともこれだけ切羽詰まった表情を見せているのだから無礼は承知で月子の意識に割り込むのが正解か。
顔を見合わせただけで考えていることがほぼ同じだと悟った兄妹は、その一拍後に再び寸分のズレもない同様の答えを導き出してから月子に向き直った。
至上である陛下が己では計り知れないが、緊張下に置かれなければならない事態に陥っているという判断の元、声をあげてみることにしたのである。
変わらずに中庭の一点を凝視する月子にヒューバートが口を開く。
「陛下、失礼ですが何か不測の事態が」
「あれ、っ…あそこにライオン!」
「…らいおん?」
まさか傍にいた兄妹たちがそこまで自分のことを考えているとはいざ知れず、獅子と見詰め合っていた月子はヒューバートの問いを遮って我に返ったように声を張り上げた。
最早ヒューバートの言う不測の事態に大声を上げたら飛び掛かって来るかもしれないという基本的な考えは消え去っていて、月子は半ば裏返った声音で木の根元を指差す。
疑問符を遮られてしまったヒューバートは、月子が放った台詞に大きな瞬きを繰り返した。なぞるように聞き慣れない単語を口にしながら月子が指差す先に目を向けるが、そこにはらいおんは愚か小鳥一匹おらず、彼は不思議な気分で背後を振り返った。
後にいる妹に、何か見えたか、と視線で問うが、リリスも困った顔で首を横に振る。
月子がふざけてこのようなことを言っているようにも思えないので、ヒューバートはますます不可思議な気持ちになった。
気持ちのままに首を傾げながら月子の指差す先をもう一度眺めてみるが、やはり何も発見出来ない。どうしたものかと幾らか考えた後、ヒューバートは月子にそのままの事実を伝えてみることにした。
「申し訳ありません。らいおんというものが今一私共には解りかねるのですが…。あの木の根元には何かあるのですか?」
「いやだから、あれ!ライオン!百獣の王とか言われてるネコ科の肉食動物ですよ!あそこにいるでしょう?ほら、こっち見てるじゃない、です、か……。え、あれ?う…、そ」
「陛下?」
伝えられた事実を跳ね除けるように勢い良く人差し指を獅子がいる木の根元に突き付ける。身長差があるため振り仰いだヒューバートの困惑顔を見た後に、何度も指差した金色の獣がいる場所へと視線を戻せば…そこから小さな太陽は消滅していた。
日差しを浴びて輝く鬣も、何処までも続く深い草原の双眸も、飼い猫の如く艶やかな毛並みもそこにはない。
「うそでしょ…だって、さっきまでほんとに……」
見えない、というヒューバートに驚いて、彼の顔を見上げた瞬間だった。たった一秒二秒ほどの僅かな間、視線を戻した先に勇壮な獅子の姿は跡形もなく消えていた。
何が起きたのは理解出来ない。そもそも、獅子が中庭といえ城内にいること自体が摩訶不思議でならないのに、挙げ句綺麗に消え去るとは何事だ。しかもヒューバートとリリスには見えていなかったとまでくればこれはもう理解出来るものの許容範囲を大幅に超えてしまっている。なにが起きたのだろう。異世界ではこれが常のことなのか。
獅子と目が合った時とは別の意味で固まった月子に、ヒューバートとリリスが心配げに顔色を窺ってきた。
「どうされました?」
「なにか陛下の身の上に予期せぬ出来事が起きたことは理解しました。…しかし、…陛下、らいおんとは一体…」
口々に心配の色を帯びた台詞を向けてくる兄妹で我に返った月子は、慌てて誤魔化すように両手を顔の前で勢い良く横に振った。
「あ、えっと…見間違い、だったかな?うん、たぶんそう。……普通に考えてね、いないよね、いくらお城にだってライオンなんて危険生物はね。うん」
「陛下…?」
「あはは、すみません。お騒がせしました。なんでもなかったです」
こちらにきてからというもの、異世界に飛ばされたことでの影響なのか、向こうに居た時とは比べ物にならないくらいやたらと働く第六感が否定する自分の言葉にあれは幻ではなかったと訴える。けれどもただでさえ平和的とは程遠い生活を最低でも七日は過ごさなければいけないのだから、出来得る限りだけでも安穏とは口が裂けても言えないような出来事には深く関わりたくなかった。
見なかったふり、知らないふり、わからないふり。それがどうにか叶ううちはその場凌ぎだろうとも誤魔化し続けるつもりで、自分自身を納得させる台詞で己と兄妹を理解の穴へと無理矢理落とした。
作った笑顔だと気付かれたのだろうか。ヒューバートとリリスは月子の言葉と表情を受け取った時に一瞬だけ視線を混じ合わせ、それから少しだけ影を落とした笑い顔でなんでもなかったと言い張る月子にはい、と返事をした。
「そうですか?…いえ、何もないのでしたらそちらの方が勿論良いので、陛下が良いと仰られるならば」
「はい、平気です」
この場にいる全員が笑ってはいるものの、空気は何処となく重い。
それも後七日、それまで凌ぎ切ればいいのだと自分自身に言い聞かせて、幻覚だと思い込むことにした獅子が再び現れることを案じて、月子は場違いに明るい声音で兄妹に図書館に行きたいと提案した。




