ビッグ・クレイジー
軍令部の射撃場に足を踏み入れた瞬間に、腹の底に重く響く音が月子の耳元で爆ぜた。
驚いて肩を跳ねさせると、ウォルターがその跳ねた肩に手を置いて、大丈夫だからと告げてくる。それから声は漏らさず口の動きと動作で、音の発生源に行こうと伝えてくる。
断る理由もないので大人しく従って、射撃場というからにはやはり射撃を行う場所らしく、壁に所狭しと並べられ棚に揃えられた重機の数々と、そこら中を漂う火薬の匂いと埃っぽさ、月子が見ただけでは用途など想像もつかないものまで沢山のものが混濁している中を横切って行く。
尚も耳元で鳴り響くような空間を震わせる破裂音が次第に、更に大きくなり、耳栓でもその辺りに落ちていないかと本気で床を這いずり回ろうと思い出したところで、ウォルターが歩みを止めてその先を指差した。
破裂音が邪魔をして上手く声が聞き取れないが、微かにマティウス、と聞こえた気がする。
曲がり角の手前で止めた足を少しだけ動かして、顔だけをひょこりと角から覗かせた。
「…あの人…?」
「そう、あいつ。マティウス・ヒルヴィサロ」
壁の角から頭だけを出して、月子につられたのか同じように顔だけ覗かせたウォルターと連なる団子状態になりながら見た先にいたのは、確かに動く黒い人影だった。
ただ、此処からでは月子の視力では明確に顔や身体の細部まで見ることが出来ない。
人影が一定のリズムで繰り返す動作の途中で、あの鼓膜を揺さぶる破裂音が造られていることだけはわかった。まあ射撃場だし射撃してるんだろうな、と当たり前のことを認識した月子の頭上から、ウォルターの不思議そうな声が降ってくる。
「つーか陛下、オレ等なにやってんの?」
「敵情視察…かな」
「敵って…。マティウスはあなたの手足ですヨ。オレもだけど」
「いいから、そういうのは。大体、ウォルターが脅すからいけないんでしょ?」
「オレ?心外だなあ。オレはただ事実を言っただけだぜ」
「それが私からすると脅しなんですー」
「確かに一筋縄じゃいかないけど、陛下は“陛下”なんだろ。権限というか王権振り翳せば叶わないものはないんだから、むかついたら黙らっしゃいで一発だ」
「だから、私はその権限がいらないから今こうやって…」
「なにをしている」
帰るために頑張ろうとしてる最中なんでしょ、と続けるはずだった言葉は何者かに遮られた。驚きと、続けて襲ってきた後ろめたい気持ちにごくりと喉が鳴る。
何者かに、だなんて相手が誰かは重々承知しているし、実際間違いではないのだろう。
…団子状に連なるため、身長差のために自分より高い位置にあるウォルターの顔を見上げて話していたために、接近に気付かなかったのだろうか。
ギギギ、と錆び付いた動きで前方へと視線を顔ごと戻せば、予想通り、マティウス・ヒルヴィサロその人が月子とウォルターの目の前にいた。遠目からではマティウスの容姿などの詳細はわからなかったので、この人物がマティウス・ヒルヴィサロその人だという確証は今のところ月子にはないが…第六感が告げてくるのだ。この人が七騎士のひとりだと。
果たしてやはり予想は的中し、冷や汗で頬を濡らす月子とは打って変わって爽やかなままなウォルターが、彼に向って親しげに片手を挙げてみせた。
「よ、マティウス。議会の招集がかかったから呼びにきたぜ」
「議会だと…?誰だ、ぐだぐだと実のない話しかせず何時の間にか頭の堅い盆暗爺共の自慢話と牽制話に摩り替わり挙げ句なにか実利になることが決まったことすらないそんな七面倒かつ徒労にしかならない議会とは名ばかりの茶番劇を進んで招集する莫迦は」
そう言い捨てたマティウスは、不遜な態度で腕を組み、位置的に目下にいる月子たちを位置だけでは説明出来ないほど冷やかな視線で見下ろしてくる。
