第二十四柱 ロールシャッハ
青年の名を叫び店の裏口から、狼狽えた少女が飛び出してきた。
淡い毛髪、淡い瞳、街灯の光にあどけなさが滲む。
『彼等は甘噛みで喉笛を食いちぎる』
アルナラの言葉が脳裏を過る。
そんなことは、わかってる。
「ディオルコ、無事っ!?」
「どうした?」
忘れてはいない。最初にあった日のコイツの瞳を。
捕食者の瞳孔を。
皆が彼女を化け物と呼ぶ。悪魔と呼ぶ、鬼と呼ぶ。
幼い頃読んだ絵本は―――…最後の頁、醜悪な化け物の涙に誰もが胸を打たれることを想定し描いてあった。
しかし、現実は?
「アルナラは…ユヅィーなの!!」
青年の揺らぐ瞳がイブキを捉える。ARNALAが用を終えて去った今のディオルコには、状況があらかた理解できた。
「…ARNALAならたった今までここにいたよ。店で見たアルナラはずっとユヅィーだ。」
…いや、『本物のARNALA』以外は、例え姿かたちがアルナラであろうとなかろうと、『ただのルルカ』の一人。ARNALAの手足だ。
「お前、ルルカにからかわれたんだよ。あの後アルナラが来たのか?」
「えっ、うん…ディオルコがいなくなったあと、アルナラが私の前に現れたんだけど、それは実は…」
「…ユヅィーだったんだな。お前、なぜわかった?」
「ディオルコ、知ってたの!?なんでそんな落ち着いて…私はてっきりユヅィーと二人になったディオルコが変な目にあってるんじゃないかって…!いや、それよりも!はやく!」
イブキがディオルコの腕を引っ張り、店の戸に手をかける。
「ポチさんが!」
「え?」
イブキの口から想定していない人物の名が飛び出すと同時に、戸が開く。
「……」
「…………」
「…ポチ?」
ディオルコは柄にもなくキョトンとした。嫌でも目に入ったのは、アルナラ(の姿をしたらしいユヅィー)と仁王立ちで対峙する巨大な怪人、ポチの姿だった。ポチの巨体は、明らかにイブキを追って外に出ようとしたユヅィーを阻み、ユヅィーは既に漆塗りの武弓を手にしていた。
知らない間に滅茶苦茶に一触即発になっていた。
「何してる?」
「ラスティ!このデカブツをさっさとどかしてください―――…」
右足に完全に重心を乗せ、見下すようにまるで別人となったユヅィーが悪態をつく。青年がRustと呼ばれていることを知ってのことだろうが、彼女が言うRustyは絶対に悪意がある。
「どかすもなにも、なんだこの状況は?」
「そこのDivinesとチョーット遊んであげようとしたら、こいつがしゃしゃり出て来やがったんですヨ。」
はっ、と笑うユヅィーの口角は微塵も上がっていない。
実際、ルルカは自分達をなんだと勘違いしているのか…彼らの大半がヒトを舐めた行動をするもんだ。
「お前みたいなのがいるから、根無し草|は滅んだんだと思うがな。」
どうせ心の内が読まれてしまうなら、と放ったディオルコの辛辣な一言が、見事ユヅィーの地雷を踏んだ。アルナラの姿のままユヅィーは、ワナワナと震え出した。
「!…ユヅィー、お前…。」
虎のように見開かれたその瞳は黒く、殺意を叫び、ディオルコの知るアルナラのモノではなかった。
「こいつは―――、こんな、地上で好き勝手しやがった―――――ワタシはお前の存在を赦さない、共々地上から消えるがいい!」
てっきりルルカというものは、全てARNALAのようなどこか人類を俯瞰した思考の持ち主だと思っていた。しかしそれは誤解だったことを、今この場ではっきりと感じた。
これほどまでに感情を露わにしたルルカを彼は初めて見た。
ふぐぅ、と吐息混じりの弱弱しい咆哮とともにユヅィーは目にも留まらぬ速さで武弓を構え、ディオルコは反射的に刀の柄に手をかけた。
―――待て、俺は一体この後どうする?
