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「叫んで助けを呼ぶなんて興醒めなことされたら、すぐ殺しちゃおうと思ったけど」


目の前でゆうらりと鮮やかなショッキングピンクが揺れる。

愉しげに笑う男の毒々しい髪色が、危機的状況からの現実逃避と絡まって、月子の現実感を狂わせようとする。

懸命に震えそうになる身体を自身の腕で堰き止めて、ともすれば助けを求めようとする声帯を叱咤し、月子は目前で微笑みを浮かべるヒトの形をした異質な生き物を精一杯睨め付けた。

月子が扉の向こうにいるアウレリオ、ないし他の誰かに助けを求めでもすれば、言葉通りすぐさまこの世から消されるのだと、第六感が警鐘を鳴らす。

はじめて感じる本当の生命の危機に身ひとつで晒されている今、月子が信じられるものは己の不可視の勘だけだった。

こちらの世界に喚ばれてからというもの、まるで指針のように正確に月子を導く第六感は今回も彼女自身を救う足掛かりとなったらしい。

侵入者の男は、己を健気に睨み付ける月子に対し、表面上だけは機嫌が良さそうに獲物を値踏みする視線に晒したまま、口を開いた。

どうやら今すぐ始末する意志は見られないようだと、都合良く判断することにする。


「見掛けによらず根性あるんだね、陛下」

「……為らないって、言ってるでしょう?」

「『まだ』?」


喉が極度の恐怖からひりつく、瞬きひとつするにも労力を要す。

それでも喋らなければ、このヒトの皮を上手に被った怪物に喰い尽されると脳裏が閃く。

肌を指す男の異質さや足許に這い寄る怖気は、月子が今まで生きてきた中で経験もしたことがないものだった。

鮮明に恐ろしさは感じるのに、それが何なのか、詳細を語ることが出来ない感覚としての恐怖。それはきっと、人間の本能として、理屈ではない部分で目の前の男に戦慄しているのだと言える。

喰われまいと精一杯虚勢を張ろうとする月子を見て、嘲弄しか含まない声が彼女の耳をざらりと撫でた。


「どうなのかな、ねえ?『まだ』為らないの?それともずっと?」

「…為らないわ。ずっと、このまま、一生よ。…私は、元いた世界に還りたいの」

「遠回しに、帝天の椅子に座る気はないから見逃せって言ってる?」

「………」

「沈黙は肯定かな」


怯える月子をじわじわと追い詰めることを、この異質な男は愉しんでいる。

いつ獣の(あぎと)が自らの喉元を喰い破ろうとするのか、そうさせないためにはどうすればいいのか。

懸命に表情を取り繕う皮膚の下で、窮地からの脱出策を模索する月子を品定めするように、出口などないのに逃げ惑うか弱い小さな生き物を憐れむように、男は決して変わることのない結末までの過程を、月子が必死になればなるほど嘲笑う。

逃げ道など、そんなものははじめから用意されていなのだと、暗に知らしめるために。

月子の蟀谷を一筋の汗が伝った。


「ねえ」


禍々しい花の色の尾を曳いて、男が更に月子との距離を詰めようとする。

これ以上醜態を晒すまいと意識を尖らせたところで、本能を冷たい鉤爪が引っ掻いていく感覚には耐え切れず、距離が縮まるにつれて月子の肩が跳ねた。

自分ではどうしようもない生き物としての生存本能が、男の存在を拒む。

ソファの背に張り付いて身を小さくする月子の手前まで足を進めた男は、その場で音もなく床に膝を着いた。

伸ばした手はか細く震える彼女の身体にではなく、柔らかなコーデュロイ生地のソファに置かれる。

簡易的ではあるが、心情の上で、そして恐らく物理的にも月子から自由を奪うには十分過ぎるほどの檻に閉じ込められる。

怯えた瞳で、されど反抗的な意志だけは消えないちぐはぐな目で見下ろしてくる月子を見上げて、男は口を開いた。


「どうして為りたくないの」

「……」

「帝天に為れるってことは、この世界の総てを手に入れられることを公約されたようなものだ。権力も金も人も土地も、この世界を形造るもの総てが、君のものになる。目も眩むような魅力的な誘いだろう?それをどうして、態々蹴る様な真似をするの?」


こちらの人間ならば、誰であろうと月子に抱くであろう疑問を、ヒト為らざるものである目の前の男も感じたらしい。

月子とて、権力や富にまったく興味がないわけではない。

人として最低限の欲は持っているし、加えてタダで貰えるものは貰っておけというのが竹内家の教訓である。これがもしかしたら、元いた世界で繰り広げられたことならば月子も諸手を上げて受け入れたかもしれない。

