第二十三柱 審判
時に、紛い物が、本物を越え、美しく輝くことがある。
イブキが店の扉を跳ね除け慌てて飛び出したときには、既に少年の姿は、影も形もなかった。
「………………」
ただ茫然と、踏み固められた赤土に立ち尽くす。肩で息をする。その肩に、ふいに手を置かれた。
「どうした?」
錆びた瞳の青年が、驚いた表情でこちらを覗き込む。その声にほっとしたイブキの感情は決壊したかのように―――…とはならず、青年の顔を見た瞬間言葉を詰まらせてしまった。
「どうかしたのか?」
表情だけは大真面目な青年の、堂々文句あるかと言わんばかりの女装のインパクトを前にし、なんと返していいかわからない。通りを歩く人々がざわついている。
光速で目の前の現実へと還り、イブキはひとまず違和感と不安を噛み潰した。
「戻ろ、店に!とにかく戻ろ!」
慌ててディオルコの背中を押す。店に入ると扉を内側から閉め、もたれかかるように一息ついた。
青年は少し眉間に皺を寄せた。
「おい、大丈夫か?」
自身よりイブキに気を配ることが出来るのは間違いなく青年の美徳だが、逆に聞きたい。彼はなぜ恥ずかしげもなく平気でいられるのか。
「き、気が散って真面目に話す気にならないです…」
そもそも、今の出来事をどう伝えていいものかわからない。
「そうかよ。」
気を悪くした風でもなく、青年は肩をすくめた。たった今まで会話していた少年の姿が、既に幻のような気がしてきていた。しかしテーブルには彼が使った湯呑みが、忘れられたように置き去りになっていた。
「ハァーイ、お二人サン!」
突然、明るい声が二人の間に割って入り、振り返ると黄金色の中華服に長い黒髪を垂らした女性が現れた。
「今日はよく頑張ってくれましター!」
「…ユヅィー。」
認識されたユヅィーは、ひらひらと両手を振っている。
「ワタシ、今日急用でお店空けなくちゃならなくて、どーっしても人手が足りなかったんでス!助かりました!」
独特なスパイスの香りが充満した部屋で、ウェイター達が次々と食器を下げていく。
…あれ?
「…もういいだろ、アルナラ本人と話させろよ。」
「アルナラ様は今、少しこの場を離れていますー」
「なんだと。」
イブキは間違い探しをさせられているような違和感を覚えた。
なにかが違う。
「わかりましタ!でもちょっと疲れたでしょ、休憩!アルナラ様もすぐには来ないカラ。ホラ化粧落としましょ。イブキちゃんは少し待っててネ!」
「……。イブキ、お前本当に大丈夫か?」
青年が一応声をかける。
「えっ。あ、うん。それは…大丈夫。」
そう答えると、ディオルコとユヅィーの二人は連れだって奥の部屋へと消えていった。
「………。」
違和感が地に根を下ろす。見送ってよかったのだろうか。先程の衝撃が冷めやらぬ今、深く考えるだけで痛む頭を抱えながら、ユヅィーを初めて見たときのことを詳細に思い出そうとしてみた。
格好は、さして変わっていない。声だって。
目敏いあの青年が見落とすほどの何かに、自分が気付くとも思えない。
いや…果たしてそうだろうか?
◆
今夜も星が美しい。湖面のような夜空に星屑が散りばめられている。
ヒトの思惑などいつだって無視をして天は廻り日は巡る。
顔なぞ、別にいつでも洗える。誰が横にいようと関係がない。
そう考える自分の隣で、ルルカはこの行動を選んだ。
店から少し離れた外の水場で女に後ろからタオルを渡され、元の自分の服に着替えた青年は顔を拭いた。
「…それで。なぜ二人になりたがる?」
言葉の続きを紡ごうと振り向いた青年の口は、隙を突かれ縫い付けられた。
ニタリと笑うユヅィーの唇が、冷たい空気に波打ち言葉をさざめく。
「ディヴァインズとは上手くやっているようだねぇ…」
耳にしたのは、女性とも、男性ともつかない声。
『Orcosty』、君—――…
青年は思わずタオルを投げ捨てた。
背を向け2、3歩離れながら歌うように彼/彼女は続ける。
垂らした黒髪を揺らし、女の姿のままこちらを振り返る、ユヅィーのその顔貌は既に跡形もなく
狐のような『根無し草』の『守護神』の面へと変化していた。
ディオルコは顔を硬直させた。
『オルコ』
彼/彼女は、別の女の声でそう甘く囁いた。
―――笑いなさい、オルコ。
電気信号が作り出す幻が、脳から鼓膜を揺さぶる。
「…おっと、お気に召さなかったかな」
空気が軋む。やめてくれ、例え目の前の貴様が、俺の全てを…
全て見透かして、なぞって、その上で答えを導く存在だとしても
「その名で呼ぶのは止せ。」
俺は、大切な者のそれを、一度拒んだのだ。
「平気さ、誰も聞いちゃいない、ここにいるのは僕と君だけ。」
柳のように揺れる目の前の彼/彼女が、そう唄った。
「――――『ARNALA』。」
◆
「――――『ARNALA』。」
ディオルコは思わずその名を呟いた。この土地の人間が誰よりも畏れる存在―――…
ほっそりしたその肢体は、力で捻じ伏せるべき畏れよりも、永い永い時代の流れを。時を止め、ヒトを惑わし、導き、争いに投じさせ、文明を壊し、護り――――…力では到底及ばない何らかの結晶が、蜷局を巻いてこちらを視ていた。
勿論会いたいと思っていた。ここに来た目的は他ならない彼だ。しかし…、やはり異質だ!
かつて俺は彼に何者か、と尋ねたが、当然答えは得られなかった。覗き込むべきではないのだ。
人の言葉を話し、人に寄り添う、ただ人ならざりき者。
アルナラは人の言葉で穏やかに続けた。
「『Orcosty』。目の前の、美しい人の貌をした鬼—――。」
幾千、幾万の人間が、意味も知らずにこの名を口にした。
俺にはわからない。此奴を人としてか、神としてか。味方としてか、敵としてか。いずれとして扱うべきか。しかし、迷いを捨てて信じるほかない。
「君が味方でいてくれて嬉しいよ♪」
…ほら、見ろ。全てお見通しだ。
「しかし…あはははは♪頼んでもいないのにあんなモノまで拾ってくるとは、やっぱり君だ。」
ころころと笑う、その姿も幻覚めいている。
「…………あの大男は確かに記憶を失っている。嘘はない。」
俺は此奴にあの大男を『裁いてもらう』ために来た、いきなりその核心を突かれた。彼等の『敵』ならば大事な『配送品』と共に連れ回す訳にはいかないからだ。
「彼の者の姿形はかつて我等を襲った者と同じものだが…。」
前の村でも証言されていたことだ。
「ディオルコ君、君はあの洞穴がどういうものか知っているかい。」
明るい星の下、聳え立つ洞穴の概形がはっきり見える。
俺の答えを耳から得る前に、アルナラは回答する。
「我々が生き延びるのは容易くはない。生まれ持った力だけれど、その多くは力を背負うほどの成長を待たずして潰れ、やがて死ぬ。身体ではない…精神さ。情報の瀑布から身を護る術を得ないままに曝されれば、たちまち精神を崩壊する。」
「あの洞穴は、単に修行の場としてあるわけではないんだ。あるいは二度と光を見ぬままとなった同胞たちの血肉が、あの洞穴の土壁となっているせいかもしれないけどね、マンションにはある程度情報を遮断する力がある。根無し草にとってあの穴は、免疫を得る重要な場なのさ。一つはそういう役割がある。」
アルナラは淡々と続ける。
「そしてもう一つ。もっと深淵には、『既に破綻した者』を運び込む。二度と出ては来れない終焉の地さ♪」
「…壮絶だな。」
「いわば屍によって築き上げられた防壁だよ。」
アルナラはどこか自分とは無関係な様子で語る。