怯んだのは相手も同じだった。目を見開いたまま巨人を凝視し、キリキリと弓を引いたまま堪え、その指先は真っ白に硬直し、息は過呼吸を起こさんばかりに細かく震えている。弦が悲鳴をあげていた。
その場は張りつめ、誰一人動かなかったが、やがて
「………アルナラ、様…」
びくりとしそう呟いて、弦を緩めると同時に一瞬肩を落としたユヅィーは、音を立てて表扉を開け放ち、風のように飛び出していった。
「………」
誰も追わず、声も発さず、しばらく時が流れた。
…謝罪をするべきだったかもしれない。
「いっちゃったね…」
イブキがぽつりと、呟いた。
「ARNALAが介入したんだ、多分な…。」
「?」
「奴はルルカの司令塔だからな。…しかし、本当に一体なんでこんなことに?」
ディオルコはポチとイブキを見た。
「え…と、私にもよく…」
「あの者が、イブキに何かをしようとしたんだ。」
ここでやっと、ポチが言葉を発した。
「何かって…?」
イブキは覚えがないようだ。
「何かはわからない。あの者は君を覗き込んで…。俺は目は良くない。色や形なんかは、普通の人間と比べるべくもなく、認識できない。…だが、体温を始めとして、血の巡り、活性化している部位など…君達の体の状態は見ることができる。結論として……放っておけば君が、別人になってしまうと思った。」
イブキもディオルコもぎくりとした。
白いイブキの顔は青ざめた。
「ユヅィーは一体何を…」
「私、ただ、匂いで…。ユヅィーに初めて会ったときと同じ、ほんのり植物の匂いがしたから…。それで、貴方はアルナラじゃなくてユヅィーねって、それで驚いたユヅィーの瞳を見たら………なんかざわざわして…」
「その後すぐにポチさんがやってきて、ユヅィーが怒って、それで私ディオルコを急いで呼びに行って…。」
「…。ルルカの瞳は見ない方がいいぞ。しかしその…、『ざわざわ』ってのはつまり」
ルルカの瞳を見た何らかの影響で、イブキにDivinesとしてのスイッチが入ってしまっていないかが危惧された。
「ち、違うよっ!大体それならリキの瞳をみたときにとっくに…!」
青年の眼光が鋭くなる。
「『リキ』だと?最初に死んじまったお前の友達だろ―――ルルカだったのか?聞いてないぞ!お前、ルルカがずっと傍にいたのか!?」
イブキは狼狽えた。こういう時のディオルコは苦手だ。
「わ、わ、わ、私、あの日リキがルルカだって初めて知ったの!ずっと隠してたって…」
「どういうことだ…。辻褄が合わない。ルルカが傍にいながら、連中はなぜ俺にお前を探させた?」
「え、だって私を探させてたのって、ディオルコのこんにゃく…」
イブキは噛んだ。ディオルコも一瞬ちらっとイブキを見た。
「婚約者の…『エリス』さんじゃなかったの!?」
「『お前を探す』というエリスの願いとルルカの要求は偶然一致していた。結果的に俺は両方から請け負う形となった訳だ。…イブキ、俺にはその『リキ』という少年が、お前の存在を仲間内にも隠していたようにしか考えられない。しかし、そんなことが可能なのか?ルルカ同士で情報の隠蔽が可能だとしたら…いや、そもそも少年はなぜ仲間にお前のことを隠していたんだ…?」
ディオルコはしばらく考え込んでいた。
ユヅィーが今回試したのは…もしや―――まさか。
「…ディオルコ?」
「イブキ。お前、今回連中と接触する前と後で、変わったことはないか?」
「え?…特には…」
「本当だな?」
「うん…」
ディオルコは落ち着かなかった。ダメだ、この仮説を許せば、なんでもアリになってしまう。
一旦離れるんだ―――…
「しかし、ポチはよくユヅィーを止めに入ったな。」
負い目もあるだろうに、ポチの通常の気性を考えると、あまり似つかわしくない行動だと思った。
この怪人はすぐには口が回らない。やや間があって、訥々と怪人は答えた。
「イブキにかなり無理のある変化が起きようとしていた。…変わって欲しく、なくて。」
◆
「素晴らしい!最高傑作だ!」
誰かが叫んだ。壇上には見事な大輪の胡蝶蘭。
「しかし―――…賞賛すべき相手がいない。」
大輪の横に立つべき芸術家は、終ぞ現れなかった。
「最近あちこちで流行りの、あれですかな。あらゆる絵画、作曲、果てはこのようなまさか蘭の品評会にまで。」
誰かは苦々しげに言った。
「無名の。何者かが。その分野の傑作品のみを置いて去る。とんだ道場破りだ。迷惑極まりない。」
「しかし誰が?一体何の目的で?」
「意味不明だ。きっと複数人の団体に違いない。一人でそれだけ全ての分野に精通するのは不可能だ。」
「可能な者なら、いますよ。我々が良く知る偉大な芸術家だ。」
誰かがニヒルに笑った。
「ほう、それは一体?」
「―――『悪魔』ですよ。」
◆
「おやあ?蘭はもう終わったのかい?」
白い床、白い壁、白い天井。にんまりとした口。男とも女ともつかない声が、そう問いかけた。
部屋に並ぶ無数の白い胡蝶蘭。その中に一つ、白い頬、左右対称に唇を真っ赤に血に塗らした、ひときわ目を惹く蘭があった。
「これは提出さなかったのかい。」
「気に入っててね。」
答える青年の華奢な針金のようにまっすぐ伸びた前髪が揺れた。白い床。白い椅子。白いピアノ。その白に溶け込むような男が、影だけを黒く落としていた。
「何が君を駆り立てる?」
「…炭に残った炎に拘ると、いずれ灰となって燃え尽きそうでね。」
白い椅子に座り白い腕で山羊の仮面を撫でながら、隆々とした太い喉で弾く若い声で、ただ彼は台本を読み上げた。
奈落のような眼窩を照らす淡青の瞳は、不気味なほど澄んでいた。




