第7話 戦いを終えて
轟音と咆哮が去った谷底を、急速に冷え込み始めた大気が満たしていく。
夕日は既に稜線の向こうへと沈み、夜の帳が下りようとしていた。
「……おい、誰か……誰か、生きてないか!」
静寂を破ったのは、生き残った兵士たちの悲痛な叫びだった。彼らは薄暗がりの中、折り重なる瓦礫や死骸の下を必死に探っている。
『……レオン、おい、大丈夫か』
脳内で響くユウの声には、恐る恐る触れるような気遣いが滲んでいた。
「……黙っていろ」
レオンハルトは剣を杖代わりにして、軋む身体を無理やり起こす。
「……閣下」
鎧の擦れる足音が近づいてきた。
ヴォルフガングだった。肩を大きく上下させて荒い息を吐きながらも、その象徴たる戦槌は、今なお両手でしっかりと握り締められている。
無理やり呼吸を整えた老騎士が、主君の前で恭しく膝を折った。
「ご無事で……何よりです」
「ヴォルフ……その体で無理をするな」
「ガッハッハ、老体にムチを打ちすぎましたわい。心配ご無用、少々休めば元に戻ります」
老騎士は豪快に笑うと、重厚な戦槌をあえて軽く持ち上げて見せ、ニヤリと不敵に口角を上げた。
「……レオン様、団長ォ!!」
そこへ、赤毛を振り乱したロイが駆け寄ってくる。彼の顔にいつもの軽薄そうな笑みはどこにもなかった。
「ご無事……とは言えませんね。この状況じゃ」
静寂が戻った戦場をぐるりと見渡す。
騎士団の損耗は激しい。ロバートをはじめ数人が犠牲となり、生き残った者も例外なく満身創痍だった。踏み潰された仲間たちの亡骸を見つめ、ロイが強く奥歯を噛み締めた。
「……畜生。俺がもっと、上手く立ち回っていれば……っ」
「……ロイ」
自分を責めようとする副官の言葉を、レオンハルトの声が遮った。
「死者を悼むのは後だ。じきに日が完全に落ちる。この闇に何が潜んでいるか、まだ分からんからな」
谷の周りをくべなく見渡して、自分たち以外の気配がないことを確かめる。
「気を抜くには早すぎる。周囲を警戒しつつ、動ける者は負傷者の救護へ回れ。……それから、退避させておいた馬を連れてこい。まだ谷の奥にいるはずだ」
視線が、谷底を塞ぐように横たわるデモンボアの巨体へ移った。
「それと……あの魔獣の首元に埋め込まれていた『石』を回収する。他の死骸にも同じものがあるはずだ」
「石……ですと?」
ヴォルフガングが怪訝そうに眉をひそめる。
「奴らを操っていた呪物だ。あの異常な狂乱は、その影響によるものだと見ている」
そう説明しながら、デモンボアの首元――自らが剣を突き立て、致命傷を与えた箇所へと歩み寄った。肉が裂け、黒ずんだ傷口からは未だに蒸気のようなものが立ち昇っている。その奥に、砕け散った「黒い石」の欠片が埋まっていた。
「これだ……」
剣の先を使い、血肉の中からその欠片を掻き出した。月光の下、転がった石の表面には、緻密な紋様が刻まれ、不気味な光を放っている。
「うわ、気持ち悪ぃ……。レオン様、それ一体何なんです?」
顔をしかめたロイが、距離を置いたまま尋ねた。
「……分からん。だが、間違いなくこれが魔物どもを狂わせ、突き動かしていた元凶だ。ロイ、動ける者に近くの死骸を確認させろ。特に、あの異質なハイオークだ」
「了解しました。……おい、手の空いている奴、周りのデカい死骸を数体調べてみろ。素手で触れたりはするなよ!」
ロイの指示で、数人の兵士が松明を手に周囲の死骸を検分し始める。
やがて、数個の黒い欠片がレオンハルトの元へ持ち寄られた。大きさこそまちまちだが、すべてに共通の紋様が刻まれ、闇の中で禍々しく発光している。
「……これほどの仕掛けを、一体誰が……」
戦慄を含んだ声で、ロイが呟く。これだけの数の魔物に呪物を埋め込み、統率するなど、並の術者にできることではない。
『……レオン』
「黙っていろと言ったはずだ……何だ」
内なる同居人に対し、周囲に聞こえぬほどの掠れた声で応じた。
『……何というか、見えたり、見えなかったりで、ぼんやりとしか分からないんだけど……』
ユウは一度、深く呼吸を置くように間を置いてから、絞り出すように語る。
『あの石から、赤黒い鎖のようなものが伸びているんだ。……まるで、次の宿主を探しているかのように』
