第6話 死闘、デモンボア
炎と土煙を押し退け、その巨体が姿を現した。
小山のような体躯。全身を覆う剛毛は針のように逆立ち、反り返った巨大な牙が口元から突き出ている。魔猪――デモンボア。
だが、その姿はレオンハルトの知る個体とは明らかに違っていた。
「ブモォォォォオオッ!!」
咆哮が谷を震わせ、兵士たちの足が止まる。
異様だったのは、その肉体だ。膨れ上がった筋肉に皮膚が耐えきれず、全身のあちこちが裂け、傷口から白い蒸気が噴き出している。瞳は赤黒く濁り、そこには破壊衝動しか残っていなかった。
(これが、本当にデモンボアなのか……? 変異種とも違う。先のハイオークと同じ、何らかの『外因』による強化個体か)
戦慄を覚えながらも、レオンハルトは剣を正面に構えた。
デモンボアは前足を地面に叩きつけ、泥土を高く跳ね上げながら低く身を沈めた。巨躯を支える筋肉が大きく脈打ち、蹄が地面を深く抉る。それは眼前のすべてを圧殺する、死の突進の予兆だった。
『ひいぃっ! な、何なんだよあれは……! 超でかいダンプカーが突っ込んでくるようなもんじゃねえか!』
「くっ……!」
脳内で響くユウの悲鳴に、レオンハルトも奥歯を噛み締める。
鎖も、杭も先の火計で焼失した。だが、本来ならそれは致命的な問題ではない。あの罠は突進の勢いを削り、こちらの犠牲を減らすための保険だった。通常の個体であれば、罠がなくとも今の戦力で十分対処できる。
――だが、目の前にいるのは、その想定を容易く覆す怪物だった。
これほどの巨体と異常な筋力。もし杭と鎖が残っていたとしても、正面から受け止められる保証はない。この突進をまともに受ければ、ヴォルフガングのような重騎士であろうと無事では済まないだろう。
「――総員、散開! 槍兵は左右の岩壁へ張り付け! 前を開けろッ!」
正面を見据えたまま、号令を飛ばす。
だが、デモンボアの始動は、彼らの予測を遥かに上回っていた。
ドォォン、と大気が爆ぜるような音と共に、泥濘と火の粉を巻き上げて怪物が迫る。その勢いに、進路上にいた一人の若い兵士が、恐怖で足がすくみ転倒した。先ほど、火矢を早まって放ってしまった若手だった。
「ひっ……あ、ああぁっ!」
『――ッ!!』
あの人を助けないと。考えるよりもその衝動が走った。だが、今のユウに動かせる身体など、どこにもない。蹴る足も、伸ばす手もない。
『だ、駄目だッ!? このままじゃあ――』
行き場を失った衝動だけが、意識の中で虚しく空転していた。
「――ロバート! 立て、走れッ!!」
叫びと同時に、ロイの身体はすでに動いていた。泥を蹴り、倒れたロバートへと駆け寄ろうとする。
だが、デモンボアの勢いの方が早い。このままでは二人とも潰されるだろう。
――レオンハルトは一瞬でそれを見極め、非情な決断を下した。
「ロイ、戻れッ。命令だ!!」
鋭い声が、伸ばされかけていた腕を凍りつかせる。染みついた命令への反射が、意志より先に足を止めさせた。その、ほんの刹那。
デモンボアの巨大な蹄が、泥に沈んだ若者の背へと落ちる。骨が砕ける鈍い音が、怪物の咆哮を突き破って響いた。
「ロバァァトぉぉッ!!」
ロイの慟哭が戦場に虚しく散った。
デモンボアは亡骸など意にも介さず踏み越え、蹄に鮮血をまとったまま突き進む。頬に散った血飛沫を、ロイは拭うことすらできなかった。
「……っ、この、畜生がぁ……!」
一瞬だけ、ロイの視線がロバートの亡骸へ向く。
あと僅かの距離だった。だが、あのまま進んでいれば、自分まで巻き込まれていた。
頭では分かっている。それでも、新兵一人を救えなかった悔しさは消えなかった。
デモンボアは泥濘をものともせず突き進む。巨体が踏み込むたびに地面が爆ぜ、泥と火の粉が宙を舞った。
「あ、が……ッ!」
「た、助け――」
逃げ遅れた兵士たちは、間一髪で地面へ身を投げ出した。
だが、すべてを避けきれるはずもない。蹄に弾き飛ばされた兵士が地面を転がり、別の兵士は盾ごと踏みつけられて腕を押し潰される。いずれも重傷だった。
(……やむを得ん。ここは賭けるしかない)
鎖を再び張る時間などどこにもない。ここで退けば、デモンボアはそのまま転がる兵士たちの中へ突っ込むだろう。
ならば、今ある手段で仕留めるしかない。レオンハルトは即座に判断を下した。
「ヴォルフ! 第二手を切れ!」
「はッ!」
迫りくる質量を前に、レオンハルトの短い指示が飛ぶ。
「大地の精霊よ、我が呼びかけに応え、堅牢なる守りとなれ――“大地の城壁”!!」
ヴォルフガングが、咆哮と共に巨大な戦槌を地面へ叩きつけた。加護を乗せた衝撃により、谷底の岩盤が轟音を上げて隆起する。
デモンボアの進路上に、巨大な岩壁が立ちはだかった。
「ぬんっ……岩の剛毅を我に! “岩砕撃”!!」
ヴォルフガングはその頂へ飛び乗ると、戦槌を構えた。
岩壁を挟んだ裏――地面を陥没させるべく、上空から大地へ向けて戦槌を振り下ろす。
その瞬間だった。
ズドォンッ!!
