忍び寄る月と影
誰かに信じてもらうには、まず自分が相手のことを信用しなければならない。
そんな夢見がちなことを抜かすわけではないが、その理屈は道理には叶っているのではないかと月子は思っている。
…普段であれば実行するしないは別の話にして、になるが。
抱え込んだ覚悟が大きいならば尚のこと、相手に信じてもらうことは容易ではなく、また同等にそれが最重要事項だということも理解している。
己の中で意味を成すものが大きく、それ故孕んだ覚悟と想いが強いならば信用に足る相手でないと安心して心を晒すことは出来ない。国の平穏、というこれまで縁遠く、これからもまったくないと思っていた大きな荷を抱えたのだから、利害の一致という表面上だけの関係に多大なる不安を覚えてしまう…それが甘いのだろうか。
自分自身も相手を信用出来なければいけない状況下で、この国、サルトテスラの王と見え、彼の人ととなりを短い時間でも感じられたから、信用に足ると思ったからこそ、嘘偽りない、本来ならば隠した方がいいほど泥濘とした内面を月子は吐露したのだ。
だけれど、誰が聞いても利己的で、相手側に有益になるものがひとつもないような月子の願いは、帝天であるないの前に、ひとりの人間として破綻していると言ってもいい。
月子に背負う国があるように、オートバルにも背負うべき国がある。
恐らく王座に腰を据えていない月子よりも、余程彼の方が守るべきものは多いだろう。
その場で切って捨てられても可笑しくない提案である。
もしもの最は、背後に控える四人の騎士が身を守ってくれるのだという他力本願な確信の元、それでも多少の反撃――物理的にも精神的にも――は覚悟の上で下げた頭は、オートバルの意外な言葉にすぐに上げることになった。
「少し時間を頂きたい」
都合の良い方向に持って行きたい自分の聞き間違いかと思い、慌てて顔を上げる。
その先でこれといって表情を変えず、目を丸くする月子の視線を受けたオートバルは、こう続けた。
「私ひとりでは流石に決められぬ申し入れです故、少々お時間を頂きたい。貴殿の申した、不敬罪云々は今のところ不問に処しましょう。私としても無理な願いを聞き入れてもらった身でありますから」
「私は」
「貴殿が王になるつもりがあろうとなかろうと、その可能性のあるもの、つまり登極していない帝天になるやもしれぬ御方であることに変わりない。私が使者として我が国に訪れてほしい、と希ったお相手は、帝天ではなくその可能性のあるものですよ」
「…オートバル様」
先ほどからオートバルの顔に笑みが浮かぶことはなかったが、月子が不敬な発言をしたこと、無法な提案を申し入れたことを鑑みれば寛大すぎる処置である。
心の底からもう一度頭を下げれば、その合間に椅子が床を滑る音がした。
見れば、オートバルが席から立ち、夕餐の間を退出するために背を向けたところだった。
言葉通り、今すぐにでも他方からの意見を取り入れ、月子からの要請及びこれからの処遇を決めるのだろう。
去り際に引き続き丁重におもてなししろ、と城仕えたちにオートバルが指示を出している声が聞こえてきて、月子はか細く嘆息した。
「陛下は結構唐突だね」
「…面目ない」
アウレリオにさらりとした調子で言われた言葉は、深く月子の胸の内に刺さった。
自分自身でも自覚があることだから、更に反省は色濃くなる。
「…考えながら行動してるんだけどね」
「考えながら行動してるから唐突なんじゃないの?」
「う…」
アウレリオの言う通りだ。
先まで見通して行動を起こすことは難しい。
自分がそんなに器用ではないことを月子はよく知っているし、そんなことが出来るほどの才能の持ち主でないこともよく分かっている。
それでも多少は先を見通して、計画を立ててから行動を起こすことが最善だろう。
月子の場合、その下準備が抜けている分、行動しながら思考し、なおかつ手探りで考えを纏めている節がある。
