第十八柱 still running
◆
蒸かした葉巻の煙を見る。皆、目先の平坦な道の先を見る。目端の茨の園には誰も目もくれない。
「グラン・グラナ」
煙の充満した部屋で、がたいの良い一人の中年男が暗がりの主に問いかけた。先日のことだ、首には強く殴られたようなアザがある。少し訛りもあり、主への畏れもあってか歯切れは悪い。聞きたいことがある、と切り出す。
「俺は、思い出した…つい先日の件、ずっと気になっていたが…昔、北にいたことがある。『シファード』で、当時俺は反乱軍の下級兵だった。そこでヤツを…『エスパリオン』を知った。もちろん、人違いかもしれないが…。」
無言のグラン・グラナはゆっくりトン、トンと、葉巻の灰を落とした。中年男は訝しむ、この老獪はきちんと自分の話を聞いてくれているのだろうか。
「わかっている、同姓同名なんぞ、何人もいるだろう。それでも、アイツとあの『エスパリオン』がもし、同一人物であるとしたなら…」
懐かしい肥沃な大地。彼の地には、どこであろうとも、暖かい風が訪れた。『シファード』…ああ。
「あの男……―――『ディオルコ・エスパリオン』は、」
「死んでいる。」
…例えそれが、墓場であろうとも。
頭にはうずらの卵を彷彿とさせる痣。老人は身じろぎもせず聞いている。
男は続ける。
「墓標は……俺は」
戸惑いながらも先を急ぐ男の言葉を遮るかのように、老人は口を開いた。
「別人哉。」
「…グラナ!しかし!」
「仮に同じ人物だったとしても―――死者が蘇るとき」
嗄れた声は諭す。その濁った瞳はほとんど瞬きをしない。
「其奴は既に人間ではない。」
老人の乾いた目は、指輪に飾られた自身の手を通り越し、どこか遠いところを見ていた。
「或いは人ならざる者の力を借りて生きている。いずれにせよ、奴は生かされているに過ぎん。時が来れば役目を終える。」
男にとっては難解な言葉であったが、それ故にこれ以上首を突っ込むべきではないのだと思った。
「お主は一介の用心棒にすぎぬが…よいか、もしあの者の正体を知る機が訪れようと、その情報……金を摑まされようと買うものではないぞ。」
「其れは悪魔の尾、也。」
掴んだ金貨は、土塊か、はたまた地獄への渡り賃か。
◆
昼下がり。ピークは過ぎたとはいえ、まだまだ暑い。
日陰に腰かけ、数人の主婦が銘々の持ち物を脇に置き、いつも通り井戸端会議をしている。
「聞いたかい、一昨日も、隊商の品が盗まれたらしいね。あの幽霊じゃないかって話だよ。」
「お隣も卵をやられたってさ。異臭がして…なんでも天井から視線を感じたような気がしたって、何とも気味が悪いね。たまらず家を飛び出したってさ!」
「およしよ、あんたたち。おっかなくて昼間の仕事が捗らなくなるだろ。」
「今更なんっだってんだい、小娘じゃあるまいし。貧乏暇なしだよ。」
「全くだ、こんなとこにやってくるのは、山賊とサソリと、ガラガラヘビだけで十分さ。ああそうさ、鬱陶しい連中なんて、干からびちまえばいいのに。」
そう言いあうと、砂漠の主婦たちは逞しく笑った。
「おや、『ベス』だ。」
影からよろよろと現れたのは、『孤児のベス』だった。
「アンタ、昼間にうろつくもんじゃないよ!」
一人の主婦が声をかけるも、ベスはぴくりとも反応せずに、摺り足で去っていった。
「『ファイドー』も連れちゃいないし。全くなんだろうね、近頃は。」
「あれは駄目かもしれないね。」
主婦たちは呆れたように、それぞれの持ち場に戻っていった。
風が乾いた砂を連れ、サラサラと足元を流れていく。
もうすぐ、このうんざりするような砂漠ともおさらばだ。
二人は誰かが置いて行った崩れた屋台に腰かけ、束の間の休息を得ていた。
右隣で少女が鶏の串焼きを頬張りながら、青年に尋ねる。
「お酒、結局買ったの?」
「少しだけな。…薬用酒はもちろん遠慮した。」
そう言うと彼は自分の足元をちらりと見た。先刻購入したクダ酒を二本、置いてある。
慌てて店を立ち去ったために、商品は裸のままである。
「私が飲んでたらどうなったかな。」
「ロクなことにならんさ。どうだ、串焼き美味いか?」
頼むからそれで満足してくれと言う。
見知らぬ地の味に高揚したイブキの白い頬は、うっすら赤みがさしている。その白さのためか、まるで雪の日に外で遊ぶ子供のようだと思った。
