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「帰る?」


ウォルターを痣だらけにし、幾分すっきりした顔をして己の元へ帰ってきたアウレリオの思わぬ提示案に月子は瞠目した。身を沈めたソファから驚きに身体を浮かし掛け、思い留まって再び腰をベルベット生地に降ろす。

月子の目の前で真白なタオルで濡れた髪を拭くアウレリオが、彼女の驚きが理解出来ないと言った風情で瞬きをした。


「そう、一時帰宅。サルトテスラ王にも許可取ってあるから心配しないで大丈夫だけど」

「私の知らないところでどんどん話が進んでいる…!?」

「うん」

「で、でも、それだと本末転倒になっちゃう…んじゃないかなーって…」

「なに言ってるの。あんなことがあった手前、いくら今からサルトテスラが警備態勢を強化するって言っても、ああそうですかじゃあお願いします守って下さいって簡単にいく話じゃないでしょ?自国の方が警護も当然し易いし、これからの対応策も早急に練らなきゃいけない。何度も言うように何かあってからじゃ遅いんだよ」

「それは…そうなんだけど…」


汗を洗い流すためにシャワーを浴びてきたアウレリオの髪からふわりと名前も知らない花の香りが漂ってくる。その爽やかな匂いとアウレリオ自身が発する反論の余地がない正しい言葉にギャップを覚えて月子は肩を竦めた。わかるけど、でも、を口の中で転がしつつ、青年の正論の前にそれ以上紡げる言葉がない。

小さくなって悄然とする月子に、こちらも湯浴みをして濡れた髪のウォルターが快活に笑い掛けてくる。


「まあまあ陛下、今回は運がなかったということで、また出直してくればいいじゃん」

「…う、運が…なかった…」

「……ありゃ、余計落ち込ませちゃった感じ?」

「くたばっちゃえウォルター」

「お前ほんとオレに対して容赦ないね。…ご、ごめんな陛下、元気出せよ…」

「…出直すって…そんな簡単にまた出直せるのかなあ…」


元老会にあそこまで強気な態度で挑み強行とも言える形で訪問を実現させ、またサルトテスラの王、及びサルトテスラという国家にまで影響を及ばし兼ねない利己的な発言を繰り返した手前、混乱だけを招きなんの成果も上げず帰還することはセグセンビーアとサルトテスラ、双方に申し訳が立たない。

不安定ながらも権力者としての立場を、それも最高峰の地位をその手にしながら周囲を振り回した言動は最早罪にも等しいと、月子は重く圧し掛かる現実に下唇を噛んだ。

すべてを物語り不安げに己を見上げてくる主上に、ウォルターが彼女に気付かれぬだけ眉尻を下げる。

伸ばした手で触れた髪の下、甘んじてそれを受ける月子の表情に口を開き掛けたところで、ウォルターが声を発する前に横合いから落ち着き払った声が彼女を呼んだ。


「陛下が」


振り返ったその先で、先ほどまで事を静観するだけだった七騎士筆頭が穏やかな表情で塞ぎ込む月子を見詰めている。

銀を散らした鮮やかな藍色が、柔和な力強さを宿して瞬いた。

主の不安に揺れる眼差しに、ヒューバートが気負いない表情で微笑みかける。


「陛下がそれを望むのなら、必ず」

「ヒューバートさ、…わっ…!?」

「そうそう!陛下が望むなら、なんだって叶えられるし、叶えるためにいるのがオレたちなんだから!ちょっとは信用してくれよ、なあ陛下」

「やめてやれ、ウォルター。お嬢さんの細い首が折れそうだ」


必ず。繰り返されたヒューバートの言葉と共にウォルターが頭を掻き乱す手の力を強める。

わしゃわしゃと乱される髪と押さえ付けられる励ましに、月子は少しだけ頬を緩めた。






「やばい」

「うん?」

「合わせる顔がない」


歩んだ分だけ逆を辿る帰路は自ら望んだ帰還ではなかったからか、時間が過ぎるのが嫌に早かった。

馬に揺られ船に揺られ馬車に揺られ、その間ただひたすらに悶々とした心持ちのまま漫然と過ごす時間が早いと感じるのは、やはり引け目を抱えているからなのだろうか。

終ぞ月子のことを賓客として扱ったままのサルトテスラの王に見送られ、他国の王城を後にした記憶は真新しいようで、それなりに時が経っていると実感させられるのは、出立した際にはまだ地平線から顔を出したばかりの太陽が、同じ顔をして海の底に沈もうとしているからかもしれない。