岩壁全体が震えた。
デモンボアの突進を受けた巨大な岩盤に、無数の亀裂が走る。
「な、……馬鹿なッ!?」
次の瞬間、岩壁は内側から崩れ落ちた。
岩壁を突破した衝撃がヴォルフガングを襲う。彼は空中で身を捻り、戦槌を盾にして衝撃を逃がす。どうにか着地したものの、両腕は痺れ、口元から血が滲んだ。
「団長ッ!」
ロイが反射的に叫ぶ。考えるより先に、指先へ魔力を集めた。
「火の精霊よ、我が声に応え、その灯を授けよ――!」
放たれたのは、小さな火球だった。本来ならば、あの巨体を止めるほどの威力ではない。それでも、ロイはただ放った。
届かなければ、次の瞬間にはヴォルフガングが踏み潰される。そんな焦りだけで放った一撃だった。
だが――。
先の火計によって、谷底の大気にはまだ火の精霊が濃く満ちていた。本来なら灯火程度で終わるはずの詠唱に、その気配が雪崩れ込むように吸い寄せられていく。
『な……さっきより、光の量が……!』
ユウの視界には、いつもより遥かに多い橙色の光の粒が、ロイの掌へと殺到する様が映っていた。戸惑う間もなく、膨張し勢いを増した火球はデモンボアの右目へと吸い込まれるように直撃した。
「ブモォォォッ!?」
デモンボアが初めて苦痛の咆哮を上げ、巨体が大きく揺らいだ。
いかに理性を失った魔獣といえど、眼球を焼かれた激痛までは無視できなかった。デモンボアは激しく頭を振り、その突進の軸が、わずかに外側へと逸れた。
猛烈な風圧と共にヴォルフガングの真横を通り過ぎた巨体は、背後の岩壁を爆音と共に粉砕し、視界を覆い尽くすほどの土煙を巻き上げる。
「ブモォォォォォォオオッ!!」
土煙の中から、狂ったような絶叫が轟いた。
右目の視界を奪われた狂獣は、もはやレオンハルトたちを見てはいなかった。視界の端に映るすべてのものを敵と見なし、見境なくその巨躯を叩きつけ始めたのだ。
「た、助けてくれ、誰か、誰かッ――」
「死にたくない、俺にはまだ――ッ!!」
兵士たちの絶望の声が戦場に響きわたる。
態勢を立て直すべく、檄を飛ばそうとしたレオンハルトの脳裏に、セバスの言葉が不意に蘇った。
――伯爵様の元へ急使を。
出陣前、執事が必死に訴えていた進言。
もし、矜持も意地もかなぐり捨てて、父に救援を乞うていれば――。部下たちの悲鳴が、固めていたはずの意志を揺らす。
(……何を考えているッ! 己で責務を果たせないからと、他人にすがるのか)
揺らいだ意志を、強引に引き戻す。レオンハルトは奥歯を噛み締めた。
(この状況で打てる手を、必ず見つけ出すッ! それが私に課せられた『役目』だ!)