昔から現実主義だったにも関わらず、そうしたところで冷静さや慎重さを欠くから、思ったよりも手堅い人生を歩めなかったのかもしれない。
言葉に詰まった月子に、青年は首を傾げた。
「僕、外に出てようか」
「え?」
「ひとりになりたい?それともなりたくない?余計なお世話だったら、安全面から考えると傍で護衛していた方がいいから今の発言取り消すけど」
「……」
前後の脈略がない問い掛けは、青年なりに気を使ってくれたのだとわかる。
見た目に反して豪快で淡泊なところがあるらしい彼は、昨晩から続いている護衛の役を果たすため、夕餐の間を退出した後も月子の後をくっ付いて来た。
与えられた部屋に到着するなりソファに雪崩れ込んだ月子の隣に座って、悶々と頭を抱える月子の傍で他愛もない会話に興じてくれた彼は、どうやら月子自身すらも気付いていなかった胸の中で疼く昏い気持ちを察してくれたらしい。
言われてからはたと自覚した思いに睫毛を震わせる。
どうする?と確認のために今一度、小首を傾げたアウレリオに、月子はおずおずと申し出た。
「じゃあ…ちょっとだけ」
「うん。わかった。扉の前にいるから、なんかあったら呼んでね」
「…ありがとう、アウレリオ」
「陛下のお役に立てたなら光栄デス」
茶化した言葉遣いを残したアウレリオはあおい髪を翻し、細工が施された豪奢な扉の向こうに去って行った。
ぱたん、と軽い音を立てて閉じた扉を見届けると、途端に身体中の力が抜ける。
まだ夜会服に身を包んだままだというのに、ソファにずるずると背で滑って倒れこんでしまった。
「………あー」
情けなく呻き声を上げて、両手で顔を覆う。
夕餐では勿論のこと、自室に通されアウレリオと会話を交わす間も張っていた気がようやく弛んだようだった。
心体共に自身で感じていたより疲労を蓄積しているらしく、身体は貪欲に休養を求める。
大人しくそれに従って目を瞑り思考を遮断しようと試みても、身体は間違いなく疲労しているのに、尖りきった精神が月子に安息を許さなかった。
「…………」
突然背負わされた望まない役名と役割は、これまで平凡だった竹内月子にとっては荷が重過ぎた。
澄ました言動を繕うにも限界があり、一貫した姿勢を突き通すだけの盤石な信念もない。
こうあればいい、こうしたい、こうしなければ、思ったところで現状は変わらず、またそれを目指して動いたところでそれでも変わらぬことの方が多い。
世の中を俯瞰出来るほどの知識や経験はなく、また生まれ育った世界とはかけ離れた場所に立たされていることも重荷となって今の月子を押さえ付ける。
進める道は前だけという、背後も左右も断崖が築かれた頼りない進路の中で、それこそ重圧に潰されないよう前に足を進めるしかないのだ。
最終的に果たすべくは、あの国の平和と引き換えに自身の元いた世界への帰還である。
断崖に縁取られた道の先は長く、そして険しいだろうということが容易に想像出来た。
「こんばんは」
「っ…!?」
唐突に、黒に塗り潰された月子の思考を無遠慮に切り裂く声が木霊した。
驚きに跳ねる心臓が、心労に苛まれる身体を突き動かす。
勢い良くソファから跳ね起きた先、反射的に声が聞こえた方向を視線で辿れば――その姿はサルトテスラの王城の中庭を一望出来る嵌め込み硝子の正面に在った。
まるではじめからそこに在ることが自然なように。
音も気配もなく、その姿は宵闇に溶け込み浮かび上がり、そこに在った。
考えるべくもなく、侵入者である。
月子が次期の帝天として命を狙われている現状を考慮すれば、この侵入者がどうやって此処まで入り込んできたかは置いておくにしても、こうした事態に陥ることは可笑しいことではない。
考えられることであり、それを防ぐために七騎士が身を削って護衛を務めているのだ。
どうするべきか、月子はちらりとアウレリオが去って行ったばかりの扉を一瞥した。