ここが故郷のように寒冷であれば、今ほど疲れはしないのだが。
「うん、味付けなんの粉かな?これ、辛いかも…」
イブキが不思議そうな顔をして黙り込む。少し間をおいて青年にもその理由が分かった。
砂漠に顔から放り出されたように、イブキだけでなくディオルコにもはっきりとわかるほど強烈だ。
「ねえ、砂の―――…」
匂いがする。
二人の鼻を、強烈な砂の匂いが衝いた。
ディオルコが素早く、非常に小さく首を横に振ったので、イブキは言葉を引っ込めた。
僅かだが何らかの気配はある。敵意はない。
…なんだろうか、あまり人らしくない、とディオルコは感じた。
しかし、思い当たる姿はない。
イブキに目配せし、しばらく様子を見てみる。
「何の串焼きなんだ?それ。」
「…えっと、なんだっけ。あっ、普通にチキンだよ。」
ディオルコの意を汲み、イブキはとりあえず彼に合わせた。
「どうりでちょっと値が張ったわけだ。おやつにしては豪勢なんだから、」
何も気づかない様子で当たり障りなく話す足元で、彼が先ほど購入したお酒が一本、僅かに動いたのをイブキは見逃さなかった。それも、ひとりでに…。
ディオルコは話しながら財布を取り出した。
「よ~く味わいなさいよ。なんたって俺の所持金も―――うわっと!!」
酒瓶が屋台の下の隙間に、ぎこちなくそろそろと引き込まれ姿を消すと同時に、ディオルコが財布を取り落とす。
仕組まれた動き通りに小銭がばらばらと零れ落ちる。
「コインをばら撒いちまった!くそっ、イブキも拾うのを手伝ってくれ…」
そういいながらディオルコは屈みこみ
「…よっ!?」
崩れた屋台の下を一気に覗き込む。
…へあっ、と何者かの吐息があった。
つぶらな瞳、大きな黒い鼻に、耳まで裂けた口。
「―――はぁ!?ぎゃああああっ!」
盗人はディオルコの顔を勢いよくベロベロ舐めまわし、彼が叫び声をあげ怯んだ隙にそのまま酒瓶を咥えて屋台下から飛び出した。
飛び出してきたものをイブキが急いで目で追う。
「…え!?犬っ!?」
まさにその通り、犬だった。
小柄な赤犬が酒瓶を引きずるようにして逃げていく。
「犬がなんで酒を…こらあっ!」
ディオルコは涎まみれの顔を拭いながら叫んだが、犬は振り返りもせず一目散に駆けていく。
彼が言う通りだ、何で犬が?匂いの主は、犬なのか?
いや、酒瓶がひとりでに動くのを、さっきはっきり見たじゃないか。
犬は主犯ではないのだ。
気付けば砂の匂いは消えている。だが、少なくとも普通の人間には分からない程度のものも、イブキは僅かに残った匂いが追えた。
「やっぱり何か他にいたよ!今ならどっちかを追いかければきっと追いつけるよ!」
迅るイブキをディオルコは引き止めた。
「いや、いい!…いいんだイブキ!」
「どうして!」
「大したもんじゃない、安酒が欲しいだけならくれてやれ。」
「盗まれたのに?」
「いつかどこかで返ってくるさ。…いや、やっぱりあんな唾液まみれの酒瓶はいらん。とにかく放っとけ、関わるな。」
これが本音だった。欲しくて買った酒ではあるが、目に見えないものを相手にするほど惜しいものではない。
何よりディオルコの中では、相手の正体に目星がついていた。
…リスクは低くない。
「ったく、これだからボンボンはぁ。」
呆れたような、どこかのどかなイブキの不満を後ろに、
「…さあ」
残った一本の酒瓶を拾い上げ、犬が消えた方角を見つめながら、ディオルコは切り出した。
「日が暮れる。一度宿に戻ったら、ぼちぼちこの村を出よう。」
酒瓶がひとりでに動いた。その奇妙な現象を前に、なぜ二人に恐怖心が生まれないのか。
盗人があまりに可愛らしい小さな犬であったためか、それとも敵意とはまるで違う何かを感じたためなのか。
既に日はかなり傾いていた。
◆
村の中心から少し離れた寂しい場所に、隙間だらけの板張りの家がある。
いかにも急遽こさえられたといった、布や板でその隙間を埋められている。辛うじて家と呼べる状態は保っているが、それも数週間前までは吹けば飛ぶようなもっと酷い有様で、室内にはほとんど生活感がなかった。
水桶も窯も、火の気配もまるでなし。
