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いらない、と、繰り返して怯えを滲ませてまで首を横に振る月子に、見る見るうちに男の表情が変わっていく。

一切の表情が消されていた端麗な男の顔に、彩りが浮かんだ。

嘘臭い笑みではなく、心底から愉しいと語る、鮮やかで美しい、だからこそ凶暴な微笑。

纏う雰囲気も、先ほどまでの鋭利な冷気を細やかに散らしたものではなく、変わらずに底冷えはするものの、目に見えないのが可笑しいと思うほど黒々とした、煮え立つ劫火のそれへと変わる。

空気が除々に重く、粘り気を持ち、ただでさえ恐怖で呼吸をすることも覚束なかったのに、それすらもままらなくなる。

唯一不変なのは、輝きを増した獲物を狙うぎらぎらとしたオッドアイだけだ。

ふたつの意志を持った色が、月子を見定める。

ひたりひたりと不気味に近付いて来ると錯覚させる男の空気に、月子は更にソファの背に身を寄せた。

既にソファの背に張り付いた状態であり、物理的に下がれない状況なのは頭では理解出来るのだが、感情がそれを受け入れない。

背もたれの高い、快適性を追求した高級なソファを、頭の何処かで恨めしく思う。


「そうだね。誰かのものになるのは僕の性には合わない」


言って、男は怯える月子へ可愛らしく微笑んでみせる。

表情だけを見れば、それは恋狂しく想う最愛の相手へ心の内を囁く寸前にすら見えた。


「よくわかってるじゃないか」


愛しい人を想う表情で、男はきっと自分に手を下す。

白磁の指先がスローモーションで自分へと近付いてくるのを見て、月子は漠然とそう感じた。

抗う術を見付けられずに、心の内で暴れ狂う恐れに身体の自由を奪われる。


「だったら、ねえ、…君が僕のものになるべきだと思わないか?」


問い掛けは問い掛けとして意味をなさず、恐慌に吹き荒れる室内に落とされる。

戦慄に囚われているだけからではなく、理屈にすらなっていない男の言葉が理解出来なくて、月子を更に混乱へと陥れた。

答えをはじめからから求めていない男は、青白い顔で己を見下ろす彼女に手を伸ばす。

透明な黒の瞳には、恐らく本人の意志に逆らってだろう、薄い水の膜が張られている。

それが何故だかとても綺麗に見えて、男は更に指先を伸ばす。


「女の子に傷を付けたら責任取らなきゃいけないって、本当?」

「な…に?…っい…!?」


前後と繋がらない問責と共に、妖しい輝きを宿して近付いてきた金と氷の瞳を間近に認識すると同時に、頬にピリとした痛みが走った。

突然のことに肩を竦める。


「ふふ」

「な、に」


何が起きたのかわからず、瞬きを繰り返して子供のように目前の二色を見据えれば、艶やかな色彩を放つ真っ赤な男の唇が不気味に歪んだ。

途端に背筋にはっきりとした悪寒が走る。

冷たい手で背中をそぞろに撫でられたような感覚に肩が跳ねて、横隔膜が痙攣した。

条件反射、動物の本能のままに彼から少しでも距離をとろうと身体ごと後退さろうとするが、頬に添えられたのとは反対の手がするりと滑らかに伸びてきて、二の腕を掴まれる。


「っ…!」

「なんで逃げるのかな」


歌うように言葉を操る男の、その細い身体つきからは考えも出来ないほど強い力で腕を締め付けられる。

爪が食い込むほどの力を加えられて眉を顰めるが、痛みよりも先に襲いくる絶対的な恐怖に、血の滲むほどの痛みを無視してでも身体を後ろに引いてしまう。

見下ろした先にある、蜃気楼の如く歪む黄金と氷結と滴る赤に、無意識に喉が鳴った。


「いや、離しっ…」

「――…これで君は、僕のものになったよね?」


ぐいぐいと腕を引っ張られて、抵抗も虚しく月子の身体は前のめりになる。

肩に男の顎が触れ、躑躅色の髪の先が頬を擽る。

そうして耳許で囁かれた毒が滴る呟きは、月子の身を心まで凍らせるには十分だった。

生きたものの温度が灯らない指先が、凍り付いた月子の頬の輪郭をなぞる。

己で付けた彼女の頬の傷口を黒に塗り潰された爪先で抉れば、ようやく傷を付けられたこと自体を理解したらしい月子が苦痛ではない意味で身体を震わせた。

先刻まで本能を支配していた、命の危機とは別のものが心身を覆い尽くす。

命の危機とは違う、このままでは何れ、此処で生命を断たれるよりも無惨な出来事が身に降りかかるだろうと確信にも似た絶望が、月子の心にひたりと手を伸ばし、言いようのない恐慌へと陥れた。

此処で生を終わらせられなければならないという、命を絶たれるという生き物にとって終始の選択をせざるを得ないことに、そしてどちらを選択したところで前後左右、断崖絶壁しかない状況下に、目の前が真っ暗になった。