あそこまで自ら走って逃げ出すべきか、それとも大声で助けを呼ぶべきか。
しかし月子が危機的状況からの脱出口を探れたのは、そのほんの数秒で、すぐに彼女の思考は他のものに支配されることとなる。
「随分お疲れのご様子だね、皇帝陛下様は」
開け放たれた窓から吹き込む風が天鵞絨のカーテンを巻き込んで舞う。
目にも鮮やかなその赤いカーテンの隙間に佇む声の主は、月が冴え冴えと浮かぶ夜空を背に、無明の闇を砕いたかのような声音で縷々と続けた。人肌が灯らない底冷えする肉音なのに、嘲笑の響きだけは耳の奥と言わず、身体中に突き刺さって伝わってくる。
その途端、身体の毛穴が全て開き切ったようにぶわりと怖気が走り、月子の余裕とも取れる逃走への模索は脳内から消し炭となって散った。
五感の全て、意識の全てが男に強制的に向けられる。
「どうしたのかな。何か厭なことでもあった?」
耳触りは良いのにも関わらず、人を不安定にさせる声。
意図的に明るい口調で繰り出される侵入者の問いに、月子は知らず知らず答えを発していた。
「……まだ、皇帝ではないわ」
「『まだ』。さっきまで為らないって、言ってなかった?」
「…………」
わざとらしく、これ見よがしに傾げられた首と問いにその通りだと返答する前に、月子を違和感が襲う。
事もなさげにさらりと告げられた言葉が、月子の中で大きく渦巻いた。
私が皇帝に為らないと公言していることを知っている…?
セグセンビーアにはじめて召喚された瞬間から、月子は王座を拒否し続けてきた。
訪れた新たな日常はあまりにも突拍子もなく、受け入れるにはあまりにも全てが窺い知れなかったから、だからこそ拒否を重ね続け所構わず公言していた否定の言葉は、だが国外どころか国内にすら知れ渡っておらず、極僅かな一部の人間に掌握された月子のことばの事実は綺麗に隠蔽されていた。
それ故に、今回サルトテスラと月子の間で誤差が生じたのだ。
隣国と距離も近しく、また諜報にも優れた同盟国であるサルトテスラにすら知られていなかった何重にも覆いひた隠しにされている事実を、どうして目の前の個単位でしかない侵入者が知り得ているのだろうか。
ぞろりと忍び寄ってくる冷気と不穏な気に押されて、気付かされた何かに月子の瞳が徐々に見開かれる。
絶対的に守られていると確信していた空間に、突如捻じ込まれてきた異質のもの。
それは月子がいま置かれている状況を、認識の甘さと共に彼女の喉元に刃となって突き付けられた。
顔色を失っていく月子を見定めて、侵入者の黒に塗り潰された笑みがカーテンの隙間から覗く。
まるで月子の心の内など全て見通せているとばかりに、侵入者は嘲笑った。
「どうしてだと思う?」
「……あなた、が」
喉が渇く。己の意志とは関係なく、身体が凍ったように動かなくなった。
空気に呑まれつつある月子の様子を目敏く感じ取った侵入者が、勿体ぶる足取りで一歩、カーテンの波から抜け出してくる。
「権力者ってのは大概薄汚れてるにも関わらず脳なしばかりだと思っているし、事実そうであることの方が多いんだけど…中々どうして、今期の帝天様は意外と頭が回るんだね。察しが良いってことかな」
穴の淵から童話の化け物が手招きをしながら這い出してくるように、天鵞絨のカーテンの檻から侵入者が進み出てくる。
彼の足がひとつひとつ、カーテンと同じように柔らかな毛足の長い絨毯に軌跡を刻むたびに、月子の鼓動が同調して大きく高鳴った。
「はじめまして、我等が世界のお母様。あなたの世界を奪いたいと望む輩に雇われて参りました、ミリオ・フォンと申します。…以後、どうぞよしなに」
月子が座るソファの手前まで近寄って来た侵入者は慇懃無礼に胸元に手を当て、腰を折った後に、にこりと笑ってみせた。
身体の動きに合わせて、目の毒とも言えるほど鮮烈な躑躅色の髪が揺れる。
色鮮やかなそれを無意識に目で追って、その動作で月子はようやく瞬きもせず固まる己に気付かされた。