ただ、此処は月子の生まれ育った世界ではない。

そこが何よりも月子にとって重要な部分なのだ。

未だに夢かと思ってしまう、自分の価値観が反転してしまうような出来事に突然引っ張り込まれて、それどころか世界の覇者となることを世界そのものに望まれる。

与えられる恩恵に準えて掛かる責任や命の数は途方もなく、それを享受すれば月子は生まれ育ち、様々なものを育んで築き上げてきた元の居場所を捨てることになる。

利益も損失も均衡に成り立ってはいるが、どちらも総じて強大過ぎる。

手堅い人生を幼少から望んだ月子からすれば、考える暇もなく、そんなリスキー極まりない甘い話は蹴飛ばして当然なのだ。

けれどそれを懇切丁寧に、問いを発した男に説明してやることはない上に、素直に応じるのも癪だった。

命が掛かっている状況下で、そんなことを考える自分に苦笑する。

変わらずに身体は言うことを聞かず、脳は怖いと悲鳴を上げる。

それでも今は、どうしてか応じる気にはなれなかった。

口を噤んだまま一向に喋り出す気配が見えない月子を見て、男は瞳を細めた。

湖が凍結する寸前の冷気を孕んだ薄青と、今まさに男が背にしている透徹な孤高の黄金の月の二つの(オッドアイ)が、肉食獣の如き危ない光を混ぜる。


「いいたくないの?じゃあ、質問を換えようか」

「………」

「僕も一応、この世の道理からは外れてないからね。君が王座に無事就けば、必然、僕も君のものになる」

「……は」


確かに男は質問を換えると言ったが、そのあまりの突拍子のなさに月子は状況も忘れてぽかんと口を開けた。

先ほどまでは何故月子が王座を遠ざけるかの話をして、今度は月子が王座に無事腰を据えた際の話を持ち出してくる。

前後の繋がりが不明瞭だ。

訳が分からないが、男の言葉尻を捉えれば、もしかしたら月子にとって有利に為り得る可能性を孕んだ問い掛けかもしれない。

乾いたくちびるを僅かに舐めて、今度は月子が問いを投げる。


「……あなたが見逃してくれなければ、私の気が万が一、今ここで変わってたとしても王座には座れないでしょ。…見逃してくれるの?」


『無事』月子が王座に就けたら、の話。

就く気はない。そして目の前の男も、月子を王座に座らせるつもりはない。

これは例えばを前提にした子供が繰り返すような、正解を求めない問い掛けだ。

それでも一縷の望みがあるならばそれに縋りたかった。

月子の儚い願いを感じ取ったのか、男は殊更胡散臭い笑顔を張り付けて首を横に振った。


「まさか。請け負った仕事は余程のことがない限りきっちり遂行するよ。今回は前金もそれなりの額貰ってるしね。例えば、だよ、例えば。例えば此処で君が僕から逃れられたとして、例えば君の気が変わって皇帝に為りたくなったとする。そうして無事、例えば王座に就けたらの話。…そうしたら、僕も君のものになるよね。どうする?」

「どうするって…」


望みが絶たれたことに対して特に落胆はなかった。

きっとか細い希望などあってないようなものだと予想していたからだろう。

それよりも、支離滅裂と称しても過言ない男の問いの方に気が持っていかれる。

先ほどのように、恐らく黙秘では許されないだろう、問責。

肌を刺す空気が攻め立てるように月子を縛り、答えを求める。

問いの真意が掴めないあやふやな状態で答えるには心許ないが、細められた色違いの男の双眸が逃避を許さない。

月子の喉が鳴る。

ぐるぐると脳内を巡るいくつもの感情と自制を利かせようとする本能の末、彼女が導き出した、もしもの答えはひとつだった。


「……いらない」


小さく、けれど確かに空気を震わせた声。

至近距離にいる男が聞き逃すはずもなく、けれど想定外の返答に言葉の意味を理解することに数秒を要する。

瞬きを数回繰り返すうちに咀嚼した月子の答えに、男はこの場に現れてはじめて笑み以外の表情を見せた。

眉間にしわが薄く刻まれる。


「…なに?」

「…いらないわ。あなたのこと、特に欲しくないもの」


なにと問い返す声は、常に含まれていた嘘臭さが少しばかり抜けている。

それは、被ったヒトの皮が僅かに綻んで出来た破れ目から、黒々とした中身が零れ落ちるようで、今まで感じていた本能を刺激する恐怖とは比べものにならないくらいの、底なしの沼に足を突っ込んだ感覚が身体中に纏わりついてくる。

己を見上げてくる男の表情に、最早わざとらしい笑みはない。

怯みそうになる気持ちは手のひらを握り締めることで押しこめて、月子は自らの発言の撤回はせず、目尻に力を込めた。

じっと表情のない双眸で見返してくる男の眼差しは、必死に表面を取り繕って己を睨むことを止めない月子に一心に注がれる。

男はソファに着いた手に、いつの間にか力を込めた。


「…君が王座を治めた時点で、世界は君のものだ。僕も残念なことにこのクソッたれた世界の一部だからね。いる・いらないじゃない。既に君の手の中に、僕は在る」

「じゃあ、捨てるわ」

「……」


再三の潔い拒絶に、さしもの男も口を噤んだ。

いくら上辺だけ澄ましたところで、月子が恐怖に苛まれているのは一目瞭然の状況で、されど彼女の口調に一切の迷いはない。

冷やかに渦巻く男の雰囲気に呑まれまいと、繰り返す口調に力を入れた。


「……いらない、もの。捨てるわ。あなたも私の手の中に収まってたくなんかないでしょう?手放すから、好きにすればいい」


言いながら、これはなんて莫迦げた話なのだろうと思った。

例えば、自分がお姫様だったら。例えば、ある日突然自分が特別な存在なのだと解ったら。

幸せに準えた例えばは幼い頃に散々考え妄想を巡らせたが、こんなに辛く苦しく重い例えばは初めてだった。生き死にが掛かった『たられば』など、もう二度としたくない。

そんな想いを乗せて、月子はありもしない例えばに自らの命を掛けた。




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