馬車の細かな細工が施された窓に映りこむ、釈然としない表情の己の顔が橙色一色に照らし出される様を見て、月子はそれをすべて輝く太陽の眩しさのせいにして瞳を細めた。

道中の護衛を担うために同席をするウォルターが月子の呟きに首を傾げる。


「誰に?」

「……国に対して、かな」

「陛下は責任感が強いな」

「冗談でしょう?責任感がないからこそこんな泥沼に嵌ってるのに」


言い出せばきりがなく思い込めば果てがない。

今更言葉を連ねたとこで過去に戻れる訳でも事態が望んだ方向へと急変する訳でもない。

後悔も自責もそれに伴う覚悟も、それらすべてを心のうちに留め、されどその想いに決して蓋はせず、常に傍に置き絶え間なく意識することを志した日は記憶に新しい。

眩しさに眇めた瞳が見詰める水平線に溶け込む日の光は、月子の心を揺り動かしたあの日の海と酷似していて、なんだかそれが少しだけ悔しかった。


「…マティウスに罵倒されても今回ばかりは黙って聞くしかないかなあ」

「それこそ冗談だろ」


つい口を突いて出た嘆きは、正面に座るウォルターの澄んだ暖色の双眸に受け止められる。

思わぬ言葉に疑問を孕んだ眼差しを向ければ、彼はだってさ、と明るい口調を月子に向けた。


「陛下は陛下なりに精一杯頑張ったんだろ?馬鹿正直にサルトテスラの王に登極するつもりのない旨を伝えた時はさすがに肝を冷やしたけどな…でもそれも、陛下が国のためを想って民衆のことを想って出した答えのひとつなわけだ。…なあ、陛下、悪いのは闖入者なんだよ。こういう事態になった以上、あの発言の結果がどうなってたかはそりゃ確かめようもないけど、確かめようもないからこそ、悪かったともよかったとも言えないんじゃないのか?…だからさ、そんな気にするなよ」

「…ウォルターは冗談が上手ね」

「いやあ、大真面目なんだけど」


な、と何処までも朗らかに笑うウォルターのあまりにも月子に焦点を合わせた見解に、呆れを通り越してつられて笑ってしまった。

何度も繰り返される、己が世界の唯一無二にして至上なのだという迷いのない振る舞いに危うい錯覚を起こしそうになる。この世界に留まる気は微塵もなく、そのためにこうして奔走しているというのに、そうして歩めば歩んだ分だけ底のない甘い坩堝に引き込まれそうになるのだ。

絆されるとはきっとこういうことをいうのかもしれないと、ひょこりと一つに束ねた犬の尾を揺らして八重歯を見せるウォルターに思う。

そんな月子の苦笑に近くはあるが、それでも気の緩んだ笑顔が見られたことに、ウォルターは密かに肩を撫で下ろした。


「絶対慰めてくれるってわかっていて愚痴を零すのがもう弱い証拠だよね」

「そういうのはオレから見ると可愛いって言うんだ、よかったら覚えといてくれ」

「…私は時々ウォルターのスイッチがよくわからない」

「陛下が弱ったところを見せるべきじゃない相手は愛すべき民衆と小賢しいじじばば共、それから敵国の前くらいで、オレたちの前では肩肘張らなくていいんだよ。そうじゃなきゃさ、オレたちが陛下の傍に侍る意味がないじゃん?」


本来は胸を張って帰ってくるつもりであった場所に、思ったような成果が上げられなかったどころか、むしろ事態を悪化させて帰還することになったことを自覚するとどうしても後ろめたさと自責の念が拭い払えない。

それでも、それすらも世界の枠の中だと大らかに寛容される。頭の裏側で密かに自己嫌悪を加速させるそれがいつしか心の支えになり、真理になり、沈殿し続けた甘い毒に身も心も溺れたことに気付いた時にはもう遅い。


「う~ん」

「どうした?」

「いや、身体に悪いなあと思って」

「…陛下なんか変なもんでも食った?」


不思議そうな表情のウォルターを映す窓の外、白亜の城の輪郭が新緑の向こうに浮かび上がる。橙に染められ輝く麗しい白亜の城に、月子はひとつ溜息を吐いた。




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