小さな天窓から降りてくる淡い日差しに照らされると紫がかって見える黒の前髪の隙間から覗く、蛇の舌のように毒々しい紅い双眸が冷気を孕んで月子を射抜く。
視線に刺されると錯覚するほど鋭く正面から見据えてくる瞳は、しかし、月子自身を視てなどいなかった。厚い氷に覆われた絶対零度の紅い瞳は、竹内月子という人間に微小ながらの興味もなく、ただそこに在るものとして、ただの『もの』として映しているだけに過ぎない。
こちらに来てからやたらと発達した第六感が、再び鳴り出し月子にそれを伝えてくる。
負の感情しか見出せない眼が眇められ不快を訴え見詰めてくるのにも関わらず、何処までも月子に興味がないと雄弁に語るふたつの紅を、思わず寄った眉間のしわで睨み返した。
大体さっき、ウォルターが議会は陛下が招集しないと集まらないものでなんたらかんたら、って言ってなかったっけ。ということは、必然的にこいつは己に喧嘩を売っているのだと、第六感でもなんでもない、月子の短気が敏感に感じ取る。鼻につく態度も出で立ちも、こうなれば最早言い掛かりも甚だしいがマティウスの纏うもの総てに腹が立ってくる。
顔を突き合わせて早々に、不躾極まりない男だと不快が募る。
「お前機嫌悪ぃの?よく喋るな」
不機嫌を露わに急降下していく陛下の心持ちを察したのか、ウォルターが慌ててふたりの間に割って入って来た。彼にしては珍しく、引き攣った頬を携えて。
それから月子にフォローを入れるように、マティウスの瞳の冷たさを指摘する。
「眼がマジだぜ」
「五月蠅い黙れ」
「ははあん、さては今日シシー様に会えなかったんだろ?それで機嫌が悪いわけだ」
「聞こえなかったのか。五月蠅い黙れと言った」
「…はいはい」
こりゃヒューかシシー様じゃなきゃ無理だわ、と誰に言うわけでもなく呟いてウォルターは背後を振り返った。
ウォルターが、ただのウォルターとしてマティウスと対峙する場合は彼の傲慢さは無論許容の範囲で、マティウスはウォルターにとって良き同僚であり友人でもある。普段はどれだけ上から物を言われようとも、今のように五月蠅い黙れと罵られようともめげて黙ることなど全くもってない話であるし、気にも留めない。
ただ、今日はあくまでもウォルターは月子、皇帝陛下の護衛役としてこの場にいるのだ。
陛下の気持ちを無碍になど出来る訳もない上に、七騎士である同僚が知ってか知らずか陛下の御身に暴言を吐くものだから、これは見過ごすことは出来ない。
この言い方はいくらなんでも不味いと、ウォルターですら理解出来る。
けれど残念なことに、蔑むような眼差しで人を見るこの男にウォルターは口で勝ったためしがなかった。本人も勝てないと重々わかっている。やれることと言えば、ウォルターだからこそ出来る奔放な屁理屈で呆れた彼を丸込めるくらいだ。
だからこそ、それを行使しようと実行したのだが、それすらも普段の数倍は機嫌が悪いらしい男には無意味だと少ない言葉を交わしただけで悟ったウォルターが振り向いた先にいたのは、親の敵を見る据わった目付きで床を睨み付ける月子の姿だった。
恐る恐る陛下、と呼び掛けたウォルターに、いつもよりトーンの低い声が答える。
「いーよ、別に」
「そういうわりには御顔が怖いです陛下…」
「気にしてないから。ウォルターが気にすることでもないでしょ」
「そういうわりには御顔が…」
「なに」
「…いつも通り可愛いですね」
「そう?どうもありがとう」
ふん、と鼻息荒く答えた月子がくちびるを尖らせる。
短気は損気と言ったもので、沸点が低いせいで損をしてきたことが数えるくらいにはある彼女は、大人だからこのくらいじゃ怒らない、とまるで子供のように自分に言い聞かせる。