「面白いから、気に入っちゃった。まさか『いらない』なんて、言われるとは思わなくてさァ。…ま、確かにいらないよね」

「はな、し、…」


異様な空気に最早怯えを隠すことも出来ず、ただ今の状況をひたすら享受することしか出来ない月子は、極寒の地に置き去りにされたかのように、己の意志ではどうすることも出来ない震えに苛まれる。

月子の瞳に翳る戦慄を間近で見ているにも関わらず、男の双眸にはまるで月子の恐怖に慄く姿は映っていない。

歌うように流れるように、彼女の耳許に寄せたくちびるで朗々と、男は愛の告白を彷彿とさせる口調で、囁く。


「殺せってことは、結果、社会的に抹消すればいいってことでしょう。だったら別に、殺さないでこのまま僕が持ち帰ったところで、結局は同じこと」

「はっ…はなして、…いっ…や」

「はは、彼の大国、世界の頂点にさえ君臨出来る皇帝サマが、たかが殺人集団の男ひとりに飼われるなんて面白いじゃないか。…心配しなくていいよ。ちゃんと僕なりに、可愛がってあげる」


ジクジクとした痛みを生む頬の傷を、更に押し広げて痕を残すように、まるで自分の存在を擦り付けるかの如く不躾に蠢く爪先に、連れ去られた後のことが連想されて月子の瞳が限界まで見開かれる。

張られた涙の膜が臨界点を突破して、一筋頬を伝った。

頬に在る傷と男の指先を濡らし、滲む血を霞ませて顎へと伝ったそれを不思議そうに男が見送る。

その様を半ば呆然と視界に映していた月子は、ふと、頭の片隅に煮え滾るものを感じた。

それは意識しなければ見えないほど儚く、けれど認識した途端に明るい赤い炎を纏って燃え上がる。

燃え滾る赤い光が恐れとは間違っても一致しない、怒りなのだと気付くまでに、時間はそう掛からなかった。

認識すると同時に、赤く燃え上がる想いは勢いを増す。

腹が立つ。…腹が、立った。

理不尽にさえ思える現状と、何よりそれを打開出来ない脆弱な自分に。

まるで生贄の羊然と、迫りくる鋭利な牙が整列する顎を受け入れるしか術がない己に。

震える身体に呼応して鳴り出しそうになる歯の根を、散り掛けの理性を掻き集めて食い縛って、最期の抵抗とばかりに月子はきつく眉根を寄せた。

視線の先で、計らずとも零してしまった滴に標準を合わせている男の目が、再度月子を絡めるために上げられる。

捕えられたままの腕と、再び囚われた視線に、一層涙を湛えた瞳に力を込めた。

けれど、小動物の精一杯の抗いは、男にとって抵抗とは見做されなかった。

揺れる月子とは反対的に、揺るがぬ男の微笑みが脳裏に突き刺さる。


「飽きないうちは、殺さないから安心してね」

「陛下!!」


細い銀の鎖で連結された腕輪と指輪に彩られた手が、月子の総てを絡め捕ろうと蛇のようにするりと伸ばされ、…不意に割り込んできた声音に空中で縫い留められた。

叫びにも似た切迫した声と共に、扉が破裂音を奏でて開け放たれる。


「ア、ウレリオ」


濁りの一切ない澄んだあおが、重苦しい部屋に飛び込んでくる。

部屋に入った瞬間、ソファの隅に追いやられ、小さく竦んでいる月子をあおい瞳に映したアウレリオの、そのふたつの蒼穹に剣のある光が宿る。


「…………」


待ち望んでいた助けのはずなのに、事態の異常さに当てられた神経はことの急変を把握出来ず、目の前の男を跳ね退けて、アウレリオに駆け寄るという行動に移せないでいる。

そんな月子が正気に戻るよりも先に、全く惜しむ素振りも見せず、男が軽やかな足取りで月子から距離を取った。


「残念。思っていたより君の犬は優秀だな」


口先だけの戯れを吐き出した男は、まるで踊るように窓際ではためく天鵞絨のカーテンの中に溶け込んでいく。

アウレリオが腰に帯びた剣を抜刀するよりも早く、バルコニーにふらりと歩き出た男が月光の中心で微笑みを軋ませて嘲笑った。


「じゃあ、またね。えーと…ツキコちゃん、だったかな」


その一言は、呪縛のように月子の心を握り潰した。

名を呼ばれたことに、これほどまで嫌悪感を覚えたことはない。

柄に手を添えるアウレリオには目もくれず、男は己から逃れられても、ソファから変わらず動けずにいる月子の瞼の裏に、自身の髪の色よりも毒々しい笑みを残していく。

ひらりと悠長に手を振って、彼は下から吹き抜けてくる突風に逆らって、バルコニーの柵を背で乗り越え、そのまま背から宵闇に落下して行った。







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