それがこの数週で、炭を置き、僅かながら水を沸かし、外の風当たりの良い場所で煮沸した布を何枚も干し、完璧とは言えないまでも清潔な布をシーツ代わりに、部屋の隅にきちんと寝床が用意されるまでになった。
…家主は不在のようだ。
すり潰しペースト状になった果実、肉、穀物……割れた皿に、それらの形跡が残っている。
赤犬は退屈そうに家の中央に寝そべり、その脇には酒瓶が転がっていた。
やがて犬は立ち上がり、尻尾を振って落ち着かない様子で室内をウロウロし始めた。
彼女が「ワン!」と吠えたころ、のっそりと布の玄関をめくるように、…現れたのは巨大な影だった。
家に足を踏み入れた瞬間、周囲に同化していたその影は、音もなくさっと全身オレンジ色の姿に戻った。
砂漠の、あの怪人だ。
二メートルを優に超える、丈夫な素材で守られた巨体からは赤や緑などの細かい管が何本も伸び、いくつかは引きちぎられたもののようにも見える。
狭い家で窮屈そうに体を折り曲げ犬を見下ろす様に誰もが家を見捨てて裸足で逃げ出すだろうが、小さな赤犬は暢気に怪人を迎えていた。
「『ファイドー』…、ただいま…」
『ファイドー』は嬉しそうに尻尾を振っている。
「…なんだ、ご主人は…。『ベス』は、まだいないのか、どこに行ったんだ?」
たどたどしく怪人は犬に尋ねる。
「それに、彼女は、また、口を付けなかったのか…残念だ…。食べていいぞ、腹を、壊さないのなら」
ぎこちなく皿を差し出すと、ファイドーは途端にぺちゃぺちゃと皿に口を付けた。
男はコルクで封をされた酒瓶を拾い上げた。
「…出来ることなら、『酢』が良かったんだろうがな…酢の往来は…この地にはあまりないようだ…」
部屋の隅に目をやった。空き瓶と、何かの(恐らくラクダだろうが)胃袋や木の皮や廃材などを利用して、蒸留装置のようなものを作った跡がある。
…初めにここを訪れたとき、旅人から盗んだ食糧と、この家のゴミの山に埋もれていた酒瓶の、底に残っていた僅かな酒を利用して抗生物質を作った。放置された酒は偶然にも酢になっており、その時出来た種酢を利用して何度か薬を作ったのだが、目を離した隙に『ベス』が種酢ごと飲み干してしまった。しかし、実際に重要なのは薬よりも彼女が酢を欲したその事実の方だった。
目も見えない、手足も上手く動かせない自分が作った薬だ。一度はその精度が低かったのかと考えたが、おそらく違う。もっと早く気付いていれば…。
「日が暮れるが…ベスはどこに…。」
最近この家の家主は、周りを気にすることすら忘れて頻繁に外を徘徊している。勧められないことだが、とはいえこちらも一日中見張っているわけにもいかない。何かとやることがあるからだ。
この男には『ステルス能力』がある。視覚以上の方法からも身を隠すことが可能だ。それを利用して、ファルマを発つ旅人たちからこっそり少しばかりのお零れを貰っていた。待っていても、くすねなければ手に入らないことがよくわかったからだ。盗んだものは、一旦砂に隠し、彼らが去った後持ち運ぶ。運悪く砂地に映る影が彼らの目に入ったためか、巷ではどうも自分は『幽霊』だと思われているらしい。
体が消えてなくなるわけでもない。素早く動けば擬態が遅れ、周囲から怪しまれてしまう。…昨晩の青年の時のように。彼は『ディオルコ』と言ったか。
加えて先ほどの彼等の様子では、身に付いた匂いはどうしようもないようだ。どう考えても存在がバレていた。しばらくは行動を控えたいところだ。
風に当たっていれば、少しは砂の匂いも和らぐだろう。
怪人は、酒を開けると少しだけを別の瓶に移し、残りはシーツ代わりにストックしている布の下へと隠した。
…昼間の色の白い少女達には悪いことをしてしまっている。昨晩から砂地で寝そべっていた自分は、今朝方彼らの速さに反応しきれず立ち上がりざまに正面衝突して吹っ飛ばしてしまった上に、ついには酒まで甘えてしまった。だがこの容姿では、十人が十人縮みあがってしまい買い物は望めない。…何より金もない。
…『イブキ』、あの少女。その名に聞き覚えがあるのかは分からない。ただ、あの娘について考えた瞬間、とても眩しくて、恐ろしかった…。無機質な、白い、壁、廊下、照明…全てがこの世界とは異なる。思い出すのが恐ろしい…。
ベスは知っているのだろうか?
