第4話 初陣と蠢く影
男爵領の北に広がる北の森。
昼でもなお薄暗く、木々のざわめきの音だけが不吉に響く。
レオンハルト率いる三十騎は、木々の間を縫うように進んでいた。蹄音を抑え、できるだけ音を立てないよう馬を進める。先頭を行くレオンハルトは金髪を風に流しながら、油断なく周囲へ視線を配っていた。
『おいおい……こんな少数で背後に回り込んで大丈夫なのかよ……バレたら即袋叩きじゃねぇか……』
「余計な声を出すな。黙れないなら、せめて何も考えないようにしろ」
『ひ、酷くない?』
「貴様は戦術を理解していない。そして、それを説明している時間もない」
『……相変わらず感じ悪いな、お前』
ユウのぼやきを意に介さず、レオンハルトは一度も手綱を緩めなかった。
丸一日に及ぶ除霊儀式の疲労は、まだ身体に残っている。だが、極限まで削られた精神は、むしろ研ぎ澄まされていた。
やがて視界が開け、北の砦が見えてきた。古い石造りの砦を囲むように、丸太の防塁と空堀、柵が幾重にも築かれている。
だが、その防備もすでに限界を迎えていた。
四方から押し寄せる魔物の群れが砦へ殺到し、矢が飛び交い、槍が折れる。黒い影が城壁を這い上がり、守兵が次々と引きずり落とされていく。
デモンボアだけは堀の前に留まっていたが、それ以外の魔物はすでに砦の周囲を埋め尽くしていた。
『……な、……なんだよ……あれ……』
ユウはその光景を見て言葉を失った。
ニュースなどの画面越しに見るものとはまるで違う。目の前で繰り広げられているのは、生々しい戦場だった。
ただの精神でしかないはずの自分にさえ、吐き気を覚えるような感覚が込み上げてくる。
「……なんだ、あの有様は」
レオンハルトの低い呟きに、ユウが驚いたように返した。
『え……?』
「恐怖に呑まれ、判断を失っている。あれでは実力の半分も発揮できはしない」
『……お、お前、本気で言ってんのか?』
ユウの怒りが、レオンハルトの意識へ流れ込む。
『あの兵士たち、震えながらも逃げずに戦っているじゃないか! 怖いのは当たり前だろ!』
「恐怖を感じるなとは言っていない」
レオンハルトは淡々と答えた。
「恐怖を抱えたままでも、己の役目を果たす。それが兵士というものだ」
『……っ』
言葉に詰まったユウを置き去りにするように、レオンハルトは砦から視線を外した。
「――だが、見殺しにするつもりはない。この砦を守り、あの者たちを生き残らせる。それが私に課せられた『役目』だ」
レオンハルトは馬を後方へ寄せ、副団長へ視線を向ける。
「ロイ、予定通り先行しろ。進路上に漏れた魔物がいれば、一匹残らず仕留めておけ。我らの接近を奴らに悟らせるな」
「了解ですよ、レオン様。ネズミ一匹逃しゃしません」
不敵な笑みを浮かべて頷くと、ロイは馬の腹を蹴った。だが、並走する一瞬だけ、声をわずかに落とす。
「……レオン様。全部、ご自身で背負おうとなさらないでくださいよ。俺たちは、そのためにいるんですから」
湿っぽさを振り払うように快活な笑みを浮かべ、ウインクを一つ飛ばす。
「じゃあ、先に行きます!」
そう言い残し、ロイは疾風のように森の奥へ消えていった。その言葉に毒気を抜かれたのか、レオンハルトは思わず肩の力を抜く。
だが、すぐに気を引き締めると、鋭く軍令を飛ばした。
「全騎、速度を上げろ! 奴らに悟られぬよう体勢を低く保て。ここからは一刻を争うぞ!」
*
森の奥へと進む一行。
次第に湿地の匂いが濃くなり、倒木が複雑に絡み合う場所へと入っていく。両側から切り立った岩壁が迫り、道は細く絞られていた。
「……ここだ」
レオンハルトが馬を止め、鋭い視線で谷を見渡した。
「幅は狭い。群れが押し寄せれば必ず詰まる。ここを奴らの墓場にする」
指示を受け、兵たちは無言で散っていく。油袋や鎖を運び、手際よく準備を始めた。
遠くで砦の方角から轟音が響いた。怒り狂うデモンボアの咆哮が森を震わせ、兵士たちの背筋に冷たいものが走る。
「急げ。砦が崩れる前に、準備を終わらせろ」
レオンハルトは谷の地形をもう一度確認する。
時間との勝負であることは、誰よりも自分自身が分かっていた。
