第5話 業火の谷
北の森の奥深くにある谷。
湿地が広がるその地形は、自然が作り出した要害だった。
谷底には泥水が溜まり、ぬかるみに足を取られる。両側には切り立った岩壁が迫り、森から谷へ入る入口付近は狭まっている。大軍が一気に進むには、不向きな地形だった。
レオンハルトたちは谷へ入った直後に馬を下り、馬を谷のさらに奥にある渓谷へ退避させていた。男爵家にとって馬は貴重だ。それに足元の悪いこの谷底では、騎乗しての戦闘はかえって不利になる。
魔物たちは勢いのまま谷へとなだれ込み、湿地へ足を踏み入れる。彼らはまだ気づいていない。この谷が、自らの墓場になることを。
魔物の集団が谷の入口を越えた瞬間、レオンハルトの眉がわずかに曇った。
森の木々を越えてなお、視界の端に映るはずのデモンボアの巨体が見当たらない。押し寄せてくるのは、小柄なゴブリンと醜悪なオークばかりだった。
(……デモンボアが来ていない。砦に残ったのか? いや――)
奇襲を仕掛けた際、デモンボアの視線は確かにこちらを捉えており、明確な敵意も感じた。あの距離なら、こちらへ向かってきてもおかしくなかったはずだ。
それでも、奴は追ってこなかった。
どうやって魔獣を従わせているのかは分からないが、その束縛は想像していた以上に強いのだろう。
(……今は眼前の敵を葬るのが先だ。順番が変わっただけで、作戦そのものは崩れていない)
そう思い直し、レオンハルトは後方で待機している者たちへ目を向ける。
「ロイ!」
「了解です、レオン様!」
己の名を呼ぶ鋭い声に、赤毛を揺らした副団長ロイが即座に応じた。火の加護を宿す彼の瞳が、魔力の発動と共に朱色に揺らめく。
「火の精霊よ、我が声に応え、その灯を授けよ――“灯火”(エンバー・コール)!」
詠唱とともに、掌の上に小さな炎球が生まれる。
『……まただ。今、オレンジ色の光が……?』
ユウの意識が、奇妙な光景を捉えていた。
ロイの掌へ、蛍のような橙色の光の粒が周囲から静かに吸い寄せられ、一瞬で掻き消える。
ヴォルフガングが戦槌を振るったときに見えた、あの茶色の光と同じ現象だった。
『残像とかじゃない……。光が、あの人の中を巡ってる?』
ユウがその正体を掴めずに困惑している間に、ロイの掌には穏やかな火が灯っていた。兵士たちが用意した枯れ草と油の山へ、その火が放たれる。
その瞬間、ゴォッと唸りを上げて激しい炎が立ち上がった。
周囲の兵士たちは弓を構え、矢の先端に油を染み込ませた布を巻きつけていく。だが、目前まで迫る魔物の軍勢と、立ち上る炎の熱とに、指先はわずかに震えていた。
――その時だった。
一人の若い兵士が、合図を待ちきれずに火矢を放った。
「――っ!」
矢は岩壁に弾かれ、燃えたまま地面を転がる。そして、油の撒かれた倒木の根元に火が移った。若い兵士の顔から、血の気が引いていく。
「ば、馬鹿野郎ぉ! 逸るなと言っただろうが!」
ロイの怒声が飛ぶ。
だが、炎は待ってくれない。火が予定よりも早く谷底に広がり始めた。作戦失敗か、その瓦解しかけた空気を、振るわれた剣が引き裂いた。
「狼狽えるな!」
レオンハルトは一歩を踏み出す。その眼は、ミスをした兵士ではなく、眼前の敵だけを見据えている。
「火蓋は切られた! 己の役割を全うしろ! 総員射撃用意!!」
掲げられた剣とその号令が、兵たちの動揺を一瞬で抑え込む。
「……ふう、まったく。これだからレオン様は」
