第11話 帰路の異変
翌朝、伯爵別邸の中庭には、出立の支度を整えた一行の姿があった。
馬に荷を括りつける物音が響く中、ゲルハルトが姿を見せる。
「……発つのだな」
「はい」
レオンハルトは短く応じ、頭を垂れた。
「一つ、閣下にお願いしたき儀がございます」
「申せ」
「呪術に詳しい者を、しばらく男爵領にお貸しいただきたく存じます。……加えて、伯爵家の書庫に収められている、女神エルセリアに関する書物も」
ゲルハルトの片眉が、僅かに動いた。
「呪術と、女神の書……妙な取り合わせだな」
「……呪術については、例の黒い石について徹底的に調べたいのです。あの石による支配を無効にする方法があれば、今後の対策にもなります」
レオンハルトは、あえてそれ以上を語らなかった。
「女神エルセリアについては、精霊の母とも称される存在です。精霊の変質について、何か記されていないかと思いまして」
「……そうか」
ゲルハルトはしばしレオンハルトを見つめた。
その説明だけで、全てを理解したわけではない。だが、息子が求めているものが、単なる対策のための知識だけではないことは察していた。
「分かった。書物については、後日、然るべき者に届けさせよう」
「ありがとうございます」
レオンハルトは頭を下げる。
ゲルハルトは小さく頷くと、顎に手を当てた。
「……それと、呪術師であったな」
呪術については、黒い石への対抗手段を探しているのは間違いない。
だが、それだけではないのだろう。
「呪術に明るい者ならば、ハインツがいる」
「ハインツ……エドガー・ハインツが、ですか」
「元より、あの黒い石の調査にあやつを当てたのも、その造詣あってのことだ。……そのまま、男爵領に残留させる。好きに使え」
「はっ、感謝いたします」
ゲルハルトは返事を聞くと、小さく頷いた。
「フレデリカも、当面は領地に留め置く。……領地の守りに役に立つだろう」
「……はっ」
自分が戻るにもかかわらず、姉を引き続き領地に残す。
その判断に込められた意図を、レオンハルトはあえて問わずとも察していた。
「……私は、しばらく王都に残る」
「それは……」
「陛下より直々に、此度の一件を会議する場への同席を命じられた。……陛下は、関係する者を絞った上で、今後の対策を協議されるおつもりなのだろう」
「……承知いたしました」
「道中、決して気を抜くな」
それだけを言い残すと、ゲルハルトは踵を返す。レオンハルトも馬へ向かい、一行は王都を後にした。
*
オルトリンデ公爵領へ着いたのは、それから三日後のことだった。
王都を離れてからの道中、特に大きな問題はなかった。
だが、一行の間には、どこか落ち着かない空気が残っている。
王都で目にしたものだけが理由ではない。
魔物を操る黒い石。変質した精霊石。そして、翼の生えた黒装束の者。
いずれも未だに正体が分からず、何が起きているのかさえ掴めていない。その得体の知れなさが、言葉にし難い不安となって、一行の中に残っていた。
やがてオルトリンデ領の街並みが見えてくると、張り詰めていたものがわずかに緩んだ。
出迎えたハインリヒへ、レオンハルトは型通りに謁見の首尾を報告した。
黒い石の脅威が国としても看過できぬ事態と判断され、対応が進められつつあること。そして、精霊の変質について王宮で示したことも、あくまで仮説であると前置きした上で伝えた。
「――そうか。事が事だ、動きが早いに越したことはあるまい」
ハインリヒは重々しく頷く。それ以上、深く踏み込んでくることはなかった。
「今宵は、ゆるりと休まれよ」
労いの言葉と共に、一行はそれぞれ宛がわれた部屋へと下がっていった。
客室で荷を解いていたレオンハルトに、ユウが声をかける。
『なあ、レオン。いろいろありすぎて、聞きそびれてたんだけど』
「……何だ」
『……あの精霊鑑定士のことなんだけどさ』
レオンハルトの手が止まる。
『あの人、いったい何者なんだ?』
その問いにすぐには答えず、レオンハルトは荷を置き、寝台に腰を下ろした。
やがて静かに口を開く。
「……精霊鑑定士は、全ての精霊を視ることができる。私が知っているのは、それくらいだ」
『全ての精霊……それって』
ユウの言葉が途切れる。レオンハルトは腕を組み、視線を僅かに落とした。
「……ああ。その点では、貴様と同じだ」
『……やっぱり、そうだよな』
ユウはあのときの光景を思い返していた。
『……今まで見てきた人たちとは、何か違う』
ヴォルフガングも、ロイも、エリザベートも、加護を持つ人たちはそれぞれの精霊を従えていた。だが、あの鑑定士の周囲にいた精霊たちは、それとはまるで違っていた。
属性を問わず、様々な精霊が彼女の傍へと集まり、従わせるのではなく自然に交流しているように見えたのだ。
『……なんなんだろうな、あの人』
「正体については様々な憶測があるが……私が知る限りでは、代々、精霊を視る力を受け継いできた一族というだけだ」
精霊と深い関わりを持つ存在については、古い記録にも幾つか残されている。だが、精霊鑑定士とそれらを結びつけるだけの根拠はない。
『……まあ、レオンにも分からないなら、考えても仕方ないか』
ユウも、それ以上は何も言わなかった。
*
夜も更けた頃、エリザベートはハインリヒの執務室を訪れていた。
「して、道中はどうであった」
ハインリヒは、エリザベートから提出された報告書に目を通しながら、問う。
「――報告いたします」
エリザベートは、静かに言葉を選びながら語り始めた。
「王都までの道中に問題はございませんでした。魔物などとの遭遇もなく、予定通りに王都へ到着しております」
「……男爵の様子は?」
「従者たちと軽口を交わすなど、穏やかに過ごされていました。かつてのような、余裕のなさも感じられません」
「……以前とは違う、と」
「はい。何に影響されたのかまでは分かりませんが、以前よりも人との接し方が柔らかくなったように思えます」
ハインリヒは黙って聞いている。
「それから、王都を発つ際、ヴァルシュタイン伯に二つのものを所望されていました」
「ほう」
「呪術に詳しい者と、女神エルセリアに関する書物です」
「……女神エルセリア、か」
ハインリヒが初めて報告書から顔を上げた。
「はい。男爵は、精霊の変質について何か手掛かりがないかと考えておられるようでした」
「他には?」
「伯爵家のご令嬢、フレデリカ様も、当面は男爵領に残ることになったそうです」
「……あの『嵐の令嬢』をか?」
「はい。ヴァルシュタイン伯は、領地の守りに役立つだろう、と」
そこまでを語り終えると、エリザベートは口を噤む。
それ以上、語れることはなかった。精霊鑑定士とのやり取りも、その後に起きたことも、彼女自身が立ち会っていない以上、知りようがない。
ハインリヒは、しばし黙したまま、娘の顔を見つめていた。
「……そうか」
それだけを返すと、報告書の端を揃えて、卓上に軽く打ち付け整える。
「――引き続き、男爵領まで同行せよ」
「……お父様?」
「護衛としての任だ。念のため、な」
それ以上の理由は語られなかった。エリザベートも、あえて問い返すことはしない。
「畏まりました」
一礼して退室するエリザベートの背を、ハインリヒはしばし見送っていた。扉がパタン、と閉まり、部屋には静寂が戻る。
(――何かが、動いているな)
それが何かまでは、ハインリヒにも分からない。だが、娘の語った一つ一つの事実が、やがて大きなうねりへと繋がっていくような予感があった。
*
公爵領を発ち、一行はヴァルシュタイン伯爵領へと入った。
見慣れた領地の光景に、誰からともなく肩の力が緩む。
「もうすぐ、うちの領地ですね」
ロイが呟くと、馬車の中からリゼットが顔を出した。
「やっと戻ってきましたねっ……もう、胃が限界でした」
『俺も、そろそろ我が家って感じがしてきたな』
脳裏で、ユウが小さく笑う気配がした。
レオンハルトは、それに応じることなく、前方へと視線を向けたままだった。
伯爵直轄領を抜け、男爵領との境が近づいてくる。
見慣れた木々の連なりに、レオンハルトの肩からも、僅かに力が抜けた。
――境界を示す石碑が見えてきた、その時だった。
前方の空気が、にわかに変わった。
風が止んだわけでもない。だが、木々のざわめきが遠のき、辺りから生気が失われていくような、不自然な感覚が広がっていく。
「む……!?」
先頭を進んでいたロイが、思わず手綱を引く。
「こりゃあ、一体……!」
周囲を見回す。
これまで感じていた火の精霊の気配が、急速に薄れていた。草木や自身の周りに漂っていたはずの火の精霊が、次々と姿を消しているようにしか見えない。
『な、なんだ……!? 何なんだよこれッ!』
ユウの視界には、木々や大地の周囲に漂っていた無数の精霊たちが映っていた。これまで穏やかに漂っていた彼らが、次々と動きを乱し、とりわけ火の精霊たちの姿が大きく変わり始めている。
『周りの精霊が……火の精霊がッ! さっきまで橙色だったのに、蒼く……濁って……!』
橙色の光を纏っていた火の精霊たちが、濁った蒼へと変じていく。やがて何かに引かれるように、上空へと巻き上げられていった。
『みんな上に……上空に巻き上げられてる!』
精霊たちは抗うような動きを見せながらも、次々と空へ引き上げられていく。その異様な光景を前に、ユウの声がさらに震えた。
『う、上だッ!』
ユウの叫びに、レオンハルトは反射的に顔を上げた。
ロイとエリザベートもレオンハルトにつられて上空を見上げる。
そして、その目が驚愕に見開かれていく。
「――ッ!」
空を覆うように、無数の蒼い光が浮かんでいた。
それが何なのかを理解するより早く、レオンハルトの怒号が響き渡る。
「――散れぇッ!」
上空に浮かんでいた光が、一斉に地上へ降り注ぐ。それは蒼く燃える焔の玉となって、隊列の中へ次々と落下していった。
「う、うわぁぁぁ!?」
男爵家の護衛兵のうち、五人が炎に呑み込まれる。同時に、公爵家から同行していた女性騎士の三人にも蒼い炎が直撃した。
彼らの全身が青白い炎に包まれる。
だが――そこで起きた光景は、通常の炎によるものとは到底思えなかった。
倒れ伏し、炎に包まれた兵士たちの姿が、焼け落ちることもなく、その場で輪郭を失っていく。鎧も肉体も、煤が風に散るように、音もなく消えていった。
その場に残されたのは、地面に刻まれた人の形をした黒い焦げ跡だけだった。
「な……!?」
ロイは言葉を失ったまま、消えた仲間たちがいた場所を見つめている。
『そ、そんな……人が、一瞬で……消えた!?』
ユウの慄くような声が響く。レオンハルトすら、目の前で起きた光景を理解しきれずにいた。
エリザベートもまた、剣を抜くことさえ忘れたように、その光景を凝視している。
「……何、なの……これ……」
その時、馬車の扉が勢いよく開く。
「い、一体何事ですかっ!?」
飛び出してきたリゼットは、目の前の光景を見た瞬間に言葉を失ってしまう。
その視線の先、消えた兵士たちがいた地面には、人の形をした黒い焦げ跡だけが残されていた。
「こ、これは……あの時の……」
リゼットの脳裏に、かつて目にした光景が蘇る。
レオンハルトはすでに剣を抜き、周囲へ視線を走らせていた。
「全員、構えろ!」
残った護衛兵たちが一斉に武器を構え、ロイも剣を抜いて隊列を立て直す。エリザベートは女性騎士たちへ目配せし、リゼットも杖を掲げた。
誰もが次の攻撃に備え、上空へ意識を向けた、その時だった。
空から、何かが落ちてくる。
一瞬のうちに地面へと迫った人影は、そのまま大地へ降り立ち、激しい土煙を巻き上げた。舞い上がった土埃の向こうに、その姿がぼんやりと浮かび上がる。
「くっ……!」
レオンハルトは左腕で目元を覆う。
やがて土煙が晴れると、そこに立っていたのは、全身を黒装束で包んだ者だった。
その者は一同を見渡し、レオンハルトへ視線を向ける。
フードから覗く口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「ようやく会えたな」
その影の中で、紅い双眸だけがまっすぐに見据えられていた。