帰るまでの辛抱だと信じて、気を遣って八つ当たりの対象にまでなってくれたウォルターへの感謝の気持ちで無理矢理熱くなった心の底を沈めることに努めた。
「あー…じゃあ、行くか、ね。な、マティウス。ジジイ共が集まってんのに、お前が行かないわけにはいかないだろ?後で厭味言われんのはオレじゃないぞ」
「わかっている」
平素ではない月子と、ありのまま平素過ぎるマティウスに挟まれてウォルターは悉く居心地が悪そうである。こういった場面を起こす側になったことはあっても、それを鎮める側に回ったことはないのかもしれない。
しどろもどろになりながらとにかく先を促すウォルターに、マティウスは近くの重機が無造作に積まれた棚に掛けてあった長外套を手に取ると、わざわざ軍令部まで呼びに来た月子とウォルターを置いて、ひとりで足早に射撃場を後にした。
颯爽と去って行ったマティウスの背中を見ていた月子の肩が揺れている。
触らぬ神に祟りなし、とばかりに震える月子に声を掛けるかどうか真剣に悩むウォルターの耳を貫いたのは、月子の怒りを孕んだ叫びだった。
「私!あいつ!無理!!」
「落ち着けよ、陛下…」
「だってなんか生理的に受け付けないんだもん!なにあれ!」
「いや、でも悪い奴じゃないんだって、ほんとに。…良い奴でもないけども」
「あれが!?あれで!?あんなんで!?」
「…今日は特別機嫌悪いみたいでさ…許してやってよ」
「………」
ぽりぽりと頬を掻くウォルターが困ったと眉を下げる。
腹が立ってはいるものの、周りが見えなくなるほど我を忘れたわけでも自制出来ないほど怒り狂っているわけでもなかった月子は、快活さの欠片もない表情で自分を窺ってくるウォルターを視界に入れて、はたと動きを止めた。
まだまだ少ない時間しか共にしていないが、丸っきりウォルターのことを知らないわけではない。そんなウォルターが“皇帝”という立場にいる己が暴言にも等しい言葉を浴びせられたのに気を遣いつつも、マティウスという男のことを庇うのだから無視するわけにはいかなかったのだ。
今さらながら、ぎゃあぎゃあ騒いでから気が付いたが、月子にとってはあんなんでも彼にとってはあの男は同僚であり、友人でもあるのだろう。だったら、そう思っているウォルターの前であまり悪口を言うのもな、と改めて、尖らせていた神経を急速に引っ込めた。
相変わらず困った表情で自分を見詰めてくる大きなシルバーグレーに、苦笑を向ける。
「誰の顔に免じて?」
「…オレの」
「………ん、いいよ。私もごめんね」
「え、なんで陛下が謝るの」
「だってあいつウォルターのトモダチなんでしょう?ごめん、友人の悪口言われて良い気はしないよね。ちょっと大人気なかったかも、私。…気に入らないのは本当だけどね」
今思い出しても腹が立つ。
まだそこらに転がっている小石に向ける視線の方が興味を籠めた意志を宿しているのではないかと思うほど乱雑な紅い眼を向けられて黙っているほどお優しくないのだ、と溜め息混じりに吐き出した。
ただ、あの男によって培われた不快さを同じフィールドに立っているであろうウォルターの前で好き勝手に吐露するのは違うだろう。
それでも思うようには収まりはきかないやり切れない心中を溜め息で誤魔化す。
先ほどの弱った顔をしていたウォルターがその心中に思い浮かんで、月子は今一度ウォルターに謝罪を向けた。
「ごめんね。次からは…悪口言わないだと嘘吐きになりかねないから、気を付けて言うって宣言しとく」
「………」
「…なに?どうしたの?」
真面目に謝っているのにも関わらず、向けられている張本人が上の空なのに気付く。半開きの口ときょとんとした瞳にうつっているのは月子だが、どうも心此処に在らずの状態のようだ。
どうしたのか、と問うが反応が返ってこない。眼の前でぱたぱたと手を振ってみたり頬を突いてみたりしても返答はこず、月子は眉間にしわを寄せた。