己を叱咤し、思考を研ぎ澄ませていく。奴を“止める”必要はない。突進の勢いをわずかに“鈍らす”だけでいい。全神経をその一点に注ぎ込む。
*
レオンハルトと視界を共有するユウの精神は、眼前の惨劇に耐えきれず、崩壊しかけていた。
共に戦っていた兵士たちが、次々と動かなくなっていく。
それは映像ではない。血の匂いも、地面の振動も、仲間の悲鳴も――すべてが現実だった。
『……くそ……くそっ……!』
肉体のない魂が、ただ震える。目の前で命が消えかけているのに、何もできない。動かせる身体のない状況が、吐き気を催すほどに悔しかった。
『俺、神様から加護をもらったんだろ!? 世界を救うために……勇者として、ここに来たんだろ!?』
パニックに陥ったユウの脳裏に、あの女神の声が蘇る。
――私の加護を与えよう。
『だったら、何で使えないんだよ! どうやったら、みんなを守れるんだよ! ここで使えなきゃ、何の意味もないじゃないか!!』
極限の恐怖が、ユウに「神の奇跡」という幻想を叫ばせていた。
しかし、それを受けたレオンハルトの意識は、対照的に鋭く、そして氷のように冷え切っていく。
(神の加護だと……?)
今この瞬間も、命を賭して戦っている部下たちを余所に、内なる同居人は見えぬ「奇跡」を求めて泣き叫んでいる。
『……俺、何のためにここにいるんだよ……』
その言葉が、レオンハルトの忍耐の糸を断ち切った。握りしめた剣の柄が、ギチリと音を立てて軋む。
「ふざけるなッ!」
『――っ!』
レオンハルトの怒声が、鉄槌となってユウの意識を打ち据える。
「神頼みしかできぬ者が……世界を救うだと?」
その怒りはユウに向けられたものであると同時に、一瞬でも救援を考えた自分自身への苛立ちでもあった。
自身の運命を他者に委ねるなど、甘えでしかない。その思いを断ち切るかのように、剣を振り払う。
「無力を嘆く暇があるなら、今できることを考えろ! 奇跡など、待っている余裕はないッ!」
その一喝に、ユウの思考が凍りつく。
レオンハルトはまだ十六だ。自分より年下の少年が、震える足で泥を蹴り、全員の命を背負って戦っているのだ。
自分の喚き声が、命を懸けている彼にとってどれほど無価値で、侮辱的なものだったか。
『……そうだな。その通りだ』
叱責を受けたユウの思考が、だんだんと澄んでいく。
安全な場所で震えるだけなんて、大人のすることじゃない。自分はまた繰り返すつもりなのか。理不尽な暴力の前に大切な人を失った、あの日の絶望を。
『守られるだけの存在で終わるなんて、死んでも御免だ』
ユウの意思が、初めてレオンハルトの戦意と同調した。
『思い浮かべろ……猪の習性、そしてあの巨体』
今の自分には、触れる手も、駆ける足もない。
だが、「視る」ことはできる。この世界の常識を知らない自分だからこそ、気付けるものがあるはずだ。
『突破口を、必ず見つける!』
レオンを死なせたくない。みんなを助けたい。その純粋な「想い」が臨界点を超えた瞬間、ユウの魂の奥底で、何かがカチリと音を立てて噛み合った。
『な、なんだ……!?』
――刹那、ユウの視界にノイズが走り、世界の色が反転する。
迫りくるデモンボアの動きがスローモーションのように引き伸ばされていく。その巨体が、透き通るような情報の羅列へと変質していった。筋肉の軋み、血の奔流――そのすべての中に、一箇所だけ明らかに異質な「淀み」がある。
首の付け根。鎖骨のくぼみの奥深くに埋め込まれた、禍々しい黒い石。そこから伸びる赤黒い鎖のような光が、魔獣の脳へ複雑に絡みつき、ギリギリと締め上げているのが見えた。
『……あそこだ』
視えたのは一瞬だった。視界は瞬時に現実へ戻り、赤黒い鎖も消える。
だが、確信があった。あれが魔獣を狂わせ、操っている。あれを破壊すれば、必ず隙が生まれる。
「レオン! 首の右下だ! 筋肉の狭間に『黒い石』が埋まってる!」
「……何?」
唐突な叫びに、一瞬だけ怪訝な反応が漏れる。この目には、何も見えていない。
『それが放つ鎖が、あの怪物を縛っている! そこを突くんだッ!!』
「鎖……だと」
根拠はない。だが、「鎖」と「黒い石」という、あまりに具体的な指摘だった。
見えない何かが奴を操っている――その可能性は、すでに自分自身も疑っていた。ならば、この情報を切り捨てる理由はない。
しかし、とレオンハルトは歯を食いしばる。奴を止められなければ、その一点を穿つことなど不可能だ。
(考えろ……質量に対抗するには、さらなる質量をぶつけるしかない)
魔獣の視力が回復すれば、谷は一方的な虐殺場になる。その前に、戦術を組み立てなければならない。
素早く戦場へ視線を走らせた。燻る倒木、崩れた岩、転がる魔物の死骸。それらを見た脳裏に、妙案が閃く。
(ある……活路はある!)
