第8話 一時の平穏
冷たい雨が降っていた。
アスファルトを叩く激しい雨音。それに混じる、誰かの狂ったような笑い声。視界の端で、鉄の刃がギラリと光った。
――悠、逃げろッ!!
重なり合う二つの影が俺を突き飛ばした。
水たまりに倒れ込み、弾かれたように振り返る。そこにあったのは、薙ぎ払われる包丁。そして、俺を庇うように覆いかぶさってきた、あたたかい背中。
ドスッ、という肉を裂く嫌な音がして、鼻を突くような血の匂いが、一瞬で雨の匂いを塗りつぶした。
――なんで。どうして、こんなことに
問いかける言葉は、遠くから迫るサイレンの音に飲み込まれて消えた。
俺の頬を濡らし、服を汚していくこの赤い液体は、俺のじゃない。俺を必死に守ろうとした、二人の――。
*
「――ッ、は、ぁ……ッ!?」
弾かれたように目を見開いた。
視界に飛び込んできたのは、雨の路上ではなく、豪奢ではないが品のある、色味の抑えられた天蓋。窓から差し込む午後の陽光が、室内を照らしている。
ユウは激しい動悸に襲われながら、シーツを握りしめて荒い呼吸を繰り返した。
心臓が早鐘を打ち、全身には嫌な脂汗がびっしりと浮かんでいる。現実感が戻るにつれ、体のあちこちが鈍痛を訴え始めた。
(……ゆ、め……か……)
朧気だった意識が、ゆっくりと覚醒した。しばらく天井を見つめていたが、やがて、いるはずの気配が静まり返っていることに気づく。
「……おい、レオン。生きてるか?」
呼びかけても、返事はない。
いつもなら「騒ぐな」「黙れ」と即座に飛んでくるはずの不機嫌な声が飛んでこない。レオンハルトの意識は完全に沈黙している。
ふと、ユウはある違和感に気づいた。自分が「見ている」視界が、自らの意志で動く。何より、先ほど発した声は喉を通して出た、肉声ではなかったか。
ユウは恐る恐る指先を動かしてみる。ピクリ、と指が反応した。次に腕を持ち上げてみる。ゆっくりと、だが確実に、肘が曲がる。
「マジかよ……体、動かせるじゃん」
身体の痛みも忘れ、跳ね起きるようにベッドの上で上半身を起こした。
レオンハルト本来の人格が休息に入ったことで、体の制御権がユウに移っているらしい。転生直後、レオンハルトに成り代わったと誤認した時の感覚そのままである。
ユウは驚きとともに、冷や汗を流した。あのプライドの塊のような少年が、自分の体を勝手に使われたと知れば、どんな顔をするだろうか。
(や、やばい……これ、絶対に怒られるやつだ。早く寝直さないと……)
慌てて目を閉じようとした、その時。
サイドテーブルに置かれた水差しが、午後の光を反射してキラリと輝いた。猛烈な喉の渇きが襲ってくる。
「み、水くらいなら……生命維持の為だし、怒られないよな?」
震える手で水差しに手を伸ばそうとした、まさにその瞬間だった。
――コンコン。
控えめだが芯のあるノックの音が響いた。
「ひゃいッ!?」
不意打ちに、喉から素っ頓狂な声が漏れた。
しまった、と口を塞ぐがもう遅い。重厚な扉が音もなく開き、銀髪をきっちりと撫でつけた老執事――セバスが入室してきた。
「……レオンハルト様? 今、お目覚めになられたのですか」
わずかに見開かれたその目には、主君の安否を気遣う深い色が宿っている。
(ま、まずい! レオンは寝てますなんて言えるわけないし……ここは俺が誤魔化すしかない!)