ロイは苦笑を浮かべると、蒼白になっている若手兵士の背中を「気にするな」とばかりに叩いて戦列へ押し戻す。
「聞こえたか! レオン様が切り開いた勝機だ、一矢も余すなッ!」
ロイが吼え、炎の粒子を空間に躍らせる。直後、レオンハルトの腕が水平に振り下ろされた。
「……放てぇ!」
予定より早く燃え広がった炎が、先頭の魔物たちの退路を断つ。
そこへ降り注ぐ火矢。谷底は瞬く間に、阿鼻叫喚の火の海と化した。
「グギャアアァッ!」
緑色の皮膚が一瞬で赤く染まり、身体が炎に包まれる。ゴブリンたちが転げ回りながら、必死に火を消そうと藻掻くが、炎は消えることはない。
その断末魔を目の当たりにした後列の魔物が大きく怯んだ。足を止め後ずさろうとするが、背後には、まだ何十という同族がひしめいている。後方の個体には、前方で何が起きているのかなど見えていない。ただ前へ前へと押し寄せる群れの圧力だけが、列を容赦なく押し出していく。
後ろから来た仲間の体に押し潰されるようにして、次々と炎の中へ弾き出されていった。
倒木に仕込まれた油が次々と引火し、谷に炎が爆ぜていく。
だが、すべてが計算通りに進むわけではない。火の海のわずかな切れ目を突くようにして――「それ」は現れた。
「ガァアアアアアッ!!」
半身を焼かれながらも、一体のハイオークが炎を突き破ってくる。
通常のオークより一回り大きな身体。充血した赤黒い瞳。どす黒く浮き上がる血管。その異様な姿は、痛みすら失っているかのようだった。
「……ッ!? ロイ、右だ! 来るぞ!」
「――お任せをッ!!」
指示に応え、ロイが弾かれたように駆け出す。一瞬でハイオークの懐へ潜り込み、鋭い踏み込みから炎を纏った剣撃を叩き込んだ。
だが、その一撃に皮膚を裂かれてもなお、魔物は止まらない。
「ロイ、下がっていろッ!」
叫びと同時に、ロイの背後から一陣の風が吹き抜けた。
レオンハルトの剣閃が、掴みかかろうとしていたハイオークの腕を正確に斬り飛ばす。さらに流れるような動作で魔物の膝を斬り払い、その巨体を地に伏せさせた。
だが、敵は一体ではない。最前線の兵の一人が、炎の中から現れた別のハイオークの異様な圧力に気圧され、盾を構えるのが一瞬遅れた。
「――ぐ、あっ……!」
ドゴォ、という衝突音が響き、ハイオークが振り下ろした木の棍棒が、革の鎧をひしゃげさせる。兵士の身体が岩壁へ叩きつけられ、それきり、動かなくなった。
『なッ……!? 死んだ、のか。今、目の前で……』
ユウの意識が凍り付く。
レオンハルトの視界を通して見えたそれは、あまりにも現実的な死だった。「ハンスがやられた!」という仲間の絶叫が、共有された耳を介して聞こえてくる。
『う、ぐ……あ、ッ』
本来なら、吐き気を覚えるはずの光景だった。
だが、吐くための胃も、震えるための手も、ここにはない。ただ視界だけが、残酷な現実を映し続けていた。
レオンハルトが見ている限り、ユウもまた見続けなければならない。震える意識を繋ぎ止め、ユウは戦場を見つめ続けた。
一体、また一体とハイオークが炎の向こうから姿を現す。初めて目の前で兵が倒れ、兵士たちの足が恐怖に止まりかけた。
その瞬間、レオンハルトが踏み込んだ。
最も近くにいたハイオークの懐へ潜り込み、振り下ろされた棍棒をかわす。そのまま剣を一閃させ、首を斬り飛ばした。
「怯むなッ、火は味方だ! 押し返せ、一歩も引くなッ!!」