*
砦の上では、守兵たちが必死に弓を構えていた。放たれた矢が唸りを上げて飛び、魔物を貫く。
「くそっ、もう矢が尽きる!」
「梯子を落とせ!押し返せ!」
怒号と悲鳴が入り混じり、砦は地獄と化していた。ゴブリンたちは粗末な梯子を担ぎ上げ、次々と石壁へ取り付いていく。空堀の縁ではオークが棍棒を振り下ろし、柵を叩き割る。
「まだだ!踏ん張れ!」
隊長の怒号が響く。彼は折れた槍を投げ捨て、剣を抜くと、梯子を登ってきたゴブリンの腕を斬り落とした。
だが、敵は止まらない。梯子は次々とかけられ、壁を這い上がる影が増えていく。矢の雨も、槍の突きも、押し寄せる魔物の群れを削りきれない。
その奥で、巨躯の魔猪が咆哮した。
他の魔物が群がる中、苛立つように空堀の前で足を止める。大地を何度も踏み鳴らし、巨大な牙を砦へ向けた。
飛び越えるのではない。堀も柵も、正面から破壊するつもりだ。
その姿に、兵士たちの足がすくむ。
「もう……駄目だ……」
誰かが呟いた瞬間、砦の背後――森の奥から、鋭い角笛の音が響いた。
砦の上の兵士が、森の奥から飛んできた矢がゴブリンを貫くのを見て、目を見開く。
「後方から援軍だ! 味方だ!」
その叫びが砦全体に広がり、絶望に沈んでいた兵士たちの顔に光が戻る。
次の瞬間、森の影から蹄音が響き、レオンハルト率いる三十騎が魔物たちの背後を突いた。
騎馬隊の奇襲により背後を突かれ、魔物たちの隊列が崩れた。レオンハルトの長剣が閃き、ゴブリンを切り裂く。同時に左右から兵士たちの槍がオークへと突き刺さり、悲鳴と共に魔物の統率が乱れた。
「進め!敵の混乱を突け!」
レオンハルトの叫びが木霊する。
騎馬たちは剣を振るいながら群れを切り裂いていく。ゴブリンが錆びた剣を振り上げるが、馬の突進に撥ね飛ばされる。オークの棍棒が振り下ろされるが、横に逸れることで躱され、次の瞬間には後続の槍で串刺しになる。
敵は背後からの攻撃に完全に虚を突かれていた。
『う、くッ……』
ユウの喉から、苦悶にも似た声が漏れる。
視界の端を、赤黒い血が弧を描いて飛んでいった。それが、魔物のものだと分かっていても、目の前で繰り広げられる光景に動揺してしまう。
『くそ……手が、震えてる。いや、違う。今の俺には手なんてない。なのに……』
ゲーム画面でも、映画のような虚構でもない。目の前で、「命」が消えていく。
あるはずのない身体の感覚に苛まれながら、ふと過去の記憶が蘇った。
――雨のアスファルト
――身に迫る凶刃
――自分を庇い、血の海に沈んだ二つの影
『――っ!』
反射的に、視線を逸らそうとする。だが、この身体はレオンハルトのものだ。ユウの意思で、視界を閉ざすことはできない。
「ハァァッ!」
裂帛の気合とともに、レオンハルトの剣が閃いた。
オークの首が宙を舞い、血飛沫が舞い散る。力任せの一撃ではない。肩から腰へと流れるその動きは、幾千の鍛錬を積んだ者だけが辿り着ける軌跡だった。
『お、おい……レオン、ちょっと……』
「黙っていろッ!」
血に濡れた剣を振り払いながら、レオンハルトは冷ややかに吐き捨てる。
『こいつ……手慣れてるのか』
戦慄とともに漏れたユウの一言に、答えはなかった。
レオンハルトは一切の躊躇なく剣を振るい続けている。彼にとってはきっと、見慣れた日常の延長でしかないのだろう。
だが、ユウにとっては違う。目の前で続く光景のすべてが、生々しい現実感を保ったまま押し寄せてくる。
「……さぞかし平和な暮らしをしてきたのだな。命のやり取り一つで、そこまで動揺するとは」
『な、何だよ、その言い方……。誰かが死ぬのが当たり前なんて、そんなの……おかしいだろ……っ!』
目の前で、オークの首が泥の中へ落ちていく。その惨状から目を逸らしたくても逸らせずにいるユウへ、レオンハルトは冷めた声を投げかけた。
「何を甘いことを……。戦場にある選択肢は二つだけだ。敵を倒すか、己が倒れるか。それだけだ」
剣先から血を払い、レオンハルトは内なる同居人へ淡々と告げる。
「貴様を即座に排除できぬ以上、せめて邪魔だけはするな。黙って見ていろ」
『……分かったよ』
ユウはそれ以上、何も言わなかった。逃げることも、目を逸らすことさえも許されないのなら、この現実を受け入れるしかない。
その時、戦場に似つかわしくない快活な声が響いた。
「――おっと、レオン様。戦場で独り言とは、珍しいですね」
レオンハルトの横を、一騎の影が疾風のごとく追い抜いていった。
副団長ロイだ。彼は手綱を片手で操りながら、腰の長剣を流麗な動作で引き抜く。
「火の精霊よ、我が呼びかけに応じ、彼の者を焼き尽くせ! “焔刃”!」
ロイが叫ぶと同時に、その剣身がボッと真紅の炎を吹き上げた。ユウの視界には、小さく輝く赤い光の粒子たちが、ロイの周囲から剣身へと吸い込まれていく様子が映っていた。
『う、うわ! 剣が燃えた!?』
「黙ってみていろと言ったはずだ」
ロイはそのまま、棍棒を振り上げたオークの懐へ滑り込んだ。炎を纏った刃が横一文字に閃き、その厚い脂肪ごと肉を焼き斬る。「グアアッ!」という悲鳴と共に、周囲のゴブリンを巻き込んで焼き払っていく。
「よし、一丁上がりだ! 団長、道は作りましたよ!」
快活に笑ったロイは、まるで料理の仕上げでもするかのように、次なる敵へと馬を飛ばしていった。その戦いぶりは軽やかで、戦場をまるで祭りの会場に変えてしまうような、不思議な明るさがあった。
その背中を見送るように、今度は重厚な鎧の音が響いてくる。
「……ふん。ロイの小僧め、相変わらず騒々しいわ」
威厳を滲ませた低い声とともに、老騎士ヴォルフガングが戦槌を構えた。その瞳に、静かな闘志が宿る。
「……大地の精霊よ、その猛き怒りを、我が一撃に宿せ」
戦槌の表面に、目に見える変化が走った。土砂が渦を巻くようにそれを覆っていく。その瞬間、ユウの視界に「異変」が起きた。
『……え? いま、何か……』
瞬きをするほどの一瞬。戦場の泥濘や周囲の岩陰から、淡い茶色をした「光の粒」が立ち上るのが見えた。まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、それらはヴォルフガングの戦槌へと猛烈な勢いで収束していく。
だが、ユウが驚きに目を見開いた時には、その光景はすでに消えていた。
『な、なんだ……? いま、周りの光が爺さんの武器に吸い込まれたみたいに見えたぞ!?』
「光だと……? 何を言っている」
レオンハルトは前方から視線を外さない。
ユウが自分の見たものは錯覚だったのかと戸惑う間にも、ヴォルフガングは渾身の力を込め、戦槌を振り下ろした。
「ぬおおおおォォッ! “大地の怒り”(グランド・レイジ)……!!」
戦槌が地面に激突した刹那、オークたちの足元の大地が突如として隆起する。
ゴゴォン、と複数の土柱が噴き上がり、オークたちを空中高く跳ね上げた。衝撃で他の魔物も跳ね飛ばされ、群れ全体に混乱が伝播していく。
『じ、地面を操るなんて……これが“精霊の加護”……ってやつなのか』
「ヴォルフを老兵と侮るな。“地鳴りのヴォルフ”の戦技は健在だ」
大地を抉るかのような一撃にユウが驚き、レオンハルトはどこか誇らしげに言葉を継いだ。ヴォルフガングの一撃によって、魔物たちが混乱したこの瞬間を逃す手はない。右手の剣を掲げ、合図を送る。
「退け!」
その指示に三十騎は踵を返し、密集していた魔物群の中心から一気に離脱していく。矢のように尖った隊形を保ったまま、南東の湿地帯を目指した。
騎馬隊の突然の離脱に、ゴブリンたちは甲高い声を上げ、オークたちは怒号を響かせた。
「ギギギッ!」
短剣を掲げた小鬼たちが、逃げる騎馬隊へと殺到してきた。
混乱の中にも、明確な怒りが滲んでいるのが伝わってくる。背後から襲いかかった卑怯者どもが、恐れをなして逃げ出した――魔物たちには、きっとそう見えているのだろう。
多少の損害は受けたものの、なお数では圧倒的に自分たちが勝っている。奴らを逃すな、と言わんばかりに、群れのあちこちで追撃を促す甲高い叫びが飛ぶ。
オークたちもまた、獲物を逃がすまいと棍棒を振り上げ、重い足音を響かせながら追ってくる。
統率を失った魔物の群れは、その勢いのまま、待ち構える谷へと雪崩れ込んでいった。
*
騎馬隊が巧みに弧を描いて撤退していく。魔物たちは嘲るような哄笑と咆哮を響かせながら、谷の方角へと誘い込まれていく。
――その様子を、遥か遠くから見つめる者がいた。
森の奥、朽ちた倒木に背を預ける暗い影。
漆黒の法衣に包まれた痩身のシルエットが揺れる。フードの奥に覗くのは、血のように赤い双眸だった。その唇が、不快げに歪む。
「愚かな豚と小鬼め……目の前の餌に食いつくことしか知らぬのか」
吐き捨てるような声だった。
視線の先では、魔猪が咆哮し、巨躯を震わせて森を踏み砕いている。群れの中心として砦を蹂躙させるはずだったその巨獣までが、レオンハルトたちの挑発に乗り、追撃へと加わろうとしていた。
「落ち着け……貴様の役割は、この砦を潰すことだ」
男が手をかざすと、握られた漆黒の石が、禍々しい紫色の光を放った。呼応するように、デモンボアの首筋に埋め込まれた黒い石の欠片が脈打つ。
巨体がびくりと震え、逃げる騎馬隊へ向けていた頭が、無理やり引き戻されるように動きを止める。
「ブモォ……ッ!!」
喉の奥から漏れる唸り声。前へ進もうとする脚と、それを押し留めようとする意思とがぶつかり合っているのがわかる。巨体は何度も向きを変えては地面を踏み鳴らし、苛立たしげに鼻を鳴らした。
その様子に、男は眉をひそめる。
「完全には抑えきれぬか。対象を増やすごとに、制御が不安定となる上に……」
言葉を一度止めると、握りしめた石を忌々しく睨みつけた。黒曜石のように光るその石には、奇怪な紋様が刻まれている。だが、表面に幾つかのひび割れが走り、紫電がバチバチと漏れ出していた。
「たかがこれしきの負荷で、石が悲鳴をあげるとはな。これでは、戦力の維持すらままならん……術師どもの無能ぶりには反吐が出る」
デモンボアが咆哮を上げるたび、紋石の亀裂はさらに深く、残酷に刻まれていく。
やがて、パキンと鋭い音が響き、紋石から制御の糸が消え失せた。同時に、デモンボアの首に埋め込まれた『欠片』は、紋石との繋がりを断たれたことで暴走を始める。
「ブフッ、グモォォォォオオッ!!」
魔獣の鼻孔から、異常な蒸気が噴き出した。行き場を失った魔力が体内で逆流し、筋肉繊維を内側から無理やり膨張させていく。皮膚が裂け、血が滲むのも構わず、デモンボアは一回り以上巨大化したかのような威容へと変貌した。
「ほう……」
男の赤い瞳が、興味深そうに細められる。
「これは……制御を離れた『欠片』が、生物としての枷を焼き切ったのか。肉体の崩壊と引き換えに、死兵のごとき力を引き出すとは。想定外だが、悪くない収穫だ」
理性を完全に焼失した魔獣は、レオンハルトたちが去った方向を見定め、地面を抉る勢いで走り出した。その速度と踏み込みの重さは、先ほどまでの比ではない。
「フン……まあ良い。完全な制御には至らなんだが、≪隷属の紋石≫の試験運用としては上々だ」
男は、亀裂の走った紋石を丁寧に懐へと収めた。そして、狂乱に突き動かされて走り去っていく魔獣の背を、昏い愉悦を湛えた瞳で見送った。
「これ以上の長居は無用。早々にこの成果を持ち帰り、次の「型」への糧とせねばなるまい。……『欠片』の回収は、後からでも事足りる」
砦での攻防や、陽動に回った手勢の規模を見る限り、この地の兵は小規模な寄せ集めに過ぎない。変異して荒れ狂う魔猪の圧力を前にすれば、集落もろとも蹂躙され尽くすだろう。回収は、それからでも遅くはなかった。
「魔物を操る術理……これが完成すれば――」
その言葉の続きは、形にならない冷笑と共に風に消えた。
男にとっては、これから始まる凄惨な光景も、そこに散る命も、心動かされる対象ではない。長年抱き続けてきた悲願を成し遂げるための、些細な試金石に過ぎなかった。
「さて……。人間どもめ、せいぜい足掻くがいい」
低く、地を這うような嗤い声が森の静寂に溶けていく。黒装束の影は、最初からそこには存在しなかったかのように闇へと沈み、姿を消した。
残されたのは、血の匂いを運ぶ風と、砦の兵たちを震撼させる魔獣の遠吠えだけだった。