「ロイ! 奴の意識をこちらに向かせるな! 注意を引くだけで構わん」
唐突な指示に、肩で息をしていたロイが目を丸くした。
「おいおい、あの狂った猪と鬼ごっこをしろってことですか? 無茶を仰る……」
口では軽口を叩きながらも、その掌に魔力を込めていく。彼は即座に指先で火種を転がすと、レオンハルトたちとは逆方向の岩壁へ向かって駆け出した。
「おいこっちだ、この豚野郎! 焼き加減が足りなかったかよ!」
再び放たれた火球が、デモンボアの足元で爆ぜる。視界を半分失い、狂乱状態にある魔獣は、その熱源と挑発に反応し、地を震わせてロイの方へと向きを変えた。
わざと魔獣の右側――「見えていない死角」へと滑り込むように走ったロイは、そこから連続して火球を放つ。爆ぜる炎が岩壁を焦がし、音と熱で魔獣の神経を逆撫でしていった。
「クソッ。長くは保たねぇぞ、レオン様ァ!」
デモンボアは巨大な牙を振るいながらロイを追う。死角を縫うように駆けるロイは、間一髪で蹄を回避した。額には、極限のプレッシャーから脂汗が滲んでいる。
火の精霊が満ちているからこそ、火球も溜めなく放てているが、それもいつまでも続くものではない。
だが、その奮闘によって、貴重な「空白」が生まれた。
「今だ! 全員、魔物の死骸を一点に積み上げろ! 倒木でも瓦礫でもいい、奴の視界を遮る為だッ!」
「なっ……死骸を、ですか!?」
兵士たちが一瞬、困惑に動きを止めた。
「その通りだ。生き残りたければ、指示に従え!」
レオンハルトは剣を鞘へ収めると、泥に半ば沈んだオークの巨体へ駆け寄った。
「男爵様、お待ちくだ――」
制止の声より早く、その腕がオークの脚を掴む。ズルリッ、という音とともに、その巨体が引きずられた。
「……なっ」
『え……?』
周囲の兵士、そしてユウも思わず目を疑った。鍛えた兵が二、三人がかりでようやく持ち上がるオークの巨体が、泥を裂きながら引きずられていく。
『レ、レオンって……とんでもねぇ力があるんだな……』
オーク一体だけではない。レオンハルトは勢いを殺さぬまま、次の死骸へと駆け寄り、再び泥濘へと放り込んだ。
「急げッ、ロイが保つ時間は限られている!」
その声で兵士たちは我に返る。
「は、はいッ!」
主自らが泥にまみれ、なりふり構わず死体を運ぶ。その鬼気迫る背中が、兵士たちの折れかけた心に火を灯した。
「運べ! 男爵様に続け!」「急げッ!」
次々と、魔物の死骸が一箇所に積み上げられていく。オークの巨体、ゴブリンの小さな体、崩れた岩、炭化した丸太――それらを斜めに積み重ねた即席の障害物が、みるみるうちに築かれていく。
『そ、そうか! 車だって瓦礫に乗り上げれば、速度が落ちる……これなら……!』
共有する視界の端で、ユウが息を呑む。
積み上がりつつある障害物を見て取ると、ロイへと視線を動かした。その呼吸は乱れ、足取りも鈍っている。――もう長くは保たない。
レオンハルトは迷わず地を蹴った。
牙をかわそうと踏み出したロイの足が泥に取られる。一瞬、体勢が崩れた。
その隙を見逃さず、デモンボアの巨大な牙が振り下ろされる。
「くっ!」
ロイが死を覚悟した、その刹那。
白銀の剣閃が、デモンボアの右首筋を切り裂いた。
「グルォォォォォォッ!!」
魔獣が苦痛の咆哮を上げ、巨体を大きくのけ反らせる。
「ロイ、離脱しろ!」
ロイは肩で息をしつつも、口の端を上げた。そして、残った力を振り絞って岩陰へと転がり込む。
『効いてる! やっぱりあそこが弱点だ!』
ユウが思わず声を上げた。
デモンボアは首を激しく振り、怒りに任せて牙を振り回す。その血走った眼は、もはやロイではなく、眼前のレオンハルトだけを捉えていた。
(乗った……!)