「だからこそ、あの洞穴に見張りを欲しがる者がいる。あの住人たちは外の危険を感知できない……そこへ。かつてあの大男と同じ者達が訪れ、虐殺を行った。あの眼で生きた人間を嗅ぎ当て、洞穴を焼き、未熟な我等の同胞は蟻の如く命を落とした。犠牲者の大半は住人だった。子の死を悟り、土地と共に心中を選んだ家族もいた。…そして元々母数の少ない我等の多くはこの地を去り、各地に散った。今この地で生きるは、その多くがルルカではなく、キルピス人だ。」
言葉に全く澱みがない。
「しかし、君が連れて来たあの者の埋れた記憶の中に、我等への感情はない。」
「!」「貴様、失った記憶も、辿れるのか!?」
「無論、君が箪笥の奥にしまい忘れた服も、僕は引っ張り出すことができる。」
そう、アルナラは優しい声で笑った。
「しかし、無理に力を入れると、破れるからね。」
「あの者は敵の同胞だ。しかし害はない―――手を貸してあげるといい。」
ディオルコは言葉を失った。自分には到底信じられない言葉だった。
「君が僕なら……憎むかな?」
「―――無論だ。」
沈黙が流れた。
「…アッハッハ♪本当に優しい鬼だ、君は。」
アルナラは、組んだ腕に頬杖をついた。
「僕と君は少し似たような立場だけれど。いつの世にもいるんだよね、君のような・優れた・恵まれた・個体。で、ありながら、何故か他の者の為に立ち上がるカワイイ人間が。」
「…つまり、何が言いたい?」
「いいや、気を悪くしたなら…。『ディオルコ・エスパリオン』。君はそのままでも幸せになれるから。他人の為に心を燃やし、それ故に血に染まる、君の若い心が僕は不思議なのさ。」
青年の身体を巡る血が熱く迸る。
「それが…搾取する者の義務だ。」
「それはわかるよ。…ククク、ただそこに私情はない、我々はさ。」
ディオルコは信じられないといったふうに首を左右に振った。
「僕は、君の理解者にはなれないんだ。すまないね。だ か ら こ そ この立場が全うできる。人間なんて理解してちゃあ、本来君のようなことは出来ないと思うのだけれど、例外だろうね。まあけれど、どちらも正解なのさ。」
「…。」
…俺の行動はそんなに妙なことだろうか?
「アルナラ。…『エリス』のことだが」
アルナラが窘める様な声で続けた。
「彼女は僕らの及びもしない、『上位』の者だ。心配はいらない。」
言う気がない。はぐらかされる。人質のつもりかなにかか?
「そうかよ。心配が要るか要らないかは、俺が決めるさ。一体どこにいるんだ?」
「『イブキ・ダグー』は随分君に懐いているね?」
「……藪から棒に。」
「いいや、僕が最も君に言っておきたいことだ。そういう目論見で、君を彼女に充てたんだ。『エリス・ビドール』の意図はさておき、君の容姿と声は人を惹きつける…ディヴァインズとはいえ彼女も例に漏れなかったようだねぇ。それで。君は彼女をどう思う?」
「…何だ、貴様…」
「可愛いだろうさ。自分のことを心底好きな人間を、本当に嫌いになれる人間なんていない。つまりだ、君は彼女を手懐けたようでいて、その実彼女に『懐柔されている』んだよ。ディヴァインズとは、そ う い う 生 き 物 だ。」
ディオルコの嫌悪感が静かに牙を剥く。
「俺はそんな風には思わない。」
爪先に力が入り、足元の砂利が音を立てる。
「―――アイツはまだ間に合う。俺が裏切ると思って、焦っているのは貴様らじゃないのか。」
「ディオルコ君。どうか、希望を持たないで欲しい。普通の少女は、自己防衛の域を遥か越え、復讐の為に同類を焼き殺したりはしない。―――そういう残酷な手段は、選ばないんだよ。」
「『普通』はな。だが人間の中にも『普通』じゃないやつはいる。」
「君と同じように?君がそうだったから?だから君一人の判断で呑み込んでしまっていいのかい?」
再び沈黙が流れた。
「ほうらね、精神を理解なんてしたつもりになっちゃあ、身動き取れなくなるだろう」
「理解したなんて思ってねえ、理解できないから判断できねえって言ってんだ!」
「…あくまでも。君が一人がそう考えるつもりでいるのだとしてもだ。約束は守ってもらう。…君がそれを忘れない限り、あの子が君から離れることはない。」
ディオルコは一言も発さず…やがて渋々、無言で小刻みに頷いた。
「忘れないで欲しい。彼らは甘噛みで喉笛を食いちぎる。」
アルナラは踵を返した。
「…おい!『師匠』ッ…『ムスタファ』は!」
「半月ほど前、去った」
アルナラは振り返らなかった。
バタン、という扉の音と
「ディオルコ!」という少女の声が鳴り、その一瞬に不意を突かれた隙に、アルナラの姿は幻のように消え去っていた。