自ら敵陣へ踏み込んだ主の声が、兵たちを現実へ引き戻す。止まりかけていた足が動き出し、兵たちは再び武器を構えた。
だが、その隙に別のハイオークがレオンハルトへ迫っていた。
「ぬぅんッ!」
振り下ろされる棍棒との間に、ヴォルフガングが割って入った。大地の加護を宿した戦槌が唸り、ハイオークへと叩き込まれる。
だが――ハイオークは、両腕を交差してそれを受け止めた。
バキッ、と骨が砕ける音とともに、前腕がぐしゃりと形を変える。並の魔物であれば、そのまま潰れて終わるはずの一撃だった。だが潰れた肉の下から、異常なまでに膨れ上がった筋繊維が瞬時にせり出し、砕けた骨と肉を内側から強引に支え直していく。
「……何っ!?」
ヴォルフガングの顔に、驚愕が走った。
ギチギチと槌と腕がせめぎ合い、あろうことか巨躯を誇る老騎士の足が、僅かに後退する。ひしゃげた腕のまま、なおも凶貌を張り付けたハイオークは、純粋な筋力のみで老騎士を押し返そうとしていた。
「……ならばッ!」
力比べは不利と見たのか、ヴォルフガングが瞬時に脱力し、あえて体勢を崩す。前のめりになった魔物の顎へ、下から戦槌を叩き込んだ。ドゴォッ、という炸裂音とともに、今度こそハイオークは炎の海へと弾き飛ばされる。
その一部始終をみていたレオンハルトが目を見張った。
(ハイオーク如きがヴォルフの一撃を受け止めた、だと……!?)
大地の精霊の加護を宿した一撃は大岩すら粉砕する。
いかに上位種とはいえ、オークなどに止められるものではない。不気味に膨張した身体といい、突然変異とも明らかに違う。
その異様さに疑問を抱きながらも、考えている時間はなかった。
「射てぇ!」
ロイの掛け声と共に、士気を取り戻した兵たちの矢が、炎を逃れた魔物を次々と射抜く。その直後――谷の中ほどまで垂らしておいた縄の先端へ、炎が燃え移った。
火は瞬く間に縄を駆け上がり、谷上で岩を繋ぎ止めていた縄を焼き切る。
ゴゴゴッ、と唸りを上げ、仕掛けられた大岩が魔物の頭上へと崩れ落ちた。
炎と地形による分断で、魔物の統制は完全に失われた。数は確実に減っている。
時折、炎の隙間を掻い潜ってくる上位種をヴォルフガングやロイが連携して始末していく。押されていたはずの戦況は、いつの間にか優勢へと傾きつつあった。
わずかに生まれたその猶予に、レオンハルトは先ほど感じた違和感へと意識を向ける。
(炎による錯乱とも違う……。死力を無理やり引き出されたようだった)
火事が起きた時など、死地に追い込まれた者が、平時ではあり得ぬ力を発揮する――そういう話なら聞き覚えがある。
だが、目にしたものはそれとも違った。膨れ上がった筋肉、裂けて血の滲む皮膚。殺意のみに支配されたような様相は、火事場の馬鹿力などという言葉だけでは説明がつかない。
肉体そのものが、作り変えられたのではないか――そんな可能性が、頭を過った。
その不吉な予感は、地を揺るがす巨大な足音によって現実のものとなる。
(……来たか)
その瞬間――。
ドガァン、という轟音と共に、谷の入り口を塞いでいた岩や瓦礫が軒並み吹き飛ばされた。人の背丈ほどもある岩塊が、まるで小石のように軽々と宙を舞い、炎の海へと降り注ぐ。
ズウゥン、と土煙の奥深くから響く足音が、大地そのものを震わせる。
『で、でかすぎるだろ……アレ……!』
ユウの声が、恐怖に裏返った。揺らめく炎の向こう――災厄そのものが、悠然と姿を現そうとしていた。