ユウは必死に記憶を探った。レオンハルトならどう答えるか。偉そうに、冷徹に、そして簡潔にだ。ユウは精一杯眉間に皺を寄せ、低音を意識して喉を鳴らした。
「……あ、ああ。目が覚めた。……苦しゅうない」
「……はい?」
「い、いや何でもない! 問題ない、下がってよいぞ!」
声が裏返り、時代劇のようなおかしな口調になる。セバスの眉が怪訝そうにピクリと動いた。
「……レオンハルト様。お言葉ですが、お顔色が優れません。それにその妙なお声……まだ御身体が良くないのでは?」
心配そうに、セバスが歩み寄ってくる。このままでは医師を呼ばれ、詳細な診察をされれば「中身が違う」ことがバレてしまうかもしれない。
「ち、違う! 俺……いや私は、平気だ! 見ろ、この通り……うわっ!?」
健康さをアピールすべく、ベッドから飛び降りようとした瞬間、慣れない体の感覚にバランスを崩した。シーツに足を取られ、ユウは派手に前のめりに転倒した。
「あだっ!」
「レオンハルト様ッ!?」
サイドテーブルにぶつかり、水差しがガシャンと派手な音を立てて床に砕け散る。水浸しになった床に顔面から突っ込んだ無様な姿。そこへ、異変を聞きつけた荒々しい足音が廊下から響いてきた。
「敵襲かッ! レオン様、ご無事ですかッ!!」
バーン、と扉が勢いよく開かれ、赤毛の副団長ロイが剣の柄に手をかけたまま飛び込んでくる。彼が見たのは、水浸しの床でカエルのように這いつくばる主君と、慌てふためく老執事の姿だった。
「……は? レオン様……?」
「あ、いや、これはその……」
ぽかんと口を開けたロイと、絶句したセバス。
普段の「冷徹な領主」らしからぬ醜態。ユウは顔から火が出るほどの恥ずかしさがこみ上げる。消えてしまいたい。穴があったら入りたい。頼むから、誰かこの状況を何とかしてくれ――。
その、切実な願いが届いたのか。
あるいは、主君としての矜持が、己の身体が晒す醜態を許さなかったのか。
――ブツリ、と。
唐突に、ユウと肉体を繋いでいた感覚が遮断された。
(あ、え……?)
視覚と聴覚だけを残し、全身の感覚が急速に遠ざかっていく。
床の冷たさも、打ち付けた膝の痛みも、羞恥による顔の熱さも、すべてが「自分のものではない」感覚へと切り離されていった。
代わって主導権を握ったのは、井戸の底から這い上がってきたような、圧倒的な「個」の気配。
セバスとロイの二人が、反射的に姿勢を正した。
背筋に切っ先を突きつけられたような悪寒が、室内を支配したからだ。
床に這いつくばったままの少年が、ゆっくりと顔を上げる。濡れた金髪の隙間から覗く眼からは、先ほどまでの困惑や焦燥は消え失せ――絶対零度の光だけが宿っていた。
「……おい」
低く、地を這うような声。だが、それは何よりも雄弁に「王の帰還」を告げていた。
少年――レオンハルトは、濡れた髪をかき上げながら、凍てつく視線で扉の前の二人を射抜いた。
「……なぜ私は、床に這いつくばって貴様らを見上げている?」
「レ、レオン様ッ!!」
「レ、レオンハルト様……ッ!!」
セバスとロイが、戦慄と歓喜の入り混じった声を上げる。その威圧感は、間違いなく彼らが知る領主のものだった。
『あ、あの……レオンさん? お目覚めでしょうか……?』
脳裏で恐る恐る問いかけるユウに対し、レオンハルトは感情の乗らない声で告げた。
「……後でたっぷりと話を聞く。覚悟しておけ」
魂に直接響くようなドスの利いた宣告に、ユウは精神の隅で、縮こまるしかなかった。
激戦から丸一日が経ち、騒がしい朝と共に、アルヴェイン男爵家の日常が戻ってきたのだ。
*
レオンハルトが目覚めてから、数日が経過した。
執務室の重厚な机の上には、鉄製の頑丈な小箱が置かれている。表面には厳重に施錠が施され、四隅には銀の鎖が巻きつけられていた。箱の中には、あの谷底から回収された「黒い石」の欠片が、慎重に布で包まれて収められている。
机には古書やスケッチがいくつも広げられている。黒い石の正体や、刻まれた紋様に関する記述を探して、レオンハルトは資料を読み続けていた。
「……駄目か」
最後の一冊を閉じ、凝り固まった身体を椅子に深く預けた。
再び箱の封印を解くと、木製のピンセットで欠片を持ち上げる。窓からの光に透かすと、複雑な紋様が浮かび上がった。
「精霊石でもない。錬金術の触媒とも異なる。既存の呪術体系のどれにも当てはまらん……。一体、何なのだ、これは」