「……ッ!?」
レオンハルトの瞳が大きく見開かれ、表情が険しくなる。
それは、自身が抱いていた不安を、そのまま言葉にしたものだった。もし、それが事実であるならば、この石は単なる触媒ではない。獲物の魂を縛り上げる「呪いの依代」そのものだ。
「へ? 急にどうされたんです、レオン様」
突然、息を呑んで固まった主君を見て、ロイが怪訝そうに顔を覗き込んでくる。レオンハルトは目を細めて、平静な表情を作り直す。
「……なんでもない。立ち眩みがしただけだ」
「そりゃそうですよ。あんだけ無茶したんですから。……で、この石、どうします? 持ち帰るにしても、どう扱えばいいものやら」
その性質を確かめようとしてか、ロイが半身を沈め、距離を詰めながら覗き込もうとした。
「動くなッ! 下がれと言っている!」
いきなりの指示に、ロイは反射的に足を止めた。普段は冷静な主君がここまで声を荒らげるのを見て、ロイの背筋を冷たいものが走る。
「……レオン様? い、いや、触れやしませんよ。そんなにヤバいんですか、これ」
「……確証はない。だが、この石には何が仕込まれているか分からん。安易に近づけば、次は貴様がこれの『宿主』にされかねんぞ」
「宿主……? まさか、この石が生きているとでも……」
ロイの問いには答えず、近くに転がっていた鉄兜を拾い上げる。持ち主を失ったそれを、地面に転がる欠片の上から深く被せた。
「……今はこれ以上触れるな。場所を記録し、この一帯を立ち入り禁止にしろ。後日、しかるべき術師を伴ってから正式に処理する」
レオンハルトは兜の縁を泥で固めながら、呪いを閉じ込めるように見据えた。
「これは意図的な、我が領地を狙った襲撃だ。だが、これほどの呪物を使いながら、未だにその姿すら見せぬとはな」
欠片を隠した鉄兜を見つめながら、実体の見えない敵の影を思い描く。
姿を見せぬ敵ほど、そして「目的」が見えぬ悪意ほど、厄介なものはない。ギリッと奥歯を噛み締める。
「……お隣のヤーガー子爵、ですかね?」
「可能性はゼロではない。だが……」
ロイの言葉を否定はせず、その目を谷の入り口、深く濃い森の方へと向けた。
「これほどの術を使える者が、あの小物の配下にいるとは思えん。……もっと底知れぬ何かが、この件に関わっている」
不意に風が吹き抜け、森の木々がざわめく。思わずその奥へと目を細めたが、そこには何もなかった。
『……レオン、もしかして、まだ敵が……?』
「…………」
脳裏に響くユウの不安げな声。それには応じず、右から左へと動く者たちを見渡した。
「総員、撤退する。死者は……今は名を確認するに留めろ。後で必ず迎えに来る。今は一刻も早く、ここを離れるぞ」
「……はっ」
兵士たちが動き出した。疲労困憊の足取りで、それでも懸命に仲間を支え合い、負傷者に肩を貸していく。
その光景を見届けながら、レオンハルトは一瞬だけ目を閉じると、そのまま歩き出す。
「ユウ……とか、言ったな。貴様」
誰もこちらを意識していないのを確認し、小声で呟いた。
『あ、ああ。急にどうしたんだよ』
「言っておくが、私はまだ貴様という異物を認めたわけではない。……呪いの類である可能性も捨ててはいないからな」
歩いていった先には、引かれてきた愛馬がいた。レオンハルトはその鼻面に手を添え、ゆっくりと撫でる。
「だが――今回は、貴様の指摘が的を得ていた。それだけだ」
『おいおい。ツンデレのテンプレみたいなこと言うなよ。……まあ、どういたしまして』
ユウの少し照れくさそうな声が脳裏をかすめる。レオンハルトはそれ以上、口を開かなかった。
戦術的にデモンボアを追い詰めることは、自分たちだけでも可能だっただろう。
だが、あの異常に変異した魔獣が、首元の「石」を砕かれるまで止まらなかったことも事実だ。
もしあの時、ユウが指摘した石の存在に気付かなければ、どうなっていたか分からない。
(……癪だが、今回は借りにしておく)
小さく息を吐くと、愛馬の鐙に足を掛けて、そのまま騎乗した。
*
谷の出口へと差し掛かると、ヴォルフガングが馬を寄せてきた。