砂漠で長い時間を過ごし、魂から震えた。この世界は、厳しく、美しい。
あの少女の傷一つない肌を思い出すと不意に胸が痛んだ。
ベスは若者に約束されたはずの幸せを、どれだけ奪われたのだろう。この世を憎まぬはずがなかった。
神よ…どうか彼女にあとほんの少しだけの、慈悲を…
…それと、少女はともかく。あの『バイク』には絶対に見覚えがある。しかもとても場違いな感じがある。だがそれ以上のことは何も思い出せないのが腹立たしい。
視力も少しずつ戻っている、手足もだんだん思うように動くようになってきた。いずれ記憶も戻るだろう。
だが何を思い出すのだろうか?記憶がなくとも、俺はこうして、自分に従っている。今はこれで十分だという気がする。
「ギャン!ギャンギャン!」
けたたましい声がした。ファイドーが、ただならぬ様子で騒ぎ始めたかと思うと、弾丸のように家から飛び出した。
怪人は我に返り、戸口から叫ぶ。
「ファイドー!!どうしたんだ!!」
ファイドーは行ってしまった。…主になにかあったのでは…!胸騒ぎがする。
―――追わなければならない。
鈍間な自分が、例えステルスを発動していてもこの姿で外をうろつくことは、好ましくはない。
ただし、幸い日が落ちてきている。
怪人は、のっそりと家から外へと踏み出した。
◆
イブキとディオルコはチェックアウトのため戻ると、荷物を回収し宿を後にした。
宿を出ると、村の外は驚くほど静かで、時折屋台を引くような音が聞こえる程度だ。
心なしか、人々が急ぎ足で帰路についているように見える。
夜中に静かなのはおかしなことではないが、日中の活動が限られるこの地域にしては村の眠りが早いと言えよう。
「貧しいな、ここは。…にしては、村のインフラがしっかりしている。地下水道も引いてあるらしいし、それでキャラバンも利用する。『キルピス』が近いからか?」
「『キルピス』はもっと豊かなの?」
「この地の要として北まで名を馳せたくらいだ、連中は。かつては他のやつらとは一味違ったようだがな。…さて、コモドのところへ向かうには…少し遠回りした方がいいかもな。」
「あの子の方を呼んだら…?」
自走するコモドなら、ディオルコのところまで来てくれそうなものだが。
「目立ちすぎる。余計な奴らが釣れそうだ。見てみろ。」
ディオルコはバイクまでの近道と思しき脇道を指した。
薄暗く、人はほとんど歩いていない。…が、イブキが『ジェネ』で体験した感覚が、再び呼び起こされた。
「みんなこっちを見てる。」
「うん…」
必ずしも悪事が目的とは言えないにしても、一歩足を踏み入れればどこからか金に飢えた人々が湧いて出てきて取り囲まれるだろうという予感がした。
「あまり人目を引きたくない。もう少しここを離れてから…」
イブキは目を凝らした。遠くに見慣れた赤髪を見た気がしたのだ。
「…ディオルコ、グウェンがいる。」
その手にはクダ酒を持っていた。
「あのお酒…。」
「たまたま同じ物を買っただけかもしれない。仮に盗人の張本人だったとしても、俺のものが盗まれてからは時間も経ちすぎているし、決め手は何もないぜ。」
ディオルコは肩を竦めた。
「行くぞイブキ。」
しかしイブキは首を傾げた。
「ディオルコ、誰か来る。――――――あの人だ。」
イブキの言葉の通り、摺り足の女性が、店の角から姿を現した。
その出で立ちにディオルコはつい、呟く。
「『孤児のベス』…」
「うう…うう…」
ベスは歩く度に呻く様に声を出す。
彼女の姿を目にしたグウェンは、明らかに苛立っていた。
「…こんばんは、エリザベス。こんなタイミングで現れるなんて、何かの当てつけかしら?」
「―――」
グウェンが手にした、『クダ酒』。
それが目に入った途端、奇声をあげながらベスは執着を見せ、酒にしがみ付いた。
グウェンが思わず悲鳴をあげた。
「何!何よっ!!これはあたしの――――!!」
一瞬の事だった。赤毛のグウェンはベスを振りほどこうと突き飛ばし、ベスは柱に頭を強く打ち付けた。
「うううう!うううう!」
がくがくと痙攣し、その顔に包帯を巻いた女性はこと切れた。