『あの赤黒い鎖はもう出ていないけど……まだ微かに「嫌な気配」が見えてるよ。こう、赤黒い靄みたいなものが、うっすらと』
内なる同居人に、レオンハルトの手が止まる。彼は目を凝らして欠片を見つめたが、その眼には石以外の何物も映らない。
「……私はおろか、ヴォルフやロイですら何も感じ取れなかったというのに。貴様にだけ視え、私には視えぬというのも腹立たしい話だ」
『いや、そんなこと言われても。俺だって理由が知りたいくらいなんだけど』
なぜ視えるのか、己自身もよくわからない。そう答えるユウに対し、レオンハルトの口角が吊り上げる。
「なるほど。貴様も同じ"呪いの類"だから、波長が合うのではないか? 同族嫌悪というやつか」
『ちょ、それはひどくない!?』
「事実を述べたまでだ。私の体を勝手に使い、醜態を晒した"異物"が何を言っている。正体も対処法も不明という点では、貴様もこの石も大差はない」
あの「体を勝手に使われた件」以来、レオンハルトの機嫌は最悪のままだった。
『……ご、ごめんって。もう百回は謝ったじゃん……』
「千回でも足りん」
ユウが意識の隅で縮こまる気配を感じながら、レオンハルトは欠片を箱に戻して封印した。静かに椅子から立ち上がり、窓の外を見据える。夕暮れの光が、領地を赤く染めていた。
「……悔しいが、認めるしかない」
その言葉には、深い挫折感が滲んでいた。
「辺境の男爵家の設備では、これ以上の解析は不可能だ。下手に触れれば呪いが再び発動するリスクもある」
レオンハルトは窓枠に手を突き、強く拳を握りしめた。
どのみち、大規模な魔物襲撃があった以上、証拠品であるこの石の提出は義務だ。だが、解析を本家に委ねてしまえば、その結果が正しく自分に知らされる保証はない。だからこそ、それまでに自力で解析したかったのだが……。
「……ヴァルシュタイン伯爵家へ行く」
『伯爵家……って、お前の実家か?』
「そうだ。書簡での報告は既に済ませてあるが、この石だけは私が直接持ち込む。……本家の鑑定設備を使わせてもらえるよう、交渉するしかないだろう」
その名を口にした瞬間、窓ガラスに映るレオンハルトの表情が微かに強張った。だが、それは一瞬のこと。すぐに鉄仮面のような無表情へと戻る。
『そういえば……こいつ、前に親父さんのことで含むところ見せてたよな』
「……聞こえているぞ。私がいつ、そんなところを見せた」
レオンハルトは窓に映る自分の姿を睨みつける。
「伯爵家の書庫には、古代から伝わる膨大な文献が収められている。それに、本家お抱えの優秀な術師や、鑑定の伝手もあるはずだ。この石の正体も、あそこならば突き止められるかもしれん。……私情を挟んでいる場合ではないのだ」
自分に言い聞かせるように呟くと、窓から視線を外し、封印された箱を見据えた。
魔物を操り、さらにはその性質すら変えてしまう存在がいる。
何者が、何のために魔物を操っていたのか。それを突き止めない限り、この領地に安らぎが訪れることはないだろう。
――そして、災厄の後には必ず、人が集まる。
哀悼を口にし、同情を装い、そして価値あるものが落ちていないかを探す者たちが。
レオンハルトは、その事実を誰よりもよく理解していた。
*
レオンハルトが伯爵家への報告を決意した、ちょうど同じ頃。
北の森の奥深く。岩壁に囲まれた谷底は、墓場のような静寂に包まれていた。疫病を防ぐために焼却された魔物たちの骸は、黒い炭となって泥濘に沈んでいる。
その静寂を破り、闇の中から一つの影が滲み出るように現れた。夜闇よりも深い黒装束。フードの奥で、紅い瞳が不気味に光っている。
「……ふむ」
炭化した巨大な骨の残骸を見下ろし、男は抑揚のない声で呟いた。
「予想と違うな」
彼の見立てでは、この辺境の地は地獄絵図と化しているはずだった。
砦は崩壊し、兵士は全滅し、領地は蹂躙され――デモンボアは暴れ回った末に、身体を崩壊させて力尽きている。それが描いた筋書きだったはずだ。
だが、現実は異なっていた。
「魔獣は……暴走の果てではなく、この場で『処理』されたか」
男はデモンボアが息絶えた場所へと歩を進める。そこには、砕かれた巨獣の骨と、大量の血溜まりの跡が残っていた。
懐から、黒曜石のように艶やかな石を取り出す。表面には奇怪な紋様が刻まれ、微かな紫電を帯びていた。それを握りしめ、デモンボアの骸があった場所へと意識を同調させる。
――反応、なし。
「……『核』は抜き取られているか」