「ウォルター?ねえ、どうし…」
「へいか…!」
「ええっ、ちょっと!なに!?」
と、思ったのも束の間、今までの静けさが嘘のようにウォルターが唐突に表情を一転させた。きらきらと顔を輝かせ、長い腕を広げて瞳を純真に光らせ、どうしたことか月子に全身で抱き付いてくる。
その勢いに押されてぎゃあ、と可愛げの欠片もない悲鳴を上げながら後退さるが、何の意味もなく簡単に捕獲されてしまう。
「ちょっ…!?」
「オレさあ、ヒューとかリリスとかシシー様が陛下は御心が広くて優しくって何処までも寛大な御方だって言ってたの始めは何処かふーんって頭の隅で聞いてたんだけど、確かに実際会って話して見たらアウレリオに聞いたみたいに面白いし可笑しいし、今までオレが会ったことないタイプだし、しかもそれで皇帝様だし、この間言ったみたいに今期の皇帝さまは女の子だし笑顔が可愛くてラッキーって思ったって言ったの嘘じゃねーけど、なんかもうそんな域じゃないのかもしんねー!陛下すげーよ!」
「は?ちょっと、なに言…てゆーか苦しっ…!」
突然巻き付いてきて、ぎゅうぎゅうと胴体を締め付けられる。
騎士という名の通り鍛え上げられた胸板に押し付けられても喜ぶ余裕もなく、ウォルターの訴えに耳を傾ける余裕もなく、月子はただ空気を求めて激しく息を吸い込む。
一心不乱に、抱き締めるというよりは絞め付けるように己の胴体を抱え込む逞しい腕を開放を求めて必死に叩く。
「くっ…るしいったら…!」
「わかった」
切実な訴えが届いたわけではないだろうが、抱き締められた時と同じく唐突に開放された。
両肩を掴まれて一定の距離を保ったまま咳き込む月子に、ウォルターは輝く双眸のまま大きく頷いて子供のように無邪気に歯を見せて笑ってみせた。
「うん。そうだ、わかった」
「は?」
「やっぱオレ、陛下に帰って欲しくないや」
「……………はああ!?ヤだよ!私帰るよ!今さらなに言ってんの!?」
爛漫に笑った顔でぶつけられた発言の意味を理解して、数秒後。大音量を反響させて月子は射撃場を揺るがせた。
突然何にそう思ったのかはわからないが感激して、抱き絞められたと思ったらあまつさえはたまた唐突にこいつは何を言い出すのか。理解出来ない言動を繰り返すウォルターを理解することを放棄した月子は、射撃音にも劣らない大声でその言動を真っ向から否定し、ぶんぶんと顔を横に振った。
先ほどまで自分があちらに帰ることに対して大した反応も示さなかったくせに、今さら何を考えての発言なのだろうか。冗談にしては眼が真剣過ぎて、嘘だろうと笑い飛ばすことも出来ない。
「ええー、やだあ。もっと一緒にいよーぜ、へーか」
そんな彼女の苦悩も知らず、当の本人は駄々をこねる子供の如くつまらなそうに頬を膨らませた。大の大人、しかも一般的な男性より大きなお前がそんなことしたところで可愛くもなんともない、と口から出かかるが、それよりも優先して言うべきことを見付けた月子は相変わらずの大声で言い募る。
「絶対いや!断固拒否!!帰るったら帰る!」
「そんなこと言わずにさあ。オレが心身ともに尽くすから、どーよ?」
「い、や、だ、ってば!いらないよそんなオプション!どーよじゃないよ!大体そういうのがわけわかんないから私は帰りたいの!」
「じゃあ陛下がオレに尽くしてくれんの?いやあ、悪いね」
「帰るって言ってんだろ!」
「あだっ!!」
のらりくらりと、本人が意図的にやっているのかは定かではないが平行線を歪んで辿るウォルターとの会話に、図らずとも先ほどの怒りは姿を潜めた。
ぎゃあぎゃあと忙しく喚く月子の怒った表情に、密やかにウォルターが意味を含んだ笑みを口の端に乗せたのはまた別の話である。