「閣下、ワシはこれより数名を連れ、北の砦へ向かいます。砦の状況を確認した上で、周辺の警戒を強化せねばなりません。……して、閣下は」
「私はこのまま屋敷へ戻る。現場に残した呪物の対応を検討せねばならん。それに、他領へ放った偵察の報告も受ける必要がある」
その言葉に、ヴォルフガングは一瞬だけ目を細めた。月光の下で見る主君の顔色は悪い。だが老騎士はそのことには触れず、黙って拳を胸に当てた。
「承知いたしました。……後のことは、この老骨にお任せを。閣下は一刻も早く、セバスの淹れた紅茶でも飲んでお休みくだされ」
「……ああ。砦の守りの役目、頼んだぞ、ヴォルフ」
レオンハルトは一度頷き、馬の首を回そうとして、ふと思い出したように老騎士を呼び止めた。
「ヴォルフ。例の『ヤーガーの贈り物』をここにばら撒いておけ」
その言葉に、ヴォルフガングは一瞬だけきょとんとした。だが、すぐに主君の意図を察し、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「……あの不良品の精霊石ですな? 使い道の限られたものですが、なるほど……『あれ』をここに」
ヤーガー子爵。アルヴェイン家と同じくヴァルシュタイン伯爵を寄り親とする貴族だが、野心家であり、ことあるごとにレオンハルトに『嫌がらせ』をしてくる男だ。
ひと月ほど前、彼から届けられたのは、大量の精霊石であった。
精霊石とは通常、子供の加護を測定する儀式や魔道具の触媒などに使われる、ありふれた代物だ。属性ごとに色分けされており、適合する属性の者が魔力を込めれば精霊を引き寄せて活性化し、様々な用途に利用される。
しかし、ヤーガー子爵から提供された精霊石は、同属性の魔力を持つ者が接近するだけで過敏に反応し、過負荷を起こして砕け散ってしまう。本来なら子供の教育用にも使えぬ不良品だった。それを「辺境の守りに役立ててほしい」と贈ってくること自体、最高級の皮肉に他ならない。
だが、その欠陥こそが好都合だった。届いてすぐ、レオンハルトは屋敷の警戒網に組み込むよう指示した。過敏なだけの石でも、魔力の反応さえ拾えれば、忍び寄る者を炙り出す罠としては十分すぎるほどに機能している。
「泥に埋めろ。……術師の類がこの谷を嗅ぎ回れば、それに反応して石が砕け、その痕跡が残るはずだ」
嫌がらせで送りつけられた粗悪品が、使い方次第で侵入者を検知する仕掛けへと変わっていく。
「承知いたしました。……子爵も、自分の贈り物がこのような形で活きていると知れば、さぞや面白い顔をするでしょうな」
「ふん……案外、その顔を見る日は近いかもしれんな。……行くぞ」
レオンハルトはそのまま手綱を引くと、副官のロイと残りの兵士たちを従え、屋敷へと続く本道へ馬を向けた。
背後でヴォルフガングたちが闇に消えていく中、一行は警戒しつつ屋敷への道を進んでいく。夜の森は深く静まり返り、その闇の奥に何が潜んでいても不思議ではなかった。
『……大丈夫か、レオン。無理するな、とまでは言わないけど、死んだら元も子もないぞ』
「……くどい。……心配など不要だ」
周囲の木々が風にざわめくたび、レオンハルトは剣の柄に手を添えていた。
前方をいくロイは、時折主君の様子を伺いつつも、決して油断なく周囲の闇を射抜き続けている。
幸いにも、屋敷までの道中に彼らを阻む影は現れなかった。
門前には老執事セバスが、ランタンを手に立っていた。その揺れる火が、レオンハルトのたちを照らし出す。
主の帰還を見るなり、セバスが駆け寄った。しかしそのあまりに凄惨な姿を目にした瞬間、一瞬だけ息を呑む。
「おかえりなさいませ、レオンハルト様。……ご無事で、何よりにございます」
「……ああ。報告は明朝にする。今は誰にも取り次ぐな」
セバスの静かな、しかし深い安堵の混じった声を聞き、レオンハルトはようやく肩の力を抜いた。
戦いは終わった。
だが、土の下に封じた呪物の不気味な感触だけは、脳裏から離れなかった。
『……今日は本当に色々あったな』
ユウがぽつりと呟く。
「…………」
『とりあえず、生きて帰ってこられてよかったよ』
レオンハルトは答えない。だが、その言葉を否定もしなかった。彼は静まり返った屋敷の奥へと消えていった。