踵を返し、兵士たちが築き上げた即席の障害物へ向かって駆け出す。怒り狂ったデモンボアも、咆哮を上げながらその背を追ってきた。
レオンハルトが瓦礫を駆け上がり、その向こう側へ飛び降りた瞬間――。
ズドォォン!
巨体が死骸と瓦礫の山へ激突した。
オークの死骸が宙を舞い、岩が砕け、泥が四方へ弾け飛ぶ。それでもデモンボアは止まらない。目の前の障害を踏み砕き、強引に突破しようと前へ出る。
だが、絡み合った死骸と瓦礫、深く沈む泥濘が、その巨体の足を捕らえた。わずかに、その勢いが落ちる。
――それで十分だった。
「今だ、ヴォルフ! 第二手をッ!!」
「承知ッ!!」
雄叫びとともに、ヴォルフガングが残された魔力のすべてを戦槌へ込め、大地へ踏み込んだ。
「大地の精霊よ、我が呼びかけに応え、堅牢なる守りとなれ――“大地の城壁”!!」
戦槌が地面を打ち砕く。轟音と共に、デモンボアの進路上へ巨大な岩壁がせり上がった。
岩壁の頂へ飛び上がった老騎士が、残された力を振り絞り、戦槌を構える。
「ぬおおぉぉッ! “岩砕撃”!!」
精霊の加護を乗せた一撃が、大地へ叩き込まれる。それと同時に、地面に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
デモンボアが岩壁を突破する。しかし、押し進んだ前脚が、その直下で崩れた地面へ深々と沈み込んだ。巨体を支えていた前脚が崩れ、魔獣の身体が大きく傾く。
その一瞬を、レオンハルトは逃さなかった。
「総員、奴の腹を狙え! 足を止めろ! 二度と立ち上がらせるな!」
「うおぉぉぉ!」
兵士たちが一斉に槍を突き出す。
腹部、脚の内側、露出した柔らかな部分へと、無数の刃が突き立つ。
だが――。
「グルォォォォッ!!」
デモンボアは血を流しながらも、なお倒れない。まるで傷など存在しないかのように、巨体が再び動こうとしていた。
『あれだけ傷を負ってるのに、まだ動けるなんて……』
レオンハルトと共有する視界の中で、ユウは魔獣を見つめ続ける。
『もう一度、あれが見えれば……』
デモンボアの異常な生命力の根源があるとすれば、それはあの黒い石しかない。その正確な位置さえ分かればと、ユウは祈るように意識を集中させた。すると――刹那、世界の輪郭が歪んだ。
完全に見えるわけではない。だが、巨大な肉体の奥に沈む異物の存在だけは、ぼんやりと浮かび上がった。
『あそこだ、首の右側……。さっきレオンが斬った場所の少し下だ!』
『そこに黒い石がある! それを壊せば――!』
ユウの声を受け、レオンハルトは先ほど剣を走らせた感触を思い出す。確かにあの一撃だけ、肉を裂いた感覚とは違う、硬い何かに触れた。
ユウの言葉。先ほどの手応え。そして魔獣の異常な生命力。すべてが一つに繋がった。
(右首筋……そこか)
全力で地を駆ける。魔獣の右目は焼けていて、死角から迫る影には気づけない。
「これで……終わりだッ!!」
渾身の一撃が、魔獣の首筋へと突きつけられた。肉を断つ音のあと、硬質な何かが砕け散る手応えが伝わってくる。
「ガ、……ブ、モォ……ッ」
デモンボアの瞳から狂乱の赤が引いていく。
死力を引き出していた『隷属の欠片』を失ったことで、膨張していた筋肉が急速に萎んでいった。地響きと共に、巨大な肉塊が谷底に沈む。
「終わった、のか……?」
誰かが呟いた声が、震えていた。
レオンハルトは答えず、ただ荒い息を吐き続けた。全身から力が抜けていく。視界が揺らぎ、膝が笑った。
「男爵様ッ!?」
駆け寄ろうとする兵士たちを、片手を上げて制する。
「……私に、構うな」
レオンハルトは深く息を吸って呼吸を整えると、ゆっくりと兵士たちを見渡した。
「それよりも……生存者の確認だ。今できることを全うしろ……」
握りしめていた剣が、力なく地面に刺さる。谷底には、犠牲となった兵士たちの亡骸が転がっていた。
勝利と呼ぶには、あまりに凄惨な光景だった――。