チッ、と舌打ちの音が谷底に響く。
≪隷属の紋石≫の欠片は、回収して再利用するつもりだった。だが、それらは既に何者かによって持ち去られている。気付かず放置したのではなく、わざわざ回収したとなれば、相手は「石」の重要性に気づいているということだ。
「まあ良い。あれは単なる断片に過ぎん。あれだけで術式の全貌を把握できるはずもない」
男は石に蒼い魔力を流し込む。禍々しい紫色の光を放った石が、周囲に散らばる「同質の力」を探り始めた。
他に残っている欠片がないかと、炭化した死骸や瓦礫の山を一つずつ確認しながら、谷の中央へと歩を進めていく。
不自然に崩落した岩壁。焼け焦げた倒木。そして地面に残る、不自然なまでに深く抉られた痕跡。それら全てが、この場所で壮絶な戦闘が繰り広げられたことを物語っていた。
「……強力な地属性の加護。そして、火属性も」
その表情が、わずかに険しくなる。
砦での戦闘を思い出す。混乱する守兵たち、貧弱な装備、統率の取れていない動き。それが、あの場で得た情報だった。
だが、谷底に残る痕跡は、その認識を覆すものだ。大規模な火計が行われた跡。地形を利用した罠。そして、デモンボアを止めるためであろう、瓦礫と死骸の障壁――。
「……貧弱な手勢しかいないと踏んだが。読みが甘かったか」
強力な『精霊の加護』を持つ高位の術師が潜んでいたのか。あるいは、手練れの軍師がいたのか。いずれにせよ、想定外の不確定要素であることに変わりはない。
男は谷の奥へとさらに歩を進めた。崩壊した岩の影。その辺りで、握りしめた石が強く脈動し、泥の下に隠された反応を示した。
「……ふむ。回収漏れか」
男は足を止め、その場所へ向けて魔力の衝撃を放つ。
泥土が爆ぜると共に、地表近くに埋められていた石が次々と弾き出された。
「これは……精霊石か」
地面から現れたのは、赤、青、緑、褐色――四属性の精霊石。そして、その傍らには黒い≪隷属の紋石≫の欠片も転がっていた。
精霊石には用がない。目的は、あくまで≪隷属の紋石≫の回収だ。男が欠片を拾い上げた、その時だった。
傍らの赤い精霊石が反応する。しかし、本来なら赤く温かな輝きを放つはずの石が、みるみるうちに蒼く淀んだ色へと変わっていく。
ピシリ、と乾いた音が響いた。
石の表面に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。亀裂は瞬く間に広がり、精霊石は中央から砕け、いくつもの欠片へと崩れ落ちた。
「粗悪品か。何の意味が……」
元々純度の低い原石だったのだろう。魔力の負荷に耐えきれず、崩壊したに違いない。
証拠を残さぬよう、変色した精霊石の欠片にも手を伸ばす。
――その瞬間、男の動きが止まった。
意識を集中しなければ見逃すほどの、微かな違和感だった。
男が感覚を研ぎ澄ます。すると、周囲の地中から極めて微弱な精霊の気配が浮かび上がってきた。
谷の入口付近。倒木の根元。岩壁の際――。
「……成る程な」
質の悪い精霊石を、湿地帯全域に散布しているようだった。
魔力を持つ者がこの地を歩けば、精霊石が反応する。その場所を記録しておけば、どの属性を持つ者が、どこを通ったのかまで把握できる。
(正体を探る為の罠……という訳か)
魔力を持つ者が近づくだけで負荷に耐えきれず、崩壊するという、不良品の性質を逆手に取った仕掛けだ。
通ってきた道を引き返し、地中に埋まっている精霊石を回収して回る。火だけに限らず、他の属性の石も回収する必要があるだろう。すべてを探し出すだけでも、膨大な時間を要する。しかも、その間に別の罠が仕掛けられている可能性もある。
何より――この「罠」を仕掛けた者の狙いは、自分をここに留まらせることそのものにあるのではないか。
「……小賢しい」
欠片の回収は終わった。そして、この地には暴走した魔獣を退け、紋石の仕掛けに気づくほどの者がいることも分かった。
(放置するわけにはいかんな。我らの計画は、既に最終段階に入っている)
男はそれ以上その場に留まらず、地を蹴って上空へと跳ねた。
「障害となるなら、摘み取るのみ。……我らの神座への道に、小石一つ残しはしない」
その言葉と共に、男の背から黒い翼が大きく広がった。
翼が一度、力強く羽ばたく。男の身体はさらに高く舞い上がり、黒い翼は夜の闇へと溶け込んでいく。
静寂を取り戻した谷底には、砕けた精霊石だけが残されていた。




