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ゆめの痕

男が滑落して行ったバルコニーに横たわる暗闇を、呆然と凝視する月子の傍へ、アウレリオはゆっくりと近付いた。

映すものがそれしかないように、まるで未だそこに居るかの如く、侵入者の幻影を見ているようにバルコニーの一点に食い入る月子の恐怖心を刺激しないように、ゆっくりと。

先ほど、逃げる侵入者を追わなかったのも、同様に男に飛び掛からなかったのも、そもそも無暗に接近することを律したのも、すべて守るべき対象である月子の間近に奴がいて、その上、部屋に乱入してきたアウレリオを見て男が彼女から進んで距離を取ったからだった。

いくら七騎士と言えど、どの国でもその国随一の強固さを誇る王城の警備を、見る限り単独で掻い潜ってきたと思われる侵入者に対して、絶対的存在として守るべき対象を背負ったまま退ける、ないし駆逐することが出来るとは楽観視出来なかった。

無理矢理強行突破することも、もしかすれば出来たかもしれないが、守るべき月子が危機に晒されている状況下で不安要素はあまり作りたくない。

どうしても強行突破しなければならないのなら、出来得る限りの不確定要素を削ぎ落し、その上で身を呈して行動に移していただろうが、そもそも出入り口付近にいたアウレリオが月子の許へ辿り着くよりも、彼女の目の前にいた男が手を下す方がどう足掻いても速いのは目に見えていた。

あの男が何を思って暗殺対象である月子から離れたのかは計り知れないが、今回はその見えない思惑に助けられたと言える。

七騎士が果たすべき任務とは、無論月子を狙う輩を排除することであるが、すべては月子の安全を確保することよりも上位には立たず、安全を確保することの付随でしかない。

要は差し迫る危機に対して対処することが仕事ではあるが、それは盤石な安全を確保するための露払いなのだ。基盤さえ揺らがなければ、それでいい。

先ほどのような侵入者を取り逃がした場合は、他の役職のものが対応するのが通例である。

月子の傍を離れてまで成すべきことではなかった。

七騎士は、例外を覗いて、何時如何なる時も陛下の御許を離れない。


「陛下」


アウレリオがゆっくりと、だが確実に、毛足の長い絨毯を踏み締めて歩み寄る。

その間も彼女の視線は夜の闇に囚われていて、アウレリオが近付いてくることには全くと言っていいほど気付かない。

刺激しないように、それでも己の存在を認識してもらうために、アウレリオは小さく彼女に囁きながら足を動かす。


「陛下」


霞みがかっていた瞳が、アウレリオの声音にようやく気付いて光を急速に取り戻す。

揺れるカーテンの向こう側、何処までも深い闇を食い入るように見詰めていた双眸がゆっくりとアウレリオを探して室内を虚ろに彷徨った。


「…陛下」


己の持つ優しさと丁寧さをすべて含んだ声で、彼女を呼ぶ。

声に導かれて、ゆるゆると不安定さを保ったまま、月子の瞳がアウレリオに定まった。

ちらちらと鎮火されなかった燃え残りの怯えの感情が、黒の眼に散る。


「…陛下」


そっとその場に膝を着いて、少しでも月子の恐怖心を煽るものは排除しようと努めるアウレリオの瞳の奥が揺れる。その些細な青年の感情の機微に、現実と逃避の狭間を揺らいでいた月子の意識が引き戻された。

恐怖心よりも、目の前で傅く青年の双眸を過る、己の動作ひとつひとつに気を張りすべての言動を見逃すまいと神経を尖らせるその隠し切れない不安に意識がとらわれる。

ぼんやりとした薄い膜の中から引き上げられるようにして明瞭になった月子の視界に、いつもの彼からは想像がつかないほど切羽詰まった表情のアウレリオが飛び込んできた。


「…あいつ…」

「え?」


気付いたら、震えるくちびるが言葉を紡いでいた。

勝手に動き出して言葉を吐き出そうとする口を思考が追い掛ける形で、月子が静かに唸る。


「…あいつ次会ったら絶対ぶっ飛ばす…!」

「…元気そうでなによりだよ、陛下」


吐き出された言葉尻が震えていることにも、月子の血が滲んだ肩が揺れているのにも気が付いていた。けれど強がりを言うだけの気力と、泣くまいと気を張り詰めて上を向こうとしている彼女の矜持に無遠慮に触れることはしたくなくて、アウレリオは月子の虚勢に向かって淡く微笑みを返す。

その微笑みを向けられて、ようやく月子も本当の意味で肩から力を抜いた。薄暗く淀んでいた空気が、開け放たれた窓から吹き込む肌寒い夜風に巻き込まれて払拭される。

それでも未だ月子と一定の距離を保ったまま動かずにいる青年に、月子は小さく眉を下げた。


「…ごめん、アウレリオ」

「…なんで陛下が謝るの」

「…なんとなく。迷惑、かけちゃったし」


迷惑。自分で言葉にしてからはたと気付く。先ほどまでの状況は、そんな軽い言葉で済まされるものだっただろうか。

落とした視線で振り返って考えようとして、その思考に理性が勝手に急ブレーキを掛けた。

顧みようとするだけで、未だに己自身でもコントロール出来ない、拭いきれない恐怖が身を縛る。

冴え冴えとした色違いの双眸と、反してとぐろを巻く黒々と熱の籠った異様な空気を纏ったヒトではないいきものの、嘲笑が耳に張り付いて離れない。

身体を這うようにして登り上がってこようとする恐怖心を振り払うために思考は遮断して、月子はアウレリオに目を向けた。

あおい眼が、隠し切れない色を孕んで月子を見詰めている。

伏せた髪と同色の睫毛が、小さく揺れるのを月子は見逃さなかった。


「謝るのは僕の方だと思うんだけどなあ」

「…なんで?」

「侵入者に気付かなかった」

「…あいつがいたの、時間にしたら数分だよ。今もちゃんと、こうして助けにきてくれたじゃない」

「僕等は陛下を、貴女を害するあらゆるものから守るために、それだけのために存在するんだよ。それを多少と言えど、果たせなかったんだ。…ごめんね、怖かったよね」


今まで見たこともないほどの真剣な顔で、つい先ほどまで男が触れていた頬にアウレリオが指を伸ばしてくる。

あ、と思う暇もなく血液が凝固しつつある傷口付近に青年の温かな指先が触れ、冷えた月子の肌をなぞった。

温かな人肌の灯る指は今なお恐慌に荒れる月子の心を緩やかに溶かす。戸惑うように、舞う胡蝶が時折花に触れるかの如く触れるか触れないかの境目を指先が漂う。

くすぐったさに思わず僅かに身を捩れば、指先を微かに震わせてアウレリオはするりと手を退いた。

俯く額に掛かるあおの髪が、開け放たれた窓から入り込む夜風にさらわれてはためく。


「アウレリオ」

「…ごめん」

「…うん」

「…ごめん」

「…いいって。ありがとう、助けてくれて」


落とされた肩へ撫でるように掛けた言葉は届かない。

まるで月子に見限られたかのように、怯える彼女を宥めすかす半面で自身も隠せぬなにかに身を竦ませるアウレリオに、月子は気付かれないよう小さく笑った。


「……陛下、」

「次、謝ったら怒るよ」

「……」


わざとらしく眉を寄せて不満そうな顔を作った月子は、一転、己の言葉に呆けた表情を見せて顔を上げたアウレリオに力の抜けた笑みを向けて見せる。

弛んだ頬のその奥に、燻る微かな、それでも確かに火傷の痕を付けた残る怯えの残滓には目を瞑って